第45話 兄と妹

「わたくしの兄について、ですか?」


 ホテルの部屋にお邪魔させてもらい、お嬢と乙葉さんには席を外してもらった。

 ここからはプライベートな話になるだろうから。


「なぜ急にそのようなことを? 泳ぎに関係あるようには思えませんが……」


「技術的なことは昨日、散々試しましたからね。今日は精神面でのアプローチを試そうかと」


「……なるほど。確かに、精神が肉体に与える影響は大きいですものね……それがスポーツやそれに類するものならばなおのこと」


 海羽さんはスポーツが不得手というわけではない。

 むしろお嬢に及ばないまでも、様々な競技でかなりの成績を残している。だからこそというべきか、俺の話への理解は早かった。


「ええ。ですから嵐山様との間に何か悩みや問題のようなものがあるなら、一度誰かに相談してみませんか? 全てが解決できると驕るつもりはありませんが、手助けならばできるかもしれません。俺でなくても、お嬢や乙葉さんでも構いませんから」


「………………」


 どうやら何か心当たりがあるらしい。海羽さんの瞳が逡巡に揺れる。


「………………昔、幼い頃。家族で海にいったことがありましたの」


 開いた窓から吹き込んでくる風が頬を撫で、髪を揺らした後、海羽さんはぽつりと一滴の雫を垂らすように言葉を絞り出した。


「お父様とお母様。それと……お兄様も一緒に」


「嵐山様と、ですか?」


「ええ。あの頃はまだ、兄妹仲はよかったと思います。よくお兄様の背中についていくことも珍しくありませんでしたし……ちょっと影人様? なぜそのようなにこやかな顔をしてらっしゃるの?」


「お気になさらず」


 想像するだけで微笑ましい。


「……まあ、その時にですね。わたくし……水中で足を痛めて、海で溺れてしまいましたの」


「――――……それは」


 海羽さん自身は海が好きだと言っていたけれど、無意識のうちに水に対する恐怖心が心を蝕んでいたとしても不思議ではない。


「ああ、ご心配なく。水に対する恐怖心はないんですよ。本当に。入浴だって好きですし、話した通り海も好きですわ」


「無意識のうちに恐怖心があるということは?」


「無意識、と言われてしまえば確かめるのは難しいですが……少なくともわたくし自信、水に対する苦手意識も恐怖心もありません。それは断言できます。ただ……」


「ただ?」


「わたくしが溺れた時、近くにいたのはお兄様でした。わたくしは助けを求めるようにお兄様に手を伸ばして、お兄様もまたわたくしに手を伸ばしました。ですが…………掴んでは、くださりませんでした」


 海羽さんは顔に影を落としながら、言葉を絞り出した。


「お兄様は、わたくしを見捨てたんです」


     ☆


 一通りの話を終えた後、俺達は今日もまたプールで海羽さんの泳ぎの練習に取り組んだ。

 今日に限っては、昨日のような飛び道具ではなく地道な基礎練習に集中してみたものの、成果も進展も得られなかった。


 乙葉さんとお嬢に相談し、俺の推測を告げた上で今日一日の練習を注意して観察してもらったが、二人とも精神的な部分が影響しているのではないかという見解は一致した。


 やはり見たところ本人が言うように水が苦手、というわけではなさそうだ。

 水を顔につけることにも抵抗感が無かった。だが泳ぎの動作……いや。水中に入ると、どうも動きがぎこちなくなり、その結果、犬〇家になってしまうんだけど。


(今日一日、海羽さんを観察して確信した。アレは恐怖や怯え、焦りの類で間違いない。だけど水に対する恐怖心ではないことも確か)


 ……では一体、彼女は何に怯えてるのか。


 水ではない。海ではない。泳ぎでもない。

 それだけが謎だ。とはいえ一人で考えても答えは出てくるものでもない。


(そもそも、なぜ嵐山様は海羽さんの手をとらなかったのだろう)


 海羽さん本人は分からない、と言っていた。海羽さんの救助は傍にいた護衛が務め、嵐山様はついぞ触れることはなかったらしい。そして、その日を境にしてお二人の仲は少しずつ悪くなっていった。


「……なら、まずはその理由を探ってみるか」


 嵐山様が海羽さんの手を掴まなかった理由。それを知ることが、海羽さんの精神的な傷を和らげることにも繋がるかもしれない。


『――――で、オレに連絡をつけてきたってわけか』


「ああ。嵐山さん個人についてな。頼む、雪道」


『あのなぁ……オレは便利屋じゃないんだぞ? 四元院家の次期当主を調べろなんて無茶ぶりが過ぎるだろ。だいたいなんでオレにほいほいそういうの振るかね。天堂家はその手の人材にも困ってないだろ』


「雪道に頼む理由は三つ。一つ目はお前の能力を見込んでのことだ。天堂家にも情報収集をはじめとした諜報の部署はあるけど、それで解るのはあくまでも外面だけ。けどお前の老若男女問わない幅広く深い人脈は内面的な部分、つまり公的な記録じゃなくてもっと深い部分を調べるのに向いてる」


『ほーん。で、二つ目は?』


「二つ目は状況だな。今の俺は一時的にとはいえ天堂家を離れてる。俺個人の事情で正式な人員を動かすわけにもいかないし、そうでなくても天堂家の人間を使って四元院家当主の内情を調べるなんてことはできない。天堂家にとってハイリスクノーリターン。何より旦那様や奥様に迷惑をかけることになる」


『はいはい。そりゃオレに迷惑をかけても心は痛まねぇもんなァ。ちなみに三つ目は?』


「一番頼れる親友だから」


『しょーがねぇなぁこんちくしょう! 頼まれてやるよ!!』


 喜びと照れが入り混じった声がスマホ越しから聞こえてくる。

 幼馴染、兼、親友が今、どんな顔をしているのかが容易に想像できた。


「ありがとな。助かる」


『つーか、最初からそう言えよな~。あーあ、これで引き受けるオレもオレだけどさ』


「今度何かお礼する」


『言ったなこのやろ。絶対だかんな』


 対象はあの四元院家次期当主。さしもの雪道も時間がかかるとのことだ。

 その間の時間を無駄にはできない。どっちにしろ嵐山様本人への接触は必要になるか。


「まずはアポをとらないとな」


 というわけで、再び海羽さんのもとをたずねてみたのだが……。


「お兄様と連絡をとることはできませんわ」


「それは、俺が天堂家に仕えていたからですか?」


「そうではありません。わたくしからお兄様への連絡手段がないんです。……正確に言えば、わたくしからの連絡は全て無視されてしまうのです。これまで何十、何百、何千といった連絡を一方的に無視されておりますので」


「えっ? なぜですか?」


「わたくしが知りたいぐらいですわ。あの人は、わたくしのことを避けておりますから」


「……では、嵐山様が今どこにいるのかは?」


「それも知りません。仕事でこの島に来ていることすら知らなかったぐらいですから。……いつものことです。わたくしを除け者にするのは。不出来な妹のことが気に入らないのでしょう」


「そんなことは……」


「あるのです」


 きっぱりと断言する海羽さん。どうやら俺が思っている以上に、嵐山様との溝は深いようだ。海羽さんからすれば当然か。何しろ、全てが一方的なのだから。


 さて。まいったな。こうなってくると、嵐山様とのアポをとる方法がない。

 この島にはいくつかの宿泊施設があるが、そこを片っ端から調べるわけにもいかないし。


「……仕方がない」


 少し強引な方法だから避けたかったけど、このままだと時間を浪費するだけだ。

 行動すると決めた俺は、すぐにホテルを出た。といっても、そう遠くに移動するわけではない。海羽さんが用意してくれたこの宿泊施設は緑豊かな自然との調和を考慮した配置や設計がなされている。つまるところ、周囲には密かに対象を護衛するに適したポイントがいくつかあるわけで――――。


「警護お疲れ様です。あのー、少しお時間よろしいでしょうか?」


「――――っ……!?」


 このように、四元院家の精鋭であろう護衛が潜んでいるわけだ。


「な、なぜ貴様がここに……! いや、それよりなぜこの場所が……!」


「気配で」


「気配で!?」


 そこまで驚くことだろうか。護衛にとっての基礎技術なのに。

 旦那様ですら「え~~~~? 気配すら察知できないの~~~~? じゃあ星音の傍に置くわけにはいかないよなぁ~~~~~~~~!?」と言われたぐらいだ。今思えば、あの時の俺はとても未熟だったな。恥ずかしい。


「海羽さんの護衛ですよね。お屋敷に来た時からずっと気配を感じていましたし、プールで練習していた時も常に。今は施設内に十五人、外にあなたを含めて十九人が割かれていますね。お疲れ様です」


「天堂家の番犬……噂に違わぬバケモノっぷりだな」


 俺程度のレベルでバケモノだなんて過大評価だ。

 旦那様に比べれば俺なんてまだまだチワワみたいなものだ。俺は水の上を百メートル程度しか走れないし。


「今はただの夏休みを満喫している学生です」


「……その、ただの学生が何の用だ?」


「嵐山様と繋いでくれませんか? お話したいことがあるんです」


「……………………」


 俺の申し出に護衛の方は困惑している。当然の反応だろう。


「海羽さんに関係することです」


「……少し待て」


 護衛の人は耳に装着している端末を使い、誰かと連絡をとりはじめた。

 恐らくは嵐山様だろう。


「…………断るそうだ。嵐山様のスケジュールには約束の期日まで空きが無い」


「そうですか」


 実際、次期当主ともなれば忙しいのだろう。

 だが……嘘のような気もする。嵐山様は俺を避けた。いや、正確には海羽さんの話をすることを避けたのか?


 海羽さんについている護衛の気配は嵐山様と出くわしてから数が増えている。

 これはつまり嵐山様の指示によるものだ。過保護と言ってもいい。そんな彼が海羽さんについての話があると言われて、時間を空けないわけがない。


「……わかりました。出直すことにします」


 つまりこれは、意図的に避けたということだ。

 これで嵐山様が何かを知っているということはより確実となった。


 やはり彼とは一度、話をする必要がありそうだが……さて。どうやって接触したものかな。


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