episode26

 感傷的になってしまうのは、きっと夜だからだろう。

 人は夜行性じゃないから陽が落ちると弱体化してしまう。鋼のような頑丈な心の持ち主だろうとこんにゃくみたいにふにゃけてしまう。普通の人ならなおさらだ。布団で眠ろうとするとき不安や後悔を思い返してしまうのと同じで、弱っている心のスキマに負の感情が入りこんで、それは毒のように蝕んで痛みを与える。人ならざる者には無縁の痛みだ。


 夜ってやつはそうやって人を弱らせていく。だから弱い自分が露呈してしまった。よりによってクラスメイトの男子の隣で。それもこれもぜんぶ夜のせい。そうじゃなきゃ、誰かの隣で弱音を吐くことなんてないのだから。


「…夢を諦めたい自分と、諦めきれない自分がいる。揺らぐ天秤の中心にいるわたしは右往左往して、結局どっちも選ぶことができずにその場に佇んでいて。自分の気持ちを偽り続けてたからなのかな。忘れちゃいけない大切な想いさえも見失ってしまって」


 油断していると本音が口から零れ落ちていく。弱音を吐きたくなる。どろどろとしていて美しさのカケラもなくて、誰にも見せられないような情緒が身体を巡っていく。違うことを考えても引き戻される。逃避したくてもさせてくれない。ちゃんと向き合え、と過酷を強いてくるイジワルな自分がいる。


「わたしは、わたしのことが理解らないよ。こんな自分…大っ嫌い」


 花瀬は体操座りをしながら膝に顔をうずめる。彼に、菅原に、顔を見られたくなかった。ぎゅっと袖下を握る。普段はあまり着ない従姉妹から貰ったおさがりの可愛い服。紙より薄くて肌触りの良い素材だから簡単に握りこぶしに収まった。シワになるなんて知ったこっちゃない。どうせ洗濯すれば元に戻るんだから。羨ましい。もしも人間洗濯機なるものがあれば、ぜひとも花瀬空を洗濯してほしい。この悩みをリセットできるなら願ってもないことだ。


「あはっ、今日のわたしはだめだ」


 考えつくことすべてがマイナス方向へ降下していく。


「いつもの、元気いっぱいの、花瀬空にはなれないや」


 そんな彼女を慰めるように打楽器と管楽器で奏でられるジャズ音楽が流れてきた。おそらくテープで流しているのではなく生演奏。振動が空気中を泳いで肌に伝わってくる。商店街からだった。お酒を飲んで気分がよくなった誰かが楽器を持ってきて演奏を始めたのだろう。ダンスを踊りたくなるような軽快なテンポで、見物人が手拍子をしてリズムに乗っている。とても楽しそうだった。この音楽に合わせて踊ったりしたらさぞ楽しいだろう。


 それなのに花瀬は顔すらも上げず、その賑やかしい音さえも疎ましく感じていた。人の気持ちも知らないで楽しそうにはしゃいでる、そんな大人たちも疎ましく、また、ズルいと思っていた。大人はズルい。地に足をつけて自分の立ち位置、進むべき道を理解しているのだから。それを言ったらクラスメイトだってズルい。進路が決まってそこに向かって歩き始めているんだから。


 自分の中だけにとどまらず、知らず知らずに拡がりはじめた負の感情に花瀬は我に返る。このままだと菅原を傷つけてしまいそうな気がした。落ち着け。そうやって心の中でそう唱えるが、結局のところ応急処置にしかならない。

 ああ、これは良くない。気分を変えようとか深呼吸して落ち着こうとか、そんな簡単に解決できる状態じゃない。深淵の溝に足を挟んでしまったような、どうあがいても、一人ではどうしようも対処できない場所にいる。だから。だからね。


「わたしはどうすればいいのかな…菅原」


 手を差しのべなくてもいい。救ってほしいとまでは言わない。ただ、あなたの優しい言葉が欲しい。頑張っているよ。大丈夫だよ。そんな適当な一言でもいい。かりそめの優しさでいい。誰でもいいわけじゃない。隣にいるあなたに。菅原に言ってほしい。どうして菅原なのか尋ねられても答えられる自信はないけど、今は、あなたがいい。


 花瀬は顔を隠しながらも隣にいる菅原に強く願った。

 以心伝心の仲ではないかぎり口に出さなきゃ伝わらない。菅原とはそこまでの仲ではないことは分かっている。そんな保険をかけながらも、それでも期待する言葉を待っていた。音楽なんて聴こえない。風の音も、室外機の音も聴こえない。菅原の吐息だけが聞こえる。その口から発せられる言葉を待っている。


「僕は」


 菅原の言葉がなぜだか怖くて、花瀬は瞼に力をこめてぎゅっと目をつぶる。


「僕はね、今の自分を悪くないと思いはじめているんだ」


 曇天状態の花瀬とは違って、晴れやか〜な表情をみせる菅原。どことなく『ドヤッ』みを感じる。期待を大きく下回る発言に、感情の整理ができず花瀬は顔を歪ませる。


「なんで悲しみに暮れる女の子の隣でナルシスト発言するのよ」

「ち、違くて」


 だけどもすこしだけ元気が出た。もしかすると菅原なりの励ましジョークだったのかもしれない、そう思ったが、顔を赤くして否定しているところを見ると違うようだった。それはそれで引いてしまうが。菅原も地面に腰を落として膝を抱きしめるように体操座りをする。ナルシスト発言と言われてしまったことが恥ずかしかったのか、彼の朱色に染まった耳がよく目立っていて、どうしてか自然とそこに目が向いてしまう。


「高校に入学した当初、自己紹介カードって書いたの覚えてる?」


 花瀬は「へっ」と素っ頓狂な声を出してしまった。耳フェチではないが、彼の耳をボーっと眺めてしまっていた。


「お、覚えてるよ。自己紹介カード書かせるなんて小学生かってツッコミが飛び交ったやつね。それがどうしたの?」

「その自己紹介カード、僕はほとんど白紙で提出して教師に居残りさせられていたんだ。だけど居残ったところで書けないものは書けなくて、結局、空欄だらけだったけどしぶしぶ容認してくれたんだよね」

「ええっと、それはどういう…?」


 話の意図が読めず、花瀬は首をかしげる。


「僕には僕を支える夢があった。音楽が、歌うことが、僕のすべてだった。それを失ってから僕は自分というものに興味を無くしてしまったんだ。失ったというより捨てた、かな。その頃の僕を叩いたら空洞の反響音が鳴っていたかもね。それくらい僕は空っぽで、好きも嫌いも分からなくなってしまったんだ。ずっと自分のことを客観視して生きてきた」


 彼の語る口調は軽いものだった。それに相反して内容が重たい。彼自身はそれほど気にしていないのか、それともツライ気持ちを隠して強がっているのか分からない。だけど花瀬と同じように夢を失った喪失感が今も響いている様子だった。花瀬が夢を諦めた理由は、簡潔に言うとプレッシャーに圧し潰されてしまったから。では、彼が諦めた理由は何だというのか。


「実はねボイトレにも通っていたし、ピアノもギターも弾けるように練習していたんだ。好きなことに没頭していた毎日は、満天の星空を駆けているみたいにキラキラしていて――」

「菅原は、さ」

「ん?」

「どうして菅原は…」


『夢を諦めたの』。それを言おうとして、さすがに直球すぎるかなと花瀬は途中で口を結んだ。けれど、彼女が何を言いたかったのか何となく察した菅原は、それをすくい上げてくれた。


「そういえば言ってなかったね。言うのも恥ずかしいくらい単純な理由さ。同級生に馬鹿にされた。ただそれだけ。たったそれだけで数年間築き上げたものが簡単に崩壊した」


 あれは菅原が中学二年生の頃、外国語指導助手による英語の授業中のことだった。将来の夢を英語で答える学習で、ふいに指名された菅原は焦りと緊張から、とっさに『歌手になりたい』と漏らしてしまった。堂々と歌手になりたいなんて口にできるほど度胸のなかった菅原は誰にも悟られないようにその夢を隠していた。将来の夢を訊かれてもインターネットBoTのように『特にない』ときまって答えていた。だから文字通り漏らしてしまった、というよりも漏れてしまったと言った方が正しいだろう。


 冷や汗が脇下をとおる。心臓もうるさい。だけどちょっぴり期待もしていた。ちやほやされる期待だ。自慢できる実績はないけど、高らかな夢を語るなんて陽キャみたいじゃないか。目立たない生徒が歌手を目指してボイトレにも通っているなんてギャップがカッコいいだろう。成り上がり系のラノベの主人公を想像してしまった。そういう年頃だった。


『え、アイツが歌手?』


 クラスで一番声のでかいヤツがそう吐き捨てた。彼は笑いを堪えていた。それからカエルの合唱のように、ちらほら含み笑いが聞こえてくる。誰も擁護してくれない。だけどひどい悪口も飛んでこない。教師が授業を進めるまでの10秒間、ただただ笑われ続けた。そのとき強い恥じらいが菅原の心に傷をつけた。


 ここで言い返せるほど強くなかった菅原は俯いたまま席に座った。このまま窓を突き破って死んでしまいたい。見返してやるなんて悔しい気持ちを力に変えるなんてできやしなかった。次の日からボイトレを休むようになり、ピアノやギターに触れる時間が少なくなり、そんな日が何度も続いて、熱は徐々に冷めていった。


「所詮は他人に崩されるほどの安い夢だったんだよ。だから後悔はないと思った」


 菅原は「でも」と否定する。昔の自分自身を否定する。


「それはただ気持ちを抑えこんでいたにすぎなかった。後悔をうやむやにして歳だけ重ねて、そうやって大人になろうとしていた。たぶん死ぬ間際に思いだすんだろうなって。そう思ったら「本当にこのままでいいのか」と考えるようになったんだ」

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