2(図書館)

 ――図書館は、死んだみたいに静かだった。

 それは、そうだ。この建物が出来てから百年近く、利用者は一人も来ていなかった。体育館みたいに広い閲覧室には、机とイスが行儀よく並んでいるだけで、人の姿なんてどこにもない。

 わたしは受付カウンターの向こうに座って、一人でそれを眺めていた。

 壁面の大きな窓からは、眠るみたいに静かな午後の光がさしこんでいる。二列に並んだ大きくて頑丈な机は、どちらかというと作られたばかりの棺桶を連想させた。部屋の壁面いっぱいに詰めこまれた本たちは、満腹してお昼寝中の新生児よりも穏やかな様子をしている。

 大きな水筒に似た形のお掃除ロボットや、設備点検用の小型浮遊ロボットが、そんな中を行き来していた。彼らは自分たちの役目に文句も疑問も抱かず、昆虫みたいに働き続けている。おかげで館内には塵一つなく、空気は清潔で、本は所蔵されたときと同じ状態で保たれていた。

 わたしは手元のパソコンを操作して、館内の状態チェックを済ませてしまった。本にも建物にも、どこにも異常はない。当面のところ、すぐに片づける必要のある仕事はなかった。

「よし、と――」

 それだけのことを確認すると、わたしは立ちあがって、すぐ後ろの机に向かった。そこには昔懐かしいレコードプレイヤーが置かれている。棚に収められたジャケットをいくつか傾けてから、そのうちの一枚を取りだした。

 レコードプレイヤーは装置が全部一体になったもので、電源を入れさえすればすぐに音楽を聞くことができる。小型で、何だか調理用のホットプレートみたいな外見をしているけど、これで立派な完成品なのだ。つけ加えるべきものも、取りはずすべきものも存在しない。

 プレイヤーのダストカバーを上げて、わたしは紙製のジャケットから慎重にレコードを取りだした。それを美術品でも扱うみたいに、そっとターンテーブルの上に乗せる。王様の御前に食事を供するみたいに、あくまで礼儀正しく、優雅に。

 そうしてスイッチを入れて、テーブルを33と1/3回転でまわす。リフターを使って針を上げ、手でアームを移動させる。

 わたしは少し黙考してから、針の位置を一番外側から黒い線一つぶんだけ内側に入れた。レコードでは、曲の頭出しをそうやって行うのだ。

 服の襟や裾を点検するみたいに針の位置をもう一度確認してから、わたしはリフターで針を下ろした。咳払いに似たかすかなノイズを立ててから、針はレコードの溝にそって正確に動きはじめる。

 やがて、弦楽器の作りだす繊細な空気の震えが伝わってきた。

 ショパンのピアノ協奏曲第一番、第二楽章。

 オーケストラによる導入から、やがてホルンの音にうながされるようにしてピアノの独奏がはじまる。その音は澄んだ星空をそのまま地上に持ってきたみたいで、世界を優しく、静かに、憂愁をもって包んでしまう。目に映るものすべてがきれいになって、そして少しだけ悲しくなる。

 わたしはぼんやりと、イスに座ったまま穏やかな音楽の流れに身を任せていた。


 ――ドアが乱暴な音を立てて開き、騒がしい足音が遠慮もなく響いてきたのは、そんな時のことだった。

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