純白鬼じゅんぱくおにを封印してからの一か月は穏やかに時間が流れた。

 時たま魔の憑いた器物などが暴れたりはすれど、そのたびにあやびとたちが適切に浄化し、封印を施す。

 清人がそれに駆り出されることもしばしばあったし、その隣には必ず千景がいた。

 そして、千景は任務が終わる度に明治神宮に足を運び、鎮守の森の奥をじっと眺めている。

 紅葉の美しい秋は、人も妖怪も半妖も問わず思い思いにそれぞれの時間を過ごしている。

「まあ、これはこれは狗鷲いぬわし様と飛燕ひえん様」

 鍔付きの帽子に細身のジャケットとスカート、品の良いブローチを合わせたモダンガールが声をかけてくる。その帽子の下にぴんと立った猫耳があることを清人と千景は知っている。彼女もまたあやびとだ。

 清人は少しため息をつく。

「貴女もそう呼ぶのか」

「あら、あやびとたちの間では随分と広まりましてよ。大天狗を退けた狗鷲と飛燕、って」

 有名になりましたね、と笑うモダンガールに堅い表情の清人と眉をさげた千景が顔を見合わせる。

 そこで何かを思い出したように猫目をきらんとさせて斜め掛けした鞄から手持ちカメラを取り出した。

「お写真を一枚、どうですか?」

「ごめんね。ちょっと用があって」

 申し訳なさそうに頭をちょこんと下げた千景はまた、明治神宮の奥――封魔殿へと目を向けた。

 そこで婦人は、ああ、と合点した顔をする。

「そろそろあの大天狗様がお目覚めになるのですね。これは差し出がましいことを」

「ううん。機会があったらまたそのうち写真を撮ってよ」

「おい」

 なんだかあらぬ約束をした千景に清人が思わず突っ込む。婦人はくすくすと笑った。


 鎮守の森の奥へ奥へと進んでいくと、やがてしんと静まり返る。

 そこにひっそりと建てられた、しかし厳かな拝殿が現れる。一礼をし、門をくぐって封魔殿へと足を踏み入れる。

 千景は明治神宮の内苑に入ってから一言も口を開かない。しかし、しっかりと前を見据えて、玉砂利を踏むふたつ分の足音に耳を傾けている。

 以前の彼ならばその視線は少し下を向いていて、自分のつま先を見ながら歩いていたというのに。

 その少しの変化を清人は嬉しく思うのだ。

 やがて封魔殿の本殿へとたどり着き、そこに勤める巫女に頭をさげる。彼女に案内されて行くと、陰陽の陣の中心に清人たちが封印した小瓶が鎮座されていた。その栓は開かれている。

 そっと息をのんだ千景に目をやれば、彼は「大丈夫だよ」と清人に笑いかけた。

 ふたりが座したのを見て背後の戸が閉じられ、やがて清らかな静寂が訪れる。

 少しの間を置き、どこからともなく流れてきたそよ風が髪を撫でた。すると小瓶の口からぶわりと突風が立ち上り、瞬きのうちに艶やかな雪白の大天狗が胡坐をかいて座っていた。

 風に舞う紅葉が描かれた着物、綺麗に切り揃えられた銀白の髪。つるりとした額。その背には白烏の片翼。

 長いまつ毛に縁どられた眼がゆるゆると開く。しばし中空を彷徨っていた錫色の瞳が清人と千景を見つけた。

「――月代つきしろ様」

 千景の口から思わず天狗の名がこぼれる。その声は震えていない。しっかりと白い天狗を見据えている。

「ああ……燕の子か」

 低く落ち着いた声。これが本来の白い大天狗――月代のそれだったのかと清人は心の中で思う。

 月代はまた瞳を閉じてしばらく何かを思い出すように黙っていたが、ふいに艶のある唇を嚙んでこめかみに指を当てた。色白の眉間にしわが寄る。

「すまない、私はいつから我を失っていた?」

 千景が月代に一歩近寄ってゆっくりと事情を説明する。月代はそれに口を挟まずにじっと聞いていた。

 すべてを把握した月代はただ「そうか」と言って目を伏せた。物思いに耽るように何も言わない。

 しばし沈黙が流れる。それを破ったのは千景だった。

「月代様。僕は」

 そこで一度言葉を切り、ちらりと清人を見た。その漆黒の瞳には覚悟の光が宿っていた。

 清人はひとつうなずく。

「僕は、貴方とは違う。翼の色も、生き方も。これからは……いえ、これからも人の世で生きていきます」

 それを聞いた月代は一瞬目を見開き――次の瞬間、高らかに笑い声をあげていた。

 予想とは違う反応に千景は面食らい、清人もまた少しだけ反応が遅れてしまった。

「なるほど、大きくなったものだ。あの燕の子がなぁ」

 涼しい目がすっと清人を見た。

 鬼のときとはまったく違う、澄み切った瞳。これほど理知的な妖怪すらも我を失わせてしまうとは、魔とは――情とは恐ろしいものだ。

 それでも。

 あやびとは魔を浄化し、こうして対話する機会を設けることができる。

「人の子、お前の影響か?」

「かもしれません」

 清人が殊勝にうなずいてみせれば、月代はまた明るく笑い声をあげる。

 そして今度は、ふたりのあやびとをまっすぐに見据えて破顔した。秋風に似た爽やかな笑顔だ。

「苦労をかけたな。人と燕よ。お前たちの名は、何と?」

「鷹司清人」

「羽織千景、です」

 月代の視線を正面から受け止めたふたりの名を嚙みしめるようにつぶやく。

「清人と千景。……良い名だ」

 片翼を震わせて月代は笑った。小さな、それでも、とても大切な宝物を手に入れた子どものようだった。

 ふわりと広がる美しい一枚になってしまった翼を見、清人は素直に頭を下げた。

「翼を奪ってしまい、申し訳ない」

「気負うな、清人。これは魔に憑かれた弱い私への罰だ」

 月代は小さく微笑み、片翼で自身の体を包んだ。愛しそうに、寂しそうに翼を撫でる大天狗から目は逸らさない。

 この月代の姿は清人のあやびととしての戒めだ。

 ――いつか。いいや、いずれは人も鬼も救えるあやびとに。

 月代がふたりの名を呼ぶ。ばさりと翼をはためかせて大天狗は笑った。

「私は山に帰ろう。もう人の世には迷惑をかけまいよ」

 爽やかな風が清人と千景の頬を撫でる。

「……たまには、顔を見せに来てください」

 遠慮がちに言ったそう千景に目元を和ませ、そうだな、とかつての天狗の王はうなずいた。

 急に月代を包み込む風が強くなる。それに遊ばれる髪を押さえながら千景はぐっと唇を嚙む。

「さらばだ、ふたりとも。おい千景、そんな寂しそうな顔をするな」

 月代がそっと白い手を伸ばし、千景の頬に触れる。見開かれた燕の黒い瞳から一粒の透明な滴が零れ落ちた。

「千景をよろしく、清人」

 そんな言葉を残し、白い大天狗は風の合間に消えていく。

 清らかな風の残滓が消え去るまで、ふたりはじっとその場に座り込んでいた。

 そこにはただ小さくすすり泣く燕の妖怪と、それに寄り添う人間だけがいた。


 清人と千景は封魔殿を後にし、玉砂利が敷かれた道を歩く。

「千景」

 その呼びかけに木々の屋根から覗く空を眺めていた千景が振り返る。眼鏡の奥の目尻はまだ少しだけ赤い。

「来年は仕事じゃなく、紅葉を見に来よう」

 とりどりに色づいた葉が散るのを眺めながら、清人は気づかぬうちにそっと微笑んでいた。

 白い天狗の王が帰っていった山もきっと美しい色に染まっているのだろう。

 一瞬、虚を突かれたように目を瞬いたあと、千景が満面の笑みを浮かべた。

「そうだね。清人」

 青藍の空を白く切り取って二羽の鳥が飛んでいった。



 〈完〉

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【大正伝奇浪漫RPG あやびと】天駆ける翼【小説】 ソラ @nknt-knkt

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