11.「飽和」①


「個は、自己の遺伝子までにおける全ての権限を保有し、他の社会的・身体的・精神的立場/権限をおかさない限り、その自己に関する全ての権限を自由に扱う事を可とする」


目の前の女が読み上げた法———「自己心体管理法」は2555年【日叛】創成から半年後に掲げられた法。自らを犠牲とすることで生き永らえることを選択し始めた人類に、自らのデコイを自由に扱う権利を与えた‥とされる法である。


「…あの女、多分こういう事を見越してあんな法をつくったのかしら」


尖った口調とは裏腹に、女が髪を耳に掛ける仕草は雅そのものであった。

化粧無しでも恥ずかしくないほど肌はきめ細かく、二十代・・・の女性には珍しく毛髪は黒。部屋着からのぞく腕も細く、しなやかで健康的。きっと普段から適度に運動をしているのだろう。


「こんにちは」


横から声を掛けると、女は小さな悲鳴を上げてソファに倒れ込んだ。

一人暮らしのマンションの一室で、見知らぬ少年に声を掛けられたのだから無理もない。


「びっくりした。こんにちは…僕」


それから何事もなかったように整然とボクの方へと振り返って女は挨拶をかえした。

新鮮な反応だ、とボクの胸が僅かに弾む。


「—————赤」


そして。いつも通りの奇異な視線がボクの首へと突き刺さる。

これが本当の刃であったならば、ボクは何千回も死んでいるのだろうけれど、

んでも生きられる「かれら」と違って「ボク」は死んだら死ぬしかない。


「‥‥本物?」

「良かったら触ってみます?」



  「かれら」になる前の———無帯の女。

  赤帯で、有限の身の———デコイ不作成者の「ボク」。


ボクらに共通するのは、まだ死んでいない・・・・・・・・ということだけだった。




「———へえ、こうなってるんだ。丈夫で、弾力があって‥‥肌も悪くなってない」

「ボクはあまり好きじゃないけどね」

「‥苦しいから?」

「‥‥そうですね」

「ボク。どこから来たの?」

「記憶の海から」

「え、なにそれ?」


首から外した赤帯を物珍しそうに見つめる女をよそにボクは部屋の中を見回していた。女性の家に入る機会など今まで皆無であったので、世にいう一般的な女性宅をボクは知らない。


だから正直な感想を述べるとすれば、女の部屋は普通であった。


1LDKのマンションの一室。

リビングにはソファ、モニター、テーブルと小さめの棚が数台。

化粧品棚には選りすぐりの一軍のみが置かれ、本棚には革製の本型のカバーが取り付けられた電子書籍用端末と紙の本が数冊のみ。衣服は全て備えつきのクローゼットに納められているため量自体はそれほど多くはないのだろう。


「あれは…」


‥一つだけ気になった物があるとすれば、

リビングの隅とダイニングテーブルに飾られた花。

花瓶にそれぞれ一輪ずつ入っており、どちらも種類の異なる花であった。


リビングのものは黄色蒲公英から白い花弁を生やしたような花で名前はデージー。和名では雛菊という…私的なイメージではあるが花占いなどでよく手折られる花だ。


ダイニングにあるものはガラスコップに入った小さな花。

船をひっくり返したような紫の花弁が特徴的だが、花の名前までは分からない。

…別に花を愛でる習慣はないのだが、道すがら手折ったものを適当な容器に差し込む飾り方は嫌いではない。


「あぁ、あの花? ツリフネソウっていうの」

「…へえ。あれが」


むかし本で見た名前だ、とボクは納得した。


「…ところで、お姉さんは何をしているのですか?」

「・・・」


素朴な質問を投げると女は身体を硬直させて黙り込んでしまった。


特に意図があって尋ねたわけではない。

ただの話のネタ、もしくは興味本位で聞いてみただけの、日常会話というか社交辞令というか。…言い訳は多々あるけれど、とにかくボクは女の地雷を踏んでしまったらしい。


「何も。私はなにもしてない。ただ、生きているだけの女よ」


光のない目を向けながら女はそう答える。



  子どもたちを救うために自らを犠牲にする、身勝手な少年。

  学生という職に就き、青春を謳歌したい女学生。

  死ぬことで、生きることに価値を見出す男。

  突出した愛情から「同じ」を求めて、愛人に自分を殺させた少女。


異質な「かれら」との記憶の中でボクが出会ったのは新世界に生かされている人。

いわゆるニートと呼ばれる存在であった。



                ・



「『永遠の生を与えます』『労働しなくても良いです』

 『好きな事に仕えていく世界をあげましょう』

‥‥あの女が作り変えた世界は私のような奴には生きづらい世界だった。

誰だって好きな事や夢中になれるものとか何かを「やりたい」っていう欲とか熱意があるわけじゃない。創る人がいたら費やす奴もいるし、一生懸命になれる奴もいれば消極的な奴もいる。…いずれも後者に当たる私は貪るだけの消費者って、ところかしら」


笑えないわね、と嘲笑の鼻息が漏れたところで女はソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。「何か飲む?」と聞いてきたのでボクは冷たい牛乳ミルク珈琲を注文した。


「…確かに生活を営むための労働は無くなったけど、それでも働いている人は沢山いる」


キッチンをノックする音が聞こえ、女が「豆乳ソイ」と書かれた容器をボクの方へと向ける。「豆乳でもいいかしら?」という無言の確認にボクは小さく頷いた。


「‥目標と挑戦と達成。

その過程に立ち塞がる挫折や後悔や失敗を乗り越える…熱意?みたいなものを、その人たちは持っているのだと思う。自分の欲求を満たすために考え・行動する力‥みたいな。」


それから女は「人が動くための燃料みたいなものかしら?」と付け加えたが、面白い表現だとボクは数度頷いた。


「…熱、か」


いつかの学び舎で出会った女学生の姿が連想される。


『人は年齢を重ねると「熱」を失う』

彼女はそう話していた。時の流れによって精神と身体を摩耗し、いつしか内にあったはずの熱が消えていくのだと————。



 ・・・ただ、点いていた火が消えるのと。元から火が点いていない・・・・・・・・・・・のでは話は違ってくるのだが。



「でも、何になりたいわけでもない…「熱」のない私は其処そこへはいけない」


   カチ‥カチチ‥カチカチ…


マドラーがグラスの中の黒い液体を掻き回す。時折、コップの淵とぶつかって生まれた不規則なリズムは久しく忘れていたかつての・・・・日常をボクに思い出させた。


「飛び込む勇気が無いわけじゃない。ただ飛び込んだ先の、未来の私が見えないから…」


砕けた氷がグラスに流し込まれると、今度はカラカラ‥と涼しげな音色が聞こえ始めた。


「当たり前だけど、今の繰り返しが過去になって未来を創っていくんだよ。

過去がどうだったから未来がこうなる、ってわけじゃない。

そのときの「今」を積み上げて初めて未来を掴むことができるし、過去の累積を顧みて新たな「今」を築くこともできるんだ・・」


氷は徐々に解け、マドラーと氷とグラスのハーモニーは終わりを迎えていく。


「・・だから。怠惰と妥協と惰性に流れて、ただ生きているだけの私に——」


言葉と同時にハーモニーは止まり、コポコポ‥と何かを注ぐ音が聞こえた瞬間にボクは初めて女の手元に視線を向けた。


「はぁ…」


重力と僅かに残った遠心力によって白濁とした液が徐々に黒を侵食する。

それはまるで溶け落ちる雪のように緩やかで、神秘的で、けれども日常的で‥‥何と美しい光景だろうとボクは久しく頬を緩ませていた。


「——って。何言ってるのかボクには分からないか」


女は乾いた笑い声をあげながらボクに豆乳珈琲を差し出した。


「ありがとう」


そう礼を述べると、女は唐突にボクの頭に手を置いて一言。


「こんな事をボクに言うのは不謹慎かもしれないけれど、私は君になりたいよ」


「ボク」は黙って珈琲を口にする。

淡白で、時々濃い苦味が奔るそれは‥‥ボク好み・・・・の珈琲であった。

きっと牛乳の代わりに入れた豆乳がきっと良いコクを出しているおかげだろう、と自分に思い聞かせながら。ボクは小さく「おいしいですね」と妥当な答えを返すことにした。



久しく忘れていた日常に、一杯の親切な珈琲に免じてボクは女の言葉を聞かなかったことにしたのだ。


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