第6章 普通の高校生編
第49話 普通の高校生、夜霧影人
俺の名前は
天堂家というお金持ちの家に仕えている使用人――――らしい。
その家の一人娘である天堂星音というお嬢様に仕えている――――らしい。
らしい、と。さっきからそればかりだけど仕方がない。
俺自身よく分かっていないのだから。
どうやら俺は記憶喪失というものになっているらしい。
バナナの皮に足を滑らせてしまったという、一周回るどころか百周ぐらい回って逆に新鮮味さえありそうな理由というのが、笑ってもいいのか判断に困るところだ。
普通に日常生活を送る分には問題ない。
スマホの使い方も電車の乗り方も覚えてたし、散歩だって出来た。
問題はそれ以外の記憶。俺が忘れてしまった記憶だ。
天堂家のお医者さんが言うには――――
「あくまでも一時的に記憶を失っているだけで、しばらくすれば元に戻るでしょう。恐らく影人は頭を打つ寸前で、本能的に『気』を脳に巡らせたのでしょうね。そのおかげで症状が幾分か和らいだのかと」
なんだよ『気』って。何者なんだよ、記憶を失う前の俺。
…………いや。俺は記憶喪失になった人間だ。もしかしたら常識の一つや二つ、ぽろっと落としてしまったのかもしれない。
「気……? え? は? ま、まあ、大丈夫そうならいいけど……」
なんかお嬢様も困惑していたので、やっぱりなんか記憶を失う前の俺がおかしいだけだったらしい。むしろダメだろ。
まあ、とにかく。俺の記憶喪失はそのうち、自然と元に戻るらしい。
この場合は思い出すと言った方が良いのだろうか。どっちでもいいか。いずれ数ヶ月で元に戻ると分かればちょっと気分は楽だ。
色々と忘れてしまっているせいかな。楽観的になっている自覚はあった。
「しばらく様子を見てみましょう。何かあったらすぐに連絡をください」
――――と、そんな総括を受けて。俺とお嬢様は医務室を後にした。
「ねぇ、影人。頭の怪我は本当に大丈夫? 気分が悪いとかはない?」
「大丈夫ですよ。そんな深い怪我でもなかったらしいですし」
緊張するなぁ……。
天堂星音さん、だったか。こんなにも綺麗で可愛い女の子が傍にいるし、心なしか距離も近い。男子としてドキドキしてしまうのは自然というものだろう。
「……でも、まあ。良い機会だわ。記憶が戻るまでゆっくりしてちょうだい」
「え? お仕事があるなら、働きますよ」
「あら。私が記憶喪失の人間を働かせるようなご主人様に見えるの? それに天堂家だって、そんなに人員不足でもないわ。むしろ休みなさい。働き過ぎなぐらいなんだから、あなた」
「……俺って、ワーカホリックだったんですか?」
「少なくとも、私が無理やり休みをとらせたことはあったわね。というかそうしないと休まない人だったし」
「はー。記憶を失う前の俺ってそんなに夢中だったんですねぇ」
「何によ?」
「何にっていうか、天堂さんにです」
夢中になってないと、そこまで働けないだろう。少なくとも今の俺はそう思う。
「――――っ……記憶喪失になっても、影人は影人ね」
「? はい。俺は夜霧影人らしいですが」
「そういうところも……はぁ。ちょっと安心しちゃったのが、不本意だけど」
なんだろう。少しだけ、天堂さんの顔に明るさが戻った気がする。戻った? うん。多分、そうだ。戻った。なんでそう思ったのか分からないけど。
「いい機会よ。とにかく仕事は休み。しばらくは普通の高校生をやりなさい。これは命令よ」
身体が休むことに対して僅かな拒否反応を示している気がするものの……記憶喪失の怪我人がうろちょろしてたら迷惑になるかもしれないしな。
「分かりました。では、お言葉に甘えて……って、俺の家ってどこにあるんですか?」
「私と同じ天堂家のお屋敷。そこの使用人用の部屋よ」
――――と、いうわけで。
俺は天堂家の屋敷にある、俺の部屋という場所に戻ってきた。
「……あんまり生活感ないな」
テレビとか冷蔵庫とかテーブルとか棚とか、暮らしていくにあたり最低限必要な物は揃っているけど、それだけだ。使用人用の部屋だから? いや、そういうわけでもなさそう。他の使用人の部屋もちらっと見たけど、これよりは生活感あったな。それに比べると、ここはまるで住宅展示場のサンプルみたいな部屋だ。
「うっ…………!」
不意に、頭が痛んだ。頭痛だ。ズキズキとした痛みが頭の中を捻じれているような。
「これ、って……!?」
頭の中に映像? 景色? いや、違う……記憶だ。記憶が断片的に浮かんでくる。
そうか。何かを思い出しかけているのか。
これは……お嬢様? 天堂さんだ。
場所は、ここではない別の部屋。マンションの一室? 夏休みに一人暮らししてたって言ってたっけ……。
俺はどうやら外に出かけていたらしく、部屋に帰ってきたら天堂さんが待っていた。
『おかえりなさい、影人』
エプロン姿で俺の帰りを出迎え、手料理のカレーを振舞っている。
…………まるで新婚だな。くそっ。もう少し鮮明に思い出せれば……声も断片的にしか思い出せない。
『――――なぜ隣の部屋に引っ越してきたんですか?』
俺からの問い。お嬢様は、天堂さんは、それに対して……。
『ラブラブあまあま夏休みライフを過ご――――』
ラブラブあまあま夏休みライフ!?
今、ラブラブあまあま夏休みライフって言った!?
え!? なに!? 俺と天堂さんってどういう関係!?
『ここにいるのはただの「天堂星音」であり、ただの「夜霧影人」。そうでしょう?』
そうなの!?
「うぐっ……! はぁ、はぁ、はぁ……」
頭痛が収まった。頭の中がぐるぐるとしているけれど……どうやら少しは記憶を思い出せたらしい。
「俺と天堂さんって、主従関係なんだよな……?」
少なくともそう聞いている。まさか周りが嘘をついている?
……いや。他の人間ならともかく、天堂さんがそんな嘘をつく理由がない。
主従関係であることは本当であると考えよう。
「主従関係じゃ…………ない……のか? 天堂さんはエプロン姿で俺の家で俺の帰りを出迎えてくれるような関係の子で、俺はそんな子と『ラブラブあまあま夏休みライフ』を過ごしていた……」
隣同士の部屋に住んで、同棲紛いの生活をしていたような関係だった。
従者というにも友達というにも近すぎる。幼馴染? それも一面では真実なのだろうが、答えではない気がする。
「恋人、あるいはそれに限りなく近い関係だった……?」
少なくともそう考えるのが自然だ。だって普通に考えて、ただの従者と『ラブラブあまあま夏休みライフ』なんて過ごさないし……!
「そうか……俺って、恋人がいたかもしれないのか……」
しかもあんな可愛くて綺麗で美人で胸も大きくて……いったい前世でどんな徳を積んだのだろうか。記憶を失う前の俺よ。教えてくれ。
ああ、でも心がちょっと浮つくな。彼女がいたかもしれないって分かるとこれだ。俺って現金な奴だ。
「ん?」
ふと、部屋の片隅にあるカラーボックスに目が留まった。
趣味の気配すら感じられない部屋だっただからか、カラーボックスの中に納まっているいくつかの透明なケースが逆に目立った。
「なんだろこれ……CDか? 配信じゃなくてわざわざCDを買うなんて……もしかして、音楽が趣味だったとか?」
一応、俺が使用していたらしいスマホの中身を軽く確認はしていたけど、音楽アプリも入っていたはずだ。だからてっきり配信とかで聴いているものかと思ってたんだけど……。
「……
天堂さんが言ってたっけ。羽搏乙葉さんって子と友達だったって。
確か……そう。歌姫だ。世界的にも有名な。今は活動休止中だったとかなんとか。
もしかしてこの子のファンだったのかな? こうやってわざわざCDまで手に入れてるぐらいだし……いや。友達を応援する意味を込めて買っていた、っていう線もあるな。
「うっ…………!」
また頭が……! さっきと同じ感覚……記憶が、戻る時の、痛み……!
『本日――――で乙葉さんの――マネージャーをさせていただきます。夜霧影人です。よろしくお願いします』
乙葉さんの……マネージャー……? 俺が? マネージャーだったのか?
くそっ。自分の声なのに。自分の記憶なのに。また断片的で……言葉が全て聞き取れない……!
「……? これは……羽搏乙葉、さん……?」
また断片的な記憶が蘇ってきた。俺は……どこかの扉を開けている。
そしてその奥から出てきたのは……エプロン姿の、羽搏乙葉さんだ。
『……おかえりなさい、だーりん。お風呂にする? ごはんにする? それとも……』
…………え? だーりん?
『……わ・た・し? きゃー』
『きゃー』じゃない!!
待ってくれ! どういうこと!? ねぇ、これどういうこと!?
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
痛みが治まってきたので、また息を整える。
「俺は……歌姫のマネージャーで、だーりんだった……?」
少なくとも蘇った記憶をもとに考えるなら、そう考えるしかない。
凄いな、記憶を失う前の俺。マネージャーやってたんだ。しかもあんなにも可愛い歌姫の……羽搏乙葉のだーりんだったなんて……。
…………ん? 天堂さんとの『ラブラブあまあま夏休みライフ』は?
そっちはどういうことだ? 分からない……天堂さんとは同棲していた一方で、羽搏乙葉さんのマネージャー業に勤しみつつ、だーりんでもあった……?
おかしいだろ! 成立しないだろ! その二つは! 同時に!
「…………そういえば、天堂さんから聞いてた、仲のいい女友達がもう一人いたよな。確か名前は……
くそっ! まただ……! また、頭に痛みが……!
まるで波のように痛みと記憶が襲い掛かってくる……!
「あぁ、でも思い出したくない……! 今はこれ以上、情報を増やしたくない……! というか、流れ的になんか嫌な予感がする……!」
そんな俺の意志など関係なく、また断片的な記憶が蘇っていく――――。
『それで……ですね。影人様。せっかくですし、合宿ということにいたしませんか?』
ああ、やっぱりそうだ。四元院海羽さんだ。
また可愛い子だな。どうやら俺の知り合いには可愛い子が多いらしい。
『合宿ですか?』
『ええ。夏休み合宿。泊りがけの特訓です。これも、普通の高校生らしいでしょう?』
『確かに!』
合宿……。なんだ、普通の高校生らしいことをしてたんだな。
記憶を失う前の俺って。ちょっと安心した。
『プールのあるわたくしの部屋で、共に寝泊まりしてくださいますか?』
『はい! ――――――――――――?』
どこが普通の高校生!?
あと普通にいい返事してんじゃねぇよ! 断れや!
……あ。でも待って。こんな可愛らしいお嬢様から誘われたらちょっと悩む……。
「うぐっ……! はぁっ、はぁっ……! 俺と四元院さんは、同じ部屋で寝泊まりする関係だった……?」
痛みがひいた。それからしばらく警戒していたけど、それ以上の記憶が戻ることはなかった。
「とりあえず、情報を整理しよう……」
取り戻した記憶の断片。それらから得た情報を統合すると……。
「俺は天堂さんと半同棲状態であり、『ラブラブあまあま夏休みライフ』を過ごしていて……羽搏乙葉さんのマネージャーで、だーりんで……四元院海羽さんとは、ホテルの同じ部屋で寝泊まりする関係だった……」
…………記憶を失う前の俺、なにしてるの?
――――――――――――――――――――
【お知らせ】
本日、書籍版第2巻発売です!
よろしくお願いします!
帯の裏には新しいお知らせもあります!
(たぶんそのうちHJ文庫様の公式Xや公式サイトなどでお知らせされるかと思いますが!)
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