名もなきバラの物語

濱野乱

第1話 ママが色ぼけな件


 湯にバラの花を浮かべるのが好きだ。


 気分が落ち着くし、香りがお守りになる気がする。


 意気揚々とバスタブに入ろうとしたら、母が占領していた。


 タオルを頭に巻いてうっすら目を閉じ、肘を縁に乗せている。上半身はいわずもがな、足にも十分な脂肪をたくわえているが、柔らかそう。皺も全然なくて、見とれてしまう。


 四十にさしかかっても衰えぬ美貌は、帝都でも評判らしい。


 でも娘のあたしからしたら、ただの色ぼけババアである。


「あら、ジェシカちゃん。おはよう」


「おはよう、じゃないよ。いつ帰ったの、ママ」


 母の朝帰りは今に始まったことではないが、最近特にひどい。若い役者に入れあげてるとかで外聞も悪いし。


「ついさっき。丁度お風呂沸いてたから入っちゃった」


「あたしが入るはずだったんだよ。ちゃんとしてよ」


「うふふ、ちゃんとするのはジェシカちゃんの方だと思うけど」


 水が跳ねて、はっとする。色狂いはもういなかった。ローゼンベルク家当主アンジェリカの顔は、身内ですら酷薄に感じられる。


「またお見合いを蹴ったそうね。困るわ。お兄ちゃんたちは軍に入って家を継ぐのは貴女しかいないの。先祖から受け継いだ伝統を貴女の代で絶やすつもり?」


 うちは代々、魔法使いの家系だ。優秀な魔法使いは次世代に遺産を継承する義務がある。兄二人は軍に入隊しているため、あたしが次期当主候補なのだ。


「あたしまだ二十歳だよ。結婚とか考えられない。学校卒業してからじゃだめ?」


「だめ。ママが選んだ男はみんな色男だったでしょう? なにが気に入らないのかわからないわ」


 母が勧めた縁談の相手は確かに顔はよかった。ただし全員軍人で、中には五十代離婚歴もある男もいた。


「なんで、みんな軍人なの? ママの好みを押しつけないで」


「そんなつもりないけど。この国で実権を握ってるの軍だし、繋がりを持つのは大事なことよ」


 母は二人の息子の出世をもくろんでいる。あたしを家に縛り付けようとするくせに兄たちには甘いのだ。


「ジェシカちゃんが頑張ってくれないと、ママが頑張らないといけないわ。もう一人くらい……、いけるかな」


 鮮やかな花に囲まれてうそぶく母にぞっとした。


「変なこと言うのやめてよ! ママなんて大嫌い!」


 こんなやりとりは日常茶飯事だ。唯一の息抜きまで奪われて、泣きたくなった。


 百年前に建てられたお屋敷は修繕が必要だし、使用人の数は足りないし、ママは先にお風呂入るし、こんな家に生まれるんじゃなかった。


 出窓から庭園が見下ろせる。庭師が生け垣に鋏を入れていた。窓を開け声を張り上げる。


「ねー! クランツ!」


 髪を短く刈り上げた若い男が顔を上げる。彼は幼なじみで造園業者として働いている。歳は一個上。背は高く、体もがっちりしている。軍に取られないのが不思議なくらいだ。


「ジェシカ! お見合いどうだった」


「断った。パパと同じくらいの人だもの」


「そっか……」


 鼻の下をかいて、ほっとしているみたい。子供の頃から知ってるけど、純朴ですぐ顔に出る奴だ


「クランツー! あたし学校卒業したらね……、あんたと」


 思わせぶりに言って、窓を閉める。体丈夫そうだし、もうこいつに決めた。

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