第35話 歌姫の夢
乙葉さんはどういうわけか、先ほどから可能な限り監視カメラの死角ばかりを選んで行動していた。常日頃から警戒を怠らず行動するとは……流石は歌姫。
「……乙葉。あなたはさっきから一体何をしているのですか?」
が、乙葉さんのマネージャーである巣堂さんは沈痛な面持ちで頭を抱えていた。
「……警戒。視られてると邪魔が入るかもしれないから」
「マスコミを警戒するのはいいですけど、流石にこんなとこまで追ってこないかと」
「……マスコミならまだマシ。可愛げがある」
「では何を警戒してるの?」
「……わたしの
なぜだろう。乙葉さんの言う『あの子』という言葉でお嬢の顔が浮かんだ。
確かにお嬢ならそれぐらいのことは簡単にできる。けどそこまでして何を視る必要が…………ああ、なるほど。そういうことか。
お嬢はきっと、友人である乙葉さんのことを心配しているのだ。
球技大会のバスケットボールを通じて心を通わせてから、どんどん仲を深めてるもんな。
乙葉さんが監視カメラの死角を選んで行動しているのは照れからくるものに違いない。
「乙葉さん。俺は分かってますよ」
「……何も分かってない」
そんな馬鹿な。
「はぁ……声が戻ったのは嬉しいですが、前よりも行動と発言が突飛になった気がします」
「前はどんな感じだったんですか?」
「ライブ後に迷子になった挙句いつの間にか会場のある街の隣の県にいたり、家出と称して私の目を盗んでホテルから脱走したりするぐらいでしょうか」
「乙葉さんって見た目は繊細で儚げな感じがしますけど、実際は物凄い行動力がありますよね」
「見た目は妖精、中身は怪物ですから」
「……照れる」
「照れないでください」
そういえば乙葉さんと最初に出会った時も、ビルの屋上にある手すりにロープを結んで降りて……というか、落ちてたっけ。
「……っと。そろそろ次の予定ですね。乙葉、着替えて来てください。その後すぐに移動します」
「ん」
更衣室へと向かおうとした乙葉さんだが、何か思いついたように足を止める。
「……
「冗談で場を和ませようとしてくれてるんですよね。俺は大丈夫ですから、早く着替えてくださいね」
「……冗談じゃないのに」
このバイトを誘ってくれたのは乙葉さんだからな。
俺が働きやすいように、冗談を言ったりして空気を作ってくれようとしているのだろう。自分だって復帰に向けたトレーニングをしている最中だというのに細かい気遣いもできるのか。流石はプロだな。
その後、乙葉さんのスケジュールは順調に消化されていった。
確かに行動が突飛なところもある乙葉さんだけど、復帰に向けてレッスンを積んだり打ち合わせをしていくその姿や横顔はプロそのものだ。
乙葉さんと知り合ってからクラスメイトになったり、球技大会に打ち込む姿を見たり、一緒にテーマパークに行くことになったり、色々な顔を見てきたけれど、こうして実際に『歌姫』としての顔は初めて見る。
特に目を惹くのが歌っている時だ。
時に儚く、時に熱く、時に楽しく、時に愛らしく。
歌声と共に、俺の知らない乙葉さんの横顔を次々と垣間見えることができる。
気づけば目の前の素晴らしいアーティストに対して、心の底からの称賛を贈っていた。
☆
計 画 通 り。
わたしが星音と渡り合うためには、自分の強みを活かすしかない。わたしにとっての強みとは即ち、『
思えばこれまでのわたしは影人とは少し距離が近すぎた。
距離の近さでは星音には勝てない。
だからこそ、ここであえてわたしと影人の距離感を離す。
歌姫という肩書きに秘められた非日常。手の届かないあの子感。そこに普段のわたしとは違う顔を見せれば、ギャップで心を動かすことができる。
何より――――星音がどれだけ天才であろうとも、歌だけは負けない自信があった。
ふふふ……これは星音にはできない。歌姫であるわたしにしかできない戦略。
あとは影人と密室で二人きりになって、『あの手の届かない歌姫が今はこんなにも近くに……』みたいなシチュエーションに持って行って畳みかける。
…………勝った。これはもう完璧に勝った。
「――――
打ち合わせを終えたわたしは、事務所の空き部屋で作業をしている影人に声をかけた。
「乙葉さんのファンレターの確認をしています」
「……ファンレターの確認?」
「はい。内容は勿論のこと、中身に不審物が入っていないかなども確認させてもらってます。……乙葉さんは失った声が戻ってきたばかりですからね。巣堂さんからも入念にチェックするように頼まれているんです」
「……嬉しそうだね」
「お嬢をお守りする立場にある俺の経歴を見込んでのご指名ですからね。……あ。ちなみに、後で巣堂さんも念のために確認するダブルチェック体制になっていますから」
ファンレターの確認なら他の人に任せてもいいのに。
護子らしいといえばらしい。それだけわたしのことを大切にしてくれているのも伝わってくる。
「凄いですよね。ネットやSNSがある今の時代に、こうやって手書きで思いを手紙にしたためてまで、乙葉さんのことを応援してくれているんですから」
わたしの復帰はまだ当分、先のことだ。
今後の活動のためにも、この活動休止期間を利用して色々な経験を積んでいくことにしている。経験を積めばそれだけ表現にも幅が出るから。
しかし、影人が確認しているファンレターは、いくつかの箱の中がいっぱいになるほど詰まっていた。
「……活動休止してるのに」
山積みになっているファンレター。以前なら何も思わなかった。
だってわたしにとっての歌は、お母さんみたいな魔法の歌を目指すための手段であり、お父さんの哀しみを癒すための道具でしかなかった――――そう思っていたから。
でも今は違う。わたしは歌うことが好きだということに影人が気づかせてくれた。
そして、そんなわたしの歌を好きだよって言ってくれる人がこんなにも居ることが、たまらなく嬉しい。胸の中がいっぱいになる。
「まるで魔法ですね。乙葉さんの歌は」
「…………えっ?」
「どうしました?」
「……わたしの歌、魔法みたい?」
「俺はそう思います」
「……どうして?」
わたしの中では、まだ自分の歌をお母さんみたいな……堅物のお父さんの心を緩ませるような魔法の歌だとは思えていない。自分の歌が嫌いだとか、そういう気持ちがあるわけじゃないけれど。やっぱり「まだまだ遠いな」と思ってしまう自分もいる。
なのにどうして影人は、わたしの歌を……。
「だってこれだけの人の心を動かしているんですよ。魔法みたいじゃないですか」
影人は山積みになったファンレターを見ながら優しく笑う。
「そう……かな……?」
「そうですよ。だってここには書いてありますから。アナタや、アナタの歌にどう心を動かされたかが、事細かに。動かぬ証拠ってやつです」
考えたこともなかった。そこに書かれてある言葉の意味を。
考えたこともなかった。ただの文字の羅列ではないのだと。
それを知った。また影人に教えてもらった。だから気づけた――――
「俺からすれば、乙葉さんは魔法使いですよ」
――――わたしはもうとっくに、なりたいものになれていたことに。
「……あのね影人。わたしのお母さんは魔法使いだったの」
既に影人が確認したファンレターの一つを手に取って、中を開く。
「……お母さんが歌うとね、不愛想なお父さんも笑顔になるの。わたしはお母さんみたいな魔法使いになりたいから歌ってた。いつかお母さんみたいな魔法使いになるのがわたしの夢だった」
今なら分かる。わたしのことを応援してくれているファンの子が、この手紙に込めた思いに。
「……ありがとう、影人。わたしが自分の夢を叶えてたことに気づかせてくれて」
わたしは表情が豊かじゃない。感情に疎い。だからいつも気づかない。大切なことを見落として、取りこぼしてばかりで。
だけど影人はいつも教えてくれる。わたしの取りこぼしてきた大切なものに気づかせてくれる。きっとそれは彼にとってはなんでもないことなのかもしれないけれど。わたしにとっては、大切なこと。
「乙葉さんのお役に立てたのなら嬉しいです。特に今は、乙葉さんのマネージャー補佐ですし」
「……ん。だったら、わたしが次の夢を叶える手伝いもしてくれる?」
「それは勿論。ちなみに、どんな夢なんですか?」
ファンレターを大切に抱きしめながら、わたしは胸の中に自然と浮かんだその夢を口にする。
「心を動かすわたしの
以前のわたしは、心が凍てついていた。何も感じず、毎日が退屈で、色褪せていて。
でも今は、毎日が楽しい。影人と出会って、自分の本心に気づいてからは、毎日がとても色づいている。
心を動かしたことで、わたしの世界は変わった。幸せになった。
だからわたしもみんなの心を動かしたい。みんなの世界を幸せにしたい。
「素敵な夢だと思います」
「……わたしのこと、見ててね」
「? はい。勿論です」
……ああ。一気に畳みかけるつもりだったのに、いつの間にかこっちが大切なものをもらっている。きっと星音は、いつもこんな感じで返り討ちにされていたのだろう。
「乙葉さんのことは、影ながら応援させていただきますよ。……とはいっても、マネージャー補佐のお仕事は今日で終わりですが」
「……今日だけじゃなくても、ずっといてくれていいんだよ」
「光栄ですが、そうはいきません」
「………………星音に仕えてるから?」
「ああ、いえ。そうではなくてですね。実はもう次のバイトが決まってるんです」
星音に仕えてるから、わたしのところには来てくれない――――そう言われなくて思わず安堵した。
「……どんなバイト?」
いっそのこと影人と同じバイトをしてみるのもいいのかもしれない。
アルバイトはしたことがなかったし、良い経験になるかも……。
「――――四元院家で、海羽様のお世話をすることになってます」
「は?」
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