7―ミヤ、マツリに参加を表明すること

「あの……」

「……ちょっと考えまとめるから、待って」

 どうする?

 どうするどうするどうする――――?

 一瞬のことだったし、仕事やほかの心配事や、慣れない客……のようなおまけもいたことで、チョウの危険度を失念していた。よりにもよって残高がワンツーで多い通帳を持って行かれるとは。しかも今日は大物家電である冷蔵庫までヤラレタ。きっと例によってリサイクルショップに売り飛ばして、チョウの財布を温めたことであろう。そんなことならミヤが手ずから売って生活費の足しにするものを。

「……っ」

 否、出来ない。

「……母さんが使ってた台所の物……どんどん消えてっちまうな……」

 今日失った冷蔵庫に、前回売り払われた電子レンジ。母親がまだこの部屋で暮らしていた頃は大いに活躍していたコーヒーメーカー。ミヤの誕生日にだけ出てきた電動の泡だて器。小学校の宿題で貸してもらったものの、結局母親が代打で夜なべしてけたたましく走らせていた古いミシン。あんな父親でも母親が居ればミヤと三人揃って温まっていた電気コタツ。同時に笑い合う瞬間をくれたテレビーー今はもう何もない。

 ガランとしたただの部屋。

 布団だけは残されているが、いまや万年床で一枚だけが敷いてある。そこだけが唯一のミヤの戻る場所だった。

「もう……疲れたな……」

 考えても考えても、空虚。

『何で俺、こんなに必死なんだろう。馬鹿みてえじゃねえか』

 そう口に出そうとしても、開いた口からはため息しか出てこなかった。

 空気が抜けていくように、傷だらけのフローリングに座り込む。

「仁人さん……!」

「さわんな」

 支えようした竹誓の手をミヤは振り払った。

「仁人さん……」

 今だけだ。

 今だけ、少しだけでいいから立ち止まらせてくれ。走るのをやめさせてくれ……。

 ミヤはそう頭の中で呟いた。

 がむしゃらに生きてれば。

 頑張り続けていれば。

 いつか何とかなると、そう考えていた。

 どこかの誰かが俺のことを見つけ出してくれて、良い方へ導いてくれると思っていた。

『そんな甘い考えはガキの空想だ。現実はそんなに甘くない。生き抜くには金が必要なんだから、何を犠牲にしても稼がねえと。明日を迎えるためには金だ。やるしかない……!』

 自分で自分を失うことは、初めから頭に無かった。

 この沼落団地5号棟103号室にあの日のすべてを取り戻す。

 じゃないと、母親が出稼ぎまでして自分を生かし、部屋の留守を任せていた意味がない。母親が戻るまで、自分がこの部屋を守るのだ。父親が当てにならないなら自分だけでも力を尽くすしかない。

「……仁人さん、まずはご飯を食べましょう? それかお風呂に入りましょう。貴方には休息が必要です」

「ああ、そうだな……よし。風呂に入る」

「そうしましょう。私が背中を流します」

「ああ……ってお前まだいたのかよっ!? 空気読んで帰れよ!!」

「帰りません! 貴方がこんなに打ちのめされているのに……どうしてそんなことができましょう!」

「う……」

 何と面倒な奴にカッコ悪い姿を見られたものだ。

「調仁人さん、貴方の願いは決まったようですね」

「願い?」

「そうです。マツリにかける願いです。バトルロワイヤルの末、最終勝者の願いのみが叶えられる――貴方の願いは何ですか?」

「そういえばヨットケの前でも、アンタそんなこと言ってたな。……どんな願いでも叶うって本当なのか? その」

「マツリとはそういうものです。願掛けを強固にするために、沢山の願望を束ね、削ぎ、精練させ、最後にカミにそれを届ける。それがマツリです。カミに願いを届ける役目を負うのが最終勝者なので、必然最終勝者の願いが叶うことになります」

「はあ……」

「事実、過去にも様々な願いが叶えられてきました」

「でも、それがもし本当なら絶対に悪の組織? とかに悪用されるだろ。眉唾なんだけど」

「そのような心配はご無用です。参加者はカミが自ら選定します。第一、この沼落団地に暮らしている住民しか参加できない」

「……何なんだそのクソみてえなローカルルールは?」

「それはマツリそのものが何故発生したか、という問いにつながっていくと思います。要は……」

「いや、そういうのはいい!」

 ミヤは竹誓の言葉を遮る。

「そんな小難しい事はどうでもいい。俺は、この家が母さんの帰って来られる場所にしたい。そのためには金が必要なんだ。……例えば親父に突然通帳ブン盗られても無問題モーマンタイなくらいの金持ちになれるとか、大地主になれるとか、そういうのも願いとしてアリか?」

「おそらく叶うと思います。基本的にカミは住民の願いすべてを受け入れますから」

「そっか、そうなのか……」

 これまでは父親を反面教師にしていた。なので地道に労働することで金を稼ぎ、生活をすることに意味を見出していた。母親だってボンクラな夫を持っても文句ひとつ言わず、自分のような取り立てて出来の良いわけでもない子供を育て上げるために、家族と離れてまで仕事に出ている。それがミヤにとって気が引けるポイントでもあった。そんな最終勝者とやらに残る確証は無いのだから、ギャンブルと同じではと思ったのだ。

「うーん……」

「仁人さん?」

「……なんだよ」

「まずは本日の疲れを取ってしまいましょう! 仁人さんはお風呂に入ってください。私はその間に夕餉をこしらえてしまいますから」

「え、マジでお前飯作るの? ていうか、アンタのとこの親御さん心配してないの? こんな遅くまでうら若い娘が外出歩いたりして、みたいな。見たとこ、アンタすげーお育ち良さそうだけど……」

「それも心配ご無用ですよ。ささ、早く温まってきてください!」

 座り込んでいたミヤを、竹誓は風呂場へぐいぐい引っ張っていった。ミヤは自分が空っぽの箱にでもなった気分で、華奢な腕を不思議に思った。


 朝の日の光。

 いつもなら何とか自分のやる気を奮い立たせて新聞配達に出るのだが、何故だか今日に限っては目が痛むことは無かった。

「うしっ、配達全部終わったな」

 空になった自転車カゴを見て息を吐く。

 昨晩は竹誓に勧められて、久方ぶりに湯舟に温かい風呂を張った。母親が出稼ぎに行ってからはシャワーだけで済ませていたのだが、ぽっかり空洞だった体の真ん中が埋まっていくような気持ちがした。

 それに、自宅の食卓に純和風の一汁三菜が並んでるのを見て感嘆したこと。味も見た目もスーパーの惣菜とは比べ物にならない出来。我家には炊飯器が無い(チョウに売り飛ばされたため)ので、うちにある寄せ鍋用の土鍋で米を炊いたと聞いて更に驚いた。

「何でそこまでしてくれるのかはわからんが、礼は言っといたほうがいいよな……」

 たぶん、竹誓はまだミヤの家で寝ている。

 帰れと言っても風呂を洗うから、とか皿を片付けるから、とか言ってなかなか帰ろうとしないので、眠気に負けたミヤは先に布団に入ってしまったのだ。そして今朝、竹誓は座布団を体にかけて居間で寝ていたのを見つけた。

「……早く帰ろう」

 ミヤは自転車に乗り直し、一旦早朝の沼落団地を後にした。


「え……何してんの?」

「何って、朝食を作ってます。あ、布団は干しておきましたので二度寝は出来ませんからね。食べたら一緒に学校へまいりましょう」

 まだ七時になったばかりだ。学校へ向かうにはまだ早いだろう。

「じゃなくて! お前自分の家に帰れよ!」

 ミヤはズカズカと台所に立ち入った。すると卵焼きのふわりと甘い香りが鼻腔を突く。

「わ……めっちゃうまそう」

「うふふ、今日はきれいに焼けました。仁人さん、手を洗って登校の支度を整えてきてください。そうしたら朝餉、食べましょうね」

「お、おう」

 また竹誓の指摘に流されてしまった。ミヤは不用意な自分の一言を後悔した。

 しかし、本当に本当に美味しそうだったのだ。スーパーの冷えてテカりのあるザックリとした卵焼きではない。押したらジュッと出汁が染み出そうな、熱々でふわふわな卵焼きだった。きっと箸を入れて割ればやわらかい湯気が中から立つだろう。ちなみにミヤはしょっぱい派である。

 洗面所で手を洗い、跳ねた髪を撫でつける。

 来ていたTシャツの上から学ランを羽織り、スラックスを履き、登校スタイルは完成。

 居間に戻るまでの足取りが、なんだか浮ついていると感じる。部屋を覗くと、昨晩とは違った食材の一汁三菜が取り揃えられていた。

「仁人さん、座ってください。こちらの茶碗どうぞ」

「あ、ああ」

 竹誓の掛け布団変わりに使われていた座布団に座る。

 ミヤは自然と手を合わせて「いただきます」と言っていた。この仕草も久しぶりなものだ。

「ん……? そういえば、その卵とか味噌汁の具とか、そもそも調味料とか、うちにあったか?」

 こんなに卵焼きに執着があった自分に驚きを隠せない。真っ先に口に運ぶ。すると想像していたよりも強めの出汁が噛んだ卵焼きから溢れて口の中が火傷しそうだった。

「いえ、私が買ってきた物ですよ。お口に合いませんでしたか?」

「そんなことはない…けど、その……すまねえな。世話になっちまって」

 帰るまではお礼を言おうと思っていたのに、ミヤの口を突いて出たのは申し訳なさだった。

「ここまでしてもらって有難いんだけどよ、同情は嫌いなんだ。するのも、されるのも。アンタの家はたぶん金持ちだから庶民の生活なんてどってことないんだろうし、これくらいって思ってるかもしれないけど、……なんかヤなんだよ」

 竹誓は少し俯いて揃えていた箸を見ているようだった。

「でも、昨日はマジでヤバかったから助かった。こんなふうに俺が、自分で弱いと思ったこと無かったから、ちょっと凹んだって言うか……変なトコ見せちまったし、こう同情しようと思うのはアンタにとっては仕方ないのかもしれねえけど」

「同情なんかじゃあありませんよ」

「え?」

 自分の方こそ下を見つめていたことに、顔を上げてミヤは気づいた。

「同情ではありません。これから、貴方を勝たせるための私の努力です。願い、叶えましょう」

 竹誓の薄い唇が弧を描いていた。

 目を細め、微笑んでいた。

 眩しい――。

 眩しいのに、いつまでも、いつまでも見ていたいような笑顔だった。

「私に出来ることはこれくらいなんです。だから、あとは仁人さん次第……このマツリはバトルロワイヤルです。勝って、勝ち続けて、最後まで立っていなければならない。そのためには、まず仁人さんの力が存分に発揮できるように、最高のコンディションを私が支えます」

 昨晩のミヤを引っ張って立たせたのは、彼女のこの力強さだったのだ。

 確固たる信頼。

「それは、有難いけど……何でそこまでして俺を」

「何度も言っていますでしょう? 私がそうしたいんですよ」

 ミヤはそれがどうしてかを訊きたかったのだが。

「……アンタがそう言うなら、俺は勝つよ。願いを、叶える」

「ええ、叶えましょうね」

 竹誓も「いただきます」と手を合わせ食事を始めたので、ミヤはそれ以上の口を噤んだ。

 卵焼きも味噌汁も、すべてが優しい味だった。

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