第二十三話 勅命
翌午前、鶯がさえずる長安市街の一角で華やかな衣装の女が駕籠に乗る。
それを拒めぬ女の目は悲壮と虚脱に湿る。
愛惜の地を離れ、駕籠の行く先は無情の地。
それを見送る男の目は野心が不敵に光る。
長く耐え、遂に到来した野望の極みへの好機。
また別の一角では物々しい雰囲気に包まれる。
己の精強な騎兵一千を前に、男の目に使命の覚悟が宿る。
過去を償い、二度と同じ思いをさせてはならない。
そしてまた別の一角でも。
ある男は己の後世の名声を得る為、ある男は己の過去の後悔を取り戻す為、ある男は己の一方的な情愛の為。
女の哀しきはいずれかが成ったとして、決して自らが望まぬ結果にしかならぬ事。
唯一の救いはただ一人、女の心を案ずる者がいた事。
乾いた風が春の暖を吹き飛ばし、欲の炎を焚き付ける。
一人の女が起因となり、中華の都に白刃が煌めく。
呂布の元に一人の男が息を切らして駆け寄る。
「司徒の屋敷を出た駕籠が太師の屋敷に入り、その後太師を乗せたと思われる馬車が未央宮へ向けて出発しました」
呂布は頷いて男が駆けてきた方角を指差し、一言だけ発する。
「高順」
力強く拱手した高順はあらかじめ二手に分けられた夜叉の爪牙、四百を率いて出発する。
武勇は呂布にも引けを取らず、夜叉の爪牙を実質的に取り纏める。
当たる敵陣全てを陥落し、一部で陥陣営とも呼ばれる夜叉の右腕。
それを補佐するのはどんな乱戦でも冷静に戦局を見据え、冷徹に任務を遂行する賢将、成廉。
二人が向かうのは董卓の長安別邸。
報告にあった駕籠に乗る貂蝉の奪取と董卓一族の殲滅。
呂布は義父董卓への反逆の起点でもある貂蝉の保護を、軍中で最も信頼し、堅実かつ確実な男に任せた。
高順を見送ると呂布は手にした戟を高く掲げる。
「行くぞ、我らは未央宮だ」
呂布の脇に控えるのは、呂布の武勇に憧れ、目標とする若き勇将、張遼。
時に呂布に代わって軍を動かし、先陣に立てば人馬一体の突破力で敵の戦意まで穿つ夜叉の左腕。
そしてどんな苦境にあっても鼓舞を忘れず、その存在が味方を奮い立たせる猛将、魏越。
この長安の、漢の権力の頂点を討つ。
失敗は許されない。
もし取り逃して郿塢に逃げ込まれては、動かせる兵数の差で勝機はない。
未央宮には日頃から調練し、手懐けられた羽林が既に配されている。
唯一にして最大の好機。
だが、もし失敗すれば自身はもちろん三族に至るまで皆殺し。
さしもの張遼や魏越も緊張の面持ちを隠せない。
だが緊急に召集され、そんな面持ちの上官を見ながらも、追従する夜叉の爪牙に隊列を乱す者は一人としていない。
呂布の私兵の中でも特に選りすぐられた騎兵。
それは単に勇猛果敢な精兵というだけではない。
主たる呂布の無双の武勇に魅せられ、心酔する求道の精鋭。
呂布に求められ、共に死地を進む事を何よりも栄誉とする。
明確に役割を知らされている者はいない。
しかし呂布や張遼、魏越の面持ちから、重要性は理解していた。
そしてその重さも予感していた。
目的地として知らされた未央宮で何が起こり、何をするのか。
だが理由が何であろうと構わない。
天が求める大義であろうと、私利私欲であろうとも。
張遼や魏越ですら緊張する道を呂布と共に進む。
これ以上の喜びはない。
それは又、高順率いる四百も同様。
高順が向かう先に何があるのかは既に理解している。
呂布が高順に別動隊を任せる時、任される兵数が少なければ少ないほど、その任務がより困難、または重要である事を知っている。
それを命じられるのは信頼の証。
その信頼に喜び、そして応える。
それが夜叉の爪牙の矜持。
未央宮の門前で王允と鉢合わせた呂布は共に肩を並べて門をくぐる。
くぐった先から宮殿に到るまでの広場に整列するのは日頃より呂布が監督し、手懐けている羽林。
夜叉の爪牙を配置につかせ、王允と共に宮殿を背にして立つ。
「勅は問題なかろうな」
「ぬかりなく」
二人を出迎えた士孫瑞から勅書を受け取り一読する。
「既に俺の腹心が董卓の屋敷へ向かっている。
貂蝉の処遇はどうするつもりだ」
「儂は董卓を除ければそれでいい。
好きにするがいい」
呂布は小さく息を吐くと、勅書を張遼に手渡した。
その張遼の手が微かに震えている。
「貂蝉の気持ちを考えた事は無さそうだな」
「貂蝉の気持ちだと。
儂の功績の為の礎になれて感謝しておるのではないか。
そもそも天下の大計の話に女子供など入り込む余地がなかろう」
共に門を見据えたまま、互いの顔も見ずに会話する。
「天下の大計か、聞こえはいいが考えているのは己の名声だけではないのか」
「知ったような口を利くな。
名声を得て先祖に報いる。
その為に天道を正すのだ。
所詮戦しか能のない武官風情にはわかるまい」
「何とでも言うがいい。
俺は家族や仲間、愛する者を守る為に戦う。
自分の事しか考えぬ者にはわかるまい」
顔も合わせずに並び立つ二人の信条が交錯する。
だがそのやりとりも終わりの時がくる。
「開門。
董太師、御参内」
未央宮の重たい門が開き、青蓋の馬車がゆっくりと入ってくる。
馬車が広場の中央に達したのとほぼ同時に門が閉められた。
青蓋の影に隠れて董卓の表情はわからない。
だが宮殿前のこの雰囲気には気付いている筈だ。
魏越が叫ぶ。
「勅令が下された。
馬車を降り、膝をつかれよ」
が、馬車上で頬杖をつく董卓に動く気配はない。
再度魏越が馬車を降りるよう、叫ぶ。
「よい。
文遠、勅を読み上げよ」
呂布は張遼に勅書を読み上げるよう促す。
読み上げられる罪状。
歴代皇帝の陵墓を暴く不敬。
天子にのみ許された青蓋を馬車に掲げる不遜。
粗悪な五銖銭で貨幣価値を乱し、市場を混乱させる失策。
その他雒陽からこの長安に至るまでの私兵による殺戮、略奪、放火、凌辱の罪。
読み上げられる罪状は五十にまで及んだ。
董卓は微動もせずにそれを聞く。
「以上の罪、三族及びその家僮、斬首を以て相当とする」
張遼が読み終えると董卓はゆっくりと身を起こし、馬車から降り立った。
今董卓を守るものは数人の側近と一振りの剣。
その目、表情は無。
何を感じているかは皆目検討もつかない。
「董卓よ、勅である。
慎んで剣を置き、膝を地につけよ」
王允の呼び掛けに董卓は不敵な笑みを浮かべた。
「王允よ、なかなかに醜悪でよい顔をしているではないか。
黴の生えたような価値観に縛られ、野望に満ち、欲に取り憑かれた臆病者の顔だ。
呂布の影に隠れ、勅に言葉を乗せて言いたい事は言えたか。
虎の威を借る狐よ。
幼い雌狐なんぞ送り込んできおって」
董卓は腰の剣を手に持ち、王允、そして呂布へと向ける。
「儂に刃を向ける気概を持ったかと思えば、王允の掌で踊らされているとはな」
この期に及んで余裕すら感じさせる董卓に苛立ち、王允は声を荒げる。
「ええい、黙れ。
羽林よ、捕縛しろ」
しかし立ち並ぶ羽林は何も反応しない。
「司徒、お忘れか。
羽林の指揮官は騎都尉たる俺だ」
苛立つ王允の前に呂布が出る。
「ならばさっさと捕縛させろ。
奴は勅を受けても剣を離さぬ逆賊だぞ」
だが呂布は羽林に指示を出さず、王允を無視して董卓に問う。
「太師董卓。
その目は人の目か、それとも妖の目か。
如何にして貂蝉の妖を見た」
董卓は貂蝉を幼い雌狐と呼んだ。
偶然の比喩か、それとも。
剣を抜く董卓は笑って答える。
「ほう、まるであの雌狐の妖を知っていたような口振りであるな。
あの妖に魅せられ、奪おうと願うか」
董卓は自ら冕冠を取り、投げ捨てる。
「しかし、夜叉のその目は節穴だったな。
人の世に潜む妖は狐狸精だけではない。
事ここに至っては仕方ない。
安心しろ、雌狐は貴様らを喰らってから存分に愛でてやるわ」
元々肉付きの良い董卓の巨躯が膨れ上がり、朝服が張り裂ける。
口と鼻が伸び、黒く長い体毛がその身を覆う。
呂布の背に隠れた王允が悲鳴を漏らした。
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