くずかご
樫亘
魅知との遭遇
少し前の話です。大学に入学したばかりの頃、私は文芸表現の科目を専攻していました。そしてその時期、私の中で少し気になっている学生がいました。同じ講義を選択していたその彼女はすらりと背が高く、いつも落ち着いた服装で、そして哀しいくらいに物静かな雰囲気を纏っていました。誰かと一緒に居るところは見た事がなく、口を開いている場面すら殆ど出合った事はありません(私も似たようなものでしたが)。話を戻すと、その授業では毎回違うテーマで学生同士がディスカッションを行うワークがありました。学生が事前に用意した資料などを持ち寄り、テーマに沿って話し合いをするのです。
その授業があった、ある日。その回のテーマは『哀しみ』でした。今でも忘れません。授業が始まる直前、席に着いた私はスマホを手に取って添付されている資料集を開きました。そして、自分の回答欄を見つけ、事前に回答した自分の資料を確認しました。すると、丁度自分の回答欄の上に、例の彼女の名前を見つけたのです。今回、彼女とは同じワークのグループではないけれど、気になったのでついでに見てみました。あの人は哀しみという感情に一体何を見出すのか。彼女の思う哀しみとは何なのか。知りたいと、思ったのです。
次の瞬間、私は息を呑みました。
『好きなものがより好きになって愛おしく感じる』
一言、そう書いてあったのです。
私は混乱しました。何かの間違いかと思いました。しかし、資料自体は間違っていません。他の学生の欄を見てみました。皆、自身の過去にあった哀しみの実体験や、中には小説の一部を引用し哀しみについて説いているものもありました。無論、私もそれらと似たような回答です。彼女の回答欄は明らかに浮いていました。
勿論、何らかのミスが起きてしまった可能性はあります。彼女が今回のテーマを間違えて認識していた、とか。しかし、もし彼女が意図的にこれを回答していたのだとしたら…………。
未知。
それは、理解ができない、などという表現の範疇を超えていました。ある種の衝撃に近い感覚。ミステリー小説の後半に衝撃的な事実が明かされる。そんなものの比ではありませんでした。現実に起こる不可解な出来事が、これほどまでに不気味な迫力を帯びているのだと、その時知りました。そしてそれは同時に、私の好奇心を突き動かすには十分過ぎる刺激を与えたのです。
彼女は一体この文のどこに哀しみを見出しているのか。好きになっていく過程そのもの?それとも好きなものが失われた時に哀しくなるから?彼女の過去の経験が関係しているのでしょうか。終日、私はそれについて考えました。そして、それは彼女という人間そのものについて考察している事に他ならなかったのです。その日、床に就く前にそのことに気が付いた時、何故か急に気恥ずかしい気持ちになったのを今でも覚えています。
この話はここでおしまいですが、未だにその謎は解決していません。
未だに惹かれているのです。彼女という存在に。
その魅知の存在に。
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