1-6「理想の花嫁はあなたの中に」
視線の先では、黒々とした南太平洋の海面が、穏やかに波打っていました。
「私は、どうだって良かった。私は
彼女は黒い帽子のつばを上品な所作でつまみあげ、水平線へ沈みゆく一番星を見やりました。
「私は、心の底からセリアンが好きだった。愛してた。今だって愛してる。私は、それで満足だった。セリアンの望む花嫁になれるなら、それでよかったの。それがよかったの」
ガラティアさんの頬を、一粒の涙が滑り落ちました。
「でも、セリアンは次第に、私の愛情を信じられなくなっていった。君は僕を本当に愛しているのか。愛しているのなら証明してみせろ。僕たちは、愛し合っていることをみんなに証明しなければならないんだ。って。どうして、そうなってしまったのかしら。今でも、私には分からない……」
ガラティアさんは黒いワンピースドレスの胸元を、両手でぎゅっと握りしめました。
「セリアンは、他の女性と仲良くして見せたり、私に他の男を近づけたりした。苦しかった。彼が私を試すことそのものが、苦しかった……!」
わたしは、医師ではありません。ですが、二年間の研修で学んだ知識の中に、エワルド氏の行動をある程度説明できる知見があります。境界性パーソナリティ障害、ボーダーです。
「
「できなかった。市民権を与えられた私は、人形ではなくヒトとして扱われたから」
「そんな……」
どうしたらよかったのでしょう。
わたしにも思いつきません。
かつて「愛とは赤道のようなものだよ」とバンシュー先生が言っていたことを思い出します。手に取って触れられはしないけれど、手に取って触れられるほど実在を信じられるもの。
でも、手に取って触れられない限り実在を信じないと言うならば、わたしはその人を説得できる気がしません。
手に取って触れられるきっかけが無い限りは。
「……きっかけは、旦那さんが体調を崩した時、ですか?」
「そう。私との夫婦生活を講演する場で、ナイフを持った
寒気を覚えます。ナイフが少しでもずれていたら、人体で二番目に太い大腿動脈を傷つけていたことでしょう。止血しなければ一分で失血死します。
ナイフの刃が届いたのは、大腿静脈。第二の心臓と呼ばれる足の静脈血を集め、いっきに心臓へ送り戻す重要な血管です。様々なサイトカインの
「講演の場には技師もいたから、すぐに手当がなされて一命は取り留めたわ。セリアンをかばった私は、彼からこう言ってもらえた」
――ありがとう、ガラティア。君はやっぱり、僕を愛してくれていたんだね。
「後は、あなたが見たとおり。私がセリアンの介護を続ける限り、セリアンは私の愛を信じてくれる。私はセリアンへ愛を証明する、たった一つの方法を見つけた」
――君が愛してくれるなら、僕は世界一の幸福者だ。
エワルド氏が何よりガラティアさんに求めたのは、彼女の愛情だったから。
介護し続ける限り、彼は彼女の愛情を疑わない。
こらえきれなくなって、わたしは長い手足を折ってうずくまってしまいました。
「……どうして、あなたまで泣いているの?」
「だって。悲しいじゃないですか。辛いじゃないですか。ガラティアさんは旦那さんをいつだって愛していたのに、伝わらなくて。伝えるためには、愛する旦那さんを苦しめるしかなかっただなんて」
涙が鼻水を呼んで、喉に下りてきて、えぐえぐと私は泣きじゃくってしまいました。
わたしたち人形は、ヒトとほとんど同等の構造と機能を持っています。ヒトがアミノ酸をベースとした
多少、メンテナンスしやすかったり、頑丈だったり、アンテナを持っていたりしますが、人の形をした心あるものです。
緊張すれば動悸が激しくなりますし、悲しめば胸が痛んで涙が流れます。
靴底を擦る音。続いて、衣擦れの音。
しゃがんだガラティアさんが、ほっそりとした指で私の涙を拭ってくれました。下のまぶたから溢れるたびに、拭ってくれました。
「ありがとう、優しい子。私なんかのために悲しんで、涙を流してくれて」
「違います。違います……! わたしはただ、勝手に悲しんでいるだけです。一番辛いのは、ガラティアさんじゃないですか」
「そんなことない。あなたは介入共感機関なんてものを使わなくたって、私を誰よりも理解してくれた。一番辛いのは私かもしれないけれど、一番嬉しいのも私なの――」
わたしの頬に触れる手が、突然硬直しました。
「……ガラティアさん?」
瞳はわたしを捉えているのに、どこか遠くを見ていました。
「そう。そういうことなのね。ここは、そういう場所なのね。だからわたしはここに運ばれたのね」
しゃがんでいたガラティアさんが、ゆっくりと立ち上がります。
わたしはうずくまったまま、ガラティアさんを見上げます。
晴れ晴れとした笑顔でした。笑顔は時に、拒絶の意思を示します。
左足に体重の軸を置き、いつでも駆け出せる姿勢。
私に近づいてはいけない。あなたは動いてはいけない。
ガラティアさんに気圧されて、わたしは立ち上がることができませんでした。
「どうしたんですか、ガラティアさん。どうしてそんな――」
――どうしてそんな、覚悟を決めた顔をしているんですか。
「ハーロウさん。人生の先輩から、最後に一つお願いがあります」
「一つといわず何でも聞きます。わたしにできることなら何でもします。わたしはそのための看護人形です。だから――」
「どうか、悲しまないで」
「……どうか、最後だなんて言わないでください」
悲しんでいるのは、わたしだけでした。
ガラティアさんは笑顔のままで、わたしの動き出しを拒んでいました。
「わたしの
「あなたはまだ、役に立てるじゃないですか」
「いいえ。やっと終わったの。ヒトに恋したヒトで無しは、海に消えるものなのよ」
一歩。
「ダルムシュタットに、海は無かったわ。こんなにも広いのね、海って」
防波堤のへりに、爪先がかかります。
「さようなら、ハーロウさん。優しい子。あなたに会えて、私は幸せでした」
ガラティアさんの爪先が、防波堤のへりを軽く蹴りました。
一・七五秒後。
ざん、という水音が一度きり、聞こえました。
身を乗り出すと、ガラティアさんの体はもう水面下にあって、白いワンピースドレスの裾だけが夜の海面にゆらめいていました。
一般的な人形の比重は、約一・〇四。肺に空気を貯めなければ、海水にも浮きません。
海面に残っていた裾の先も、すぐに海中へ吸い込まれるように消えました。
この広く深い南太平洋で、たった一体の人形を探し出すことなんてできません。
それに、わたしが今いる場所は、止まり木の療養所です。
当院は外部からのいかなる干渉も受け付けず、外部へのいかなる干渉も許しません。
当院で製造されたわたしは当院における備品のひとつであって、この療養所から一歩たりとも出ることが許されていません。
「どうして……!」
わたしにできることは、何一つありませんでした。
涙が涸れて、
海風に吹かれて乾いて、
三日月が松林を超えて昇って、
いつだって陽気なメスキューくんが迎えに来るまで、
わたしはずっと防波堤にうずくまっていました。
「やあやあハーロウくん。探したよ」
「……すみません、メスキューくん。アンナ看護長、怒ってましたか?」
「ううん。そろそろ迎えに行きなさい、ってだけ。およ? ガラティアさんは?」
「ガラティアさんは……」
南太平洋を見やります。
言葉を探します。
彼女が最期に抱いていた心境は、自死と表現するにはあまりに清々しすぎたものですから。
わたしは感情を押し殺した声で、メスキューくんに答えました。
「ガラティアさんは、当院から退所なさいました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます