第十七話 相談

 一方その頃、政庁で政務に勤しむ王允の元に珍しい男が訪れていた。

 董卓の腹心の部下の一人、李傕。

 先頃、派遣された関東から帰還したのは王允も知っていたが、今まで何か特別な接点を持った事はない。

 董卓に忠実なだけでなく、出兵先でも強盗や略奪を繰り広げ、董卓軍の悪評の全てを体現するような男である。

 その男が一体何の用であろうか、と王允は身構える。

 何しろこの政庁に限らず長安の何処に董卓が放った間者が聞き耳をたてているかもわからない。

 まさか董卓暗殺の意思に感づかれたのではないかと心中は穏やかではない。

 だが、李傕の口から出た言葉は王允の意表を突くものだった。

「王司徒は妖狐と言うものをご存知でしょうか」

 全く想像もしなかった問いに、王允は呆気にとられながら答えた。

「確か……人の姿に化身して取りつき、精を吸う妖魔の類い、でございましたか」

 だが李傕は大真面目な表情で力強く頷く。

「左様でございます。

 実は私の元におる巫女が……」

 ここまで聞くと王允は小さく嘆息した。

 そう言えば董卓の配下に、何やら怪しげなる宗教に傾倒して董卓に窘められた将がいる、という噂を聞いた事があった。

 巫女を侍らせて、牛や羊を神へ生け贄に捧げる等をしていたらしいが、この男であったか。

 李傕によるとその巫女はこの様に言っているらしい。

『今の長安には人外の妖魔が人に化身して複数潜んでいる。

 その中の一つに妖狐の気がある。

 その力は古の殷の妲己には及ばずも、越の西施に優る美女に化身している。

 その妖狐が起因となってこの長安は戦火に包まれる』

 王允は内心『妖狐などとは何を馬鹿馬鹿しい』と嘲るが、李傕の表情は真剣そのものだ。

 だが李傕が自分の元に来た理由を察する事もできた。

 董卓は百年程前に西域から渡来した仏の教えや道教は愚か、儒の教えすら蔑ろにし、自身の独特な価値観を持ち、押し付ける。

 こんな忠言をしたら逆に怒りを買う事になるだろう。

「お話はわかりました。

 ただその手の話は世情が乱れた時に、大衆の不安が積み重なってできる流言に近いものです。

 おそらく関東の乱世が関西に伝播しないかという不安から出来上がったものでしょう。

 こういった類いは古来より乗らず気にせず、聞き流すがよろしいかと存じます。

 妖魔や妖狐などと……」

 王允は苦笑を噛み殺しつつ李傕を宥める。

 だが真剣な李傕にはけんもほろろにあしらわれているようにしか映らない。

「いえ、王司徒。

 妖狐は現実におりますぞ」

 王允の言葉も途中に食って掛かる。

 王允は稚児の妄言を耳に入れる心地で、堪えきれずに苦笑を漏らした。

「この楊奉もかつて妖狐を見た者でございます」

 李傕はそう言って傍らに控える部下を指した。

「現実に妖狐を……見た……」

 聞き返す王允に、楊奉と紹介された男は拱手して話をする。

 自身がかつて太平道に身を置いていたこと。

 太平道は裏で鮮卑と繋がりを持ち、その盟の証として互いに奴婢や金品、教祖張角の記した霊符などが取り交わされたが、その中にいた婢が妖狐と言われる女だった。

 元々は塞外の漢人だったが鮮卑に襲撃されて拐われたらしい。

 類稀なる美貌を持つその女は鮮卑の将の妾にされたが、その将は間もなく病死した。

 その後も次々と別の将が妾にするが、子を宿す事はなく、その悉くが妾にしてすぐに戦死や病死し、いつしか精を糧にする妖女と忌まれたと言う。

 そして太平道でもまた美貌に魅せられた渠師がその女を妾にしたが潁川で戦死し、その女は行方を眩ませた。

 李傕の元にいる巫女の話を聞き、あの女は化身した妖狐だったに違いない、と言う。

 最初は話し半分に聞いていた王允だったが徐々に表情が険しくなっていく。

「楊殿と申されたな、ちなみにその妖女を妾にしていたという黄巾の渠師の名は何と」

「はい、波才でございます」

 王允はその名を聞いて言葉を失った。

 鮮卑から妖女と呼ばれて主を早逝させ、波才の妾だった女こそ今自分が愛妾としている貂蝉ではないか。

 妖狐に限らず妖魔などとは馬鹿らしいとは思うが、長く続く原因不明の咳、最近では臓腑も痛み、政庁を空ける事も多くなった。

 皆に言われるまでもなく、自分でも痩せたと思っている。

 今思えばそれらの症状は全て貂蝉を妓女として迎えてからのものだ。

 そしていつ精渇れてもおかしくないこの身を奮い起たせる艶やかな肢体。

 あの女は我が精気を吸って儂を弱らせていたのか。

 いや、それだけではない。

 この長安には貂蝉の他にもおよそ人とは思えぬ輩がいるではないか。

 己の邪なる価値観を押し通し暴虐の限りを尽くす董卓。

 その董卓を義父にし、人智を超える武勇を誇り飛将や夜叉などと呼ばれる呂布。

 そう、夜叉とは西域渡来の教えでは人を喰らうと言われる鬼神の事だったではないか。

「お、王司徒、大丈夫ですか。

 まさか何か思い当たる節でも」

 いつの間にか真剣な眼差しで考え込む王允に、今度は逆に不安になったのか、李傕が恐る恐る声をかけてる。

 王允はその声に気付いて答える。

「あ、いや失礼。

 この件は承知致しました。

 ただ太師の気性を鑑みればそのお耳に入った場合、都の人心を乱す嫌疑を貴殿がかけられてしまうやもしれませぬ。

 人の噂はどこで広まるかわかりませんので、この話は我々三人の間だけ。

 内密に致しましょう」

 李傕は王允の理解が得られたと思い、表情を明るくして拱手した。

「お心遣い痛み入ります。

 やはり王司徒にご相談してよかった」

 悩みの相談には大きく二つある。

 解決案を望むものと共有を望むもの。

 李傕にとってのこの相談は後者であったようだ。

 おそらく李傕にとっても巫女の言葉は半信半疑だったのだろう。

 王允の返答は解決を生むものではなかったが、李傕達は感謝の言葉を並べ、表情を明るくして退室していった。

 だが残された王允は頭に手をやり、考え込み始めた。

 寵愛する妓女であり、愛妾とする貂蝉の事だ。

 司徒になるまでの道のりは決して順風満帆だった訳ではない。

 長き雌伏の時も乗り越えてきたのだ。

 幸いにして董卓からは信任されている。

 そしてその董卓を除けば人臣の極み、頂が待っている。

 だが自らの命数尽きるより早くに董卓を除かねば、後世の史家からは『董卓からの信任された奸臣』と謗られてしまう。

 中華救世の忠臣と名を残し、後世永劫に崇め讃えられる為にも、眉唾な情報ではあっても念には念をいれるべきかもしれない。

 手放すには惜しいが、命には変えられない。

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