第一章

1.

眠りと覚醒の間。

沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していく。

重く閉じた目蓋をゆっくりと開け、眩しい光が入ってくる。

まだ、意識と肉体が上手く繋がっていないのか、身体が思い通り動かない。


「……ん、」


力の入らない腕を叱咤して、無理やり上体を起こす。

どのくらい眠っていたのだろうか、全身がぴりぴりと痺れていた。


「…………はぁ、」


額に掛かった、寝乱れの黄金色に輝く長い髪を掻き上げる。

カーテンが開いたままの窓から差し込む暖かそうな陽の光が目に入って、辟易したように溜息を吐いた。


また一日。

無意味で、無価値な、苦痛の、長い地獄の時間が始まるのだ。


◇◇◇


アウロラ=ディーウァ=クァエダムは、スペルビア帝国の第三皇子にして、皇帝に見向きもされない厄介者だった。

剣の腕も半端で、魔法も使うとこができず、特に聡明と言うわけでもなく、唐突に無意味な癇癪を起こし、仕事のあるメイド達を困惑させる問題児。

他の皇族達の優秀さが特出していることも相まって、無能という烙印を押されていた。


---哀れだな。


身が捩れるほどの激痛に泣き喚く行為を、宮医は子供の癇癪だと退け、不憫な境遇から同情心で優しく接してくれたメイド達も、いつしか虚言吐きだと、演技だと糾弾し、相手にすらしなくなった。

侮蔑と悪評だけが残る中、一縷の希望を持って励んだ血の滲むような努力も、誰に気付かれることもなく徒爾に終わり、愚行の果てに死ぬ運命。


そんな彼になってしまった自分は、果たして、一体どんな大罪を犯したというのだろうか。


孤児で貧しく、金もなかった。

心から愛しいと思う恋人もいなければ、命を預けられる友人もいなかった。

死に伴う苦痛に恐怖して、ただ生きてきただけの、未練もない、けれども、そこそこ楽しめた人生だった。


それが、いけなかったとでも言うのか。


---無駄だ。


豪華なだけのベッドに腰掛けるアウロラは、その思考を止める。

答えの出ない疑問に自問自答を繰り返すほど、落ちぶれてはいなかった。


「…………ぃ、っ……」


それに、唐突に訪れる激痛。

全身を引き裂かれるような痛みが、まともに思考することを許してはくれない。


「う、ぁ……っ、」


ごほっ、と咳き込むたびに、血液が逆流する。

吐き出せば、少しは楽になった。

乱れた呼吸を整え、着用している寝衣で、口元から垂れる赤い液体を拭き取る。

口内の不快感に眉を顰めて、立ち上がった。


向かう先は、窓から見える小さな池に設置された装飾の施された真っ白い噴水広場。

そこが、アウロラが知る近くの、そして、唯一の水場だった。


◇◇◇


雲一つない青空。

素足で歩いても全く傷付くことのない柔らかな芝生。

穏やかな風が、辺りの草木を優しく揺らす。

暖かな陽の光を浴びる小さな池の中を覗き込めば、反射した水面が、キラキラと輝いていた。


---溺死するには、良い日和だ。


綺麗な水面に手を差し入れれば、冷たい水が火照った身体を癒やした。

両手で水を掬い上げ、不快感に満ちた口内を濯ぐ。

波紋の広がった水面は、やがて沈静していき、無感動な自身の姿を映した。


「……」


スペルビア帝国の皇族の血筋は、必ず宝石のような瞳を持って生まれてくるのだという。

それが感情によって色が変化することから、妖精の祝福を受けた国として、他国からは妖精郷と呼称されているらしい。


普段は水色。

喜びに満ちているときは、金色。

怒りで身を震わせているときは、赤色。

悲しみを抱いているときは、青色。

不安で心を乱しているときは、緑色。

興奮で気持ちが昂ぶったときは、紫色。

そして、絶望に沈んでいるときは--。


「…………」


映るのは、光のない、黒く澱んだ瞳。

奥に沈んだ影には、一縷の希望すら存在しない。


---死にたい。


これは、希死念慮などではない。

ただ、この痛苦な身体から、早く解放されたいだけだ。

だから、あらゆることを試した。

首を括ったり、高い場所から身を投げたり、溺水してみたり、挙げ句の果てには、刃物を心臓に突き立てたりした。


だが、この世界は残酷だった。


「……ぅ、っ」


吐き出した血液が、水面に飛び散る。

大理石で造られた縁を強く握り締めて、激痛が治まるまで耐えた。


---あと、2年。


世界の因果が妨害するならば、それに対抗する術は持っていない。

もう既に、小説の冒頭は終えている。

現在齢14であるアウロラの命数は、16になるまでの約2年間。

このまま天運に任せていれば、待ち焦がれた死が訪れるだろう。

だが、それは、切望する苦痛なき死ではない。


「……はぁ、」


この世界は、エステラを中心として廻っている。

そして、アウロラという人間は、物語に一味加えるためのスパイスに過ぎないのだろう。

所詮は、彼女を引き立たせるためだけの使い捨ての道具。

それ以上でも、それ以下でもないのだ。


口元に付着した血を洗って、芝の生えた地面に座り込む。

頭を縁に預ければ、眼前には曇りなき青空が広がった。


感動も感慨もない。

この心中を渦巻いているのは、虚無感と絶望感だけだった。


◇◇◇

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