最後の図書館司書

安路 海途

1(Welcome to this world)

 気がつくと、わたしは手術台みたいな場所の上に裸で座っていた。

 まわりには何かの機械やモニターが、引っ越したばかりみたいな乱雑さで置かれている。それらはいかにも不満そうで、仕方なく脇にどいてやっている、という感じだった。本当なら、もっとふさわしい場所があるのに、と。

 わたしの前には、毛むくじゃらの犬みたいな髪をした、ちょっと変わった感じの女の人が立っていた。大きめの眼鏡をして、白衣を着ている。若くもないけど、歳をとっているわけでもない。その顔には、口の中で溶けた飴玉みたいな、にこやかな笑顔が浮かんでいた。

「気分は、どうだい?」

 とその人は、わたしのことを見つめながら訊いてきた。

「――特に問題はありません」

 わたしはそう答える。実際、どこにも問題がないことはわかっていた。頭も、体も、正常に働いている。するとその人は、何故だかひどく嬉しそうに、

「よろしい、非常によろしい」

 と言った。まるで歌うみたいに、「ひじょーに」と言葉をのばしている。もしかしたら、見ためよりずっと変わった人なのかもしれない。

 それから一通りの検査らしきものをすませてしまうと、その人はゆっくりしたメトロノームみたいに、狭い場所を往復しはじめた。そうして突然、

「君の名前は、これからフミにしよう」

 と、手を叩くようにして言う。

「わかりました。わたしの名前は、フミですね」

 理解したことを示すため、わたしは復唱した。ほかに、どうしようもない。

 でもその人は満足そうに、じっとわたしのことを見つめた。たぶん、うまく閃いたパズルが、思ったところにはまったみたいに。

 ただ、わたしはちょっと疑問に思ったことを訊いてみた。

「――〝フミ〟とは、何ですか?」

 するとその人は、顎に指をあてた。そうして、考えながらしゃべるみたいにして言う。

「私の出身地域の言葉でね。本、手紙、文章――はっきり定義するのは少し難しいけど、要するに誰かに伝えようとして記された文字記録のことだね」

「それが、わたしの名前の意味ですか?」

「うん、そう、そうなんだ。君にぴったりだと思わないかな」

 同意を求められているようだけど、わたしにはよくわからなかった。何しろ、これでもさっき目覚めたばかりなのだ。だから、

「……わたしはこれからどうなるんですか、博士?」

 と、わたしは訊いてみた。そのことに関する情報は、まだ与えられていない。

「フミにはこれからある場所に行って、そこで仕事をしてもらうことになる」

「それが、わたしの役目なんですね」

「とりあえずは、そういうことになるね」

 博士は何故だか、浮かない様子で笑ってみせた。さっきまでの笑顔を真昼の太陽とすると、こっちは夕暮れのそれに近い。

「でも今のところ、それはあとの話だ。今はまだ、ほかにやるべきことがたくさんあるからね――それから、君にはこれをあげよう」

 博士は自分の眼鏡をはずすと、それをわたしに渡した。

「どうしてですか?」

 空から降ってきた羽みたいにその眼鏡を両手で受けとりながら、わたしは訊いてみた。

「フミに似あうと思ったからだよ」

 博士の言葉は冗談なのか本気なのか、やっぱりわからない。

「眼鏡がなくて、博士は困ったりしないんですか?」

「困ったりはしないんだ」

 博士は笑って言う。それは何かの冗談なのかもしれなかったけど、やっぱりわたしにはまだよくわからなかった。

 それから、博士は白衣のポケットに手をつっこんで、真剣そうに、でも冗談みたいに言う。

「Welcome to this world, Fumi――ようこそ、世界へ。ここは狂っても、世紀末でもないけれど、ね」

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