2―輝夜竹誓は戦いの女神か

 沼落ぬまおち第一高等学校――

 沼落団地からもっとも近く、偏差値は高くもなく低くもなく。強い運動部もないし、出身の著名人もいない。進学率はむしろ平均より低い。しかし公立であるという一点だけは魅力的であり、この地域ほとんどの子供が中高一貫校のごとくまるごと入学する。

 その沼一高ぬまいちこうの正門前に、左ハンドルの黒塗り高級車が停まる。一瞬で非日常の気配を察知したのは登校中の生徒たちだ。

「えっ、あの車もしかして」

「いやいやあの超人気アイドルが降りてくるとかないって!」

「でもああいう車よくレッドカーペットの前に超停まるじゃん!?」

「うそ!? じゃあ超有名セレブ女優とか?」

 妄想力逞しい思春期はてんやわんやである。

 車から降りてきた黒服の男を見止めるなり、更に現場のテンションがブチ上った。

 しかし彼女らの春の雪より儚い予想は夜店のお好み焼きより豪快に覆されることになる。

「ありがとう。帰りの迎えは要らないわ」

 恭しく開けられた校門側のドアから降り立ったのは、セーラーの女学生。沼落第一高等学校の校章の入ったネクタイを締めている。ピカピカのローファーを揃えて舞い降りた姿は女神を描く絵画のようだ。

「……誰?」

「いや、知らん……」

 ちなみにこの学校に通う生徒はわざわざローファーなど履かない。近所で手に入れたズックをズタボロになるまで履き潰す。そのズタボロズック学生たちはポカンと呆けた表情でその一部始終を見物していた。

「……ええ、勿論。目的は必ず果たして帰る。翁にも伝えてくださいな」

 黒服が下がるとその女学生は一人、別世界の空気をまとったままに沼一高の門を潜った。

 ところで、女学生は自分がどれだけ他人の目を惹きつけているか自覚していた。それでいて落ち着き払い、隙の無い愛想を振り撒いている。

 ズタボロズック学生達は好奇の視線で彼女を追う。しかしその女が世にも高貴な存在ではと気付く頃には、美しく神々しい彼女からもう目が離せなくなっていた。この目に焼き付けなければ勿体無い。物珍しさを有難さにすり替える、庶民特有の情動だ。

 そこへ、突如として耳障りなエンジン音が割り込んでくる。あっという間に門をすり抜け、ざわつく生徒たちを蹴散らした。

 派手に砂煙を上げたバイク集団は魚群に突っ込んだサメのごとく、校庭の真ん中程で停まった。

 その中でもひと際デカく、ハンドルが高く、ビカビカと黒光りするボディの主がズカズカとくだんの女学生の元へ歩み寄る。歩きながらメットを外し、サングラスで陽の光を反射させている。大股でやってくるこの男も、沼一高の学ランを着ていた。

「おい、知らねえ顔だな?」

輝夜竹誓かぐや たけちかと申します。今日からこちらの学校でお世話になります」

「転校生か? 妙な時期に来やがったな。俺は宇和島吾太郎うわじま ごたろう、このへんじゃゴッちゃんで通ってんだ。覚えときな」

「ご丁寧に、ありがとうございます。お恥ずかしながら余所者なもので」

 竹誓は薄い三日月のように赤い唇を歪めた。

「おうおう、よく見りゃかなりの器量ヨシじゃねえか。気に入ったぜ! 俺の女になれよ」

 ゴッちゃんと名乗ったこの男、バタ臭い日に焼けた顔が昔ハンサムといった風情である。暑苦しいその目線の先には竹誓。

 しかしその熱とは反比例な彼女の涼しげな目元はふふ、と微笑むだけだった。

「私、強いをとこにしか興味ありませんの。調 仁人つきのみや じんとさんはどちらのクラスかしら?」

 調仁人。

 その名を聞いたゴッちゃんの顔から、表情が消える。

「ヤベえぞ……ゴッちゃんがキレる……!」

 後方で大人しくナンパを見守っていたゴッちゃんの取り巻き含むギャラリーがやにわにざわめき立つ。特に、無関係な登校しているだけの生徒達はバタバタと蜘蛛の子を散らすように校舎に逃げ込んでいった。

 事態は最悪なのだ。

「ご、ゴッちゃん……、この女は何もわかっちゃいねえんだからよ……ブバァッ!!」

 ゴッちゃんの背中に取り巻きの一人が声を掛けるが、裏拳一つで飛んでいってしまった。

「お、おい!? 大丈夫か!?」

 呼吸が出来ないようで、ヒクッヒクッと微かに動くが泡を吹いて倒れているのを見れば無事ではないことは分かる。歯が折れたのか、泡には血が混じっていた。

「……ミヤがなんだって? なあ、お前らなんて言ったか聞こえたかァ?」

 取り巻きは一斉に頭を振った。

「い、いや、俺たちは何も……」

 威勢のよい格好のワリにあっさり引き下がる。ボス猿には逆らえないのだ。

 舌打ちをし、大きく息を吐く。自ら発していた不穏な空気を掃除して、ゴッちゃんは再度竹誓に向き直った。

「ミヤ……あー、調仁人は俺のガキの時分からの舎弟でよォ、貧乏暇なしで日がな金を稼ぐことばっか考えてる。ケチくせえし乱暴者だ。俺みたいな洗練された大人な男の方が、君にはお似合いだと思うんだがどうだい?」

 ねっとりとした喋りで更に口説く。

 しかしそれもまた、そよ風のような微笑で竹誓は返した。

「ゴッちゃんさんが本当にお強いというのなら問題はありませんわ。ただし、私の目の前で調仁人さんよりも強い漢だということを証明してくれたらですが」

「そんなことなら朝飯前だぜ! 今すぐ探し出してブチのめしてもいい。おめぇらミヤを連れて来い!! 今日こそあンの面ボッコボッコにのめす……ッ!! 校舎裏で待ってると伝えておけ!!」

「お、オス……ッ!!」

「いいえ。決闘の場所は沼落団地で行います」

 今にも走り出そうとしていた取り巻きがピタリと動きを止めた。知らない女の提案を受け止めていいか困惑しているのだ。

「どうすんだゴッちゃん……?」

 連中を取りまとめる親分は、怪訝そうに竹誓の表情を読もうと顔を覗き込んだ。

「沼落団地で? そりゃアなんでだ?」

「調仁人さんとは一対一で、沼落団地の敷地内で戦っていただきます。それが此の度のルールです」

 ゴッちゃんは太い眉を寄せる。

「ゴッちゃんさん、あなたはマツリの参加者……故にルールに則った決闘を求めます」

「マツリだと?」

 一瞬だけきょと、と視線を彷徨さまよわせたがすぐに腑に落ちたようで、ゴッちゃんは大声で笑い出した。

「なるほどな……ミヤも参加者だったのか。ますますブチのめし甲斐があるッ!!」

 その時チャイムが流れた。校舎の窓からはこちらをチラチラと気にする顔もあるが、中では通例通り朝のホームルームが始まっているようだ。

「だがよ、竹誓ちゃんが何でマツリのことを知ってんだ? まさかアンタも俺とトりあおうってのか?」

「ゴッちゃん、ミヤは結局どうすんだ? それにその、祭とかいう……」

「じゃかしぃっ!! 俺は今竹誓ちゃんと話してんだ! 後にしろッ!!」

「へ、へいっ」

「ん、あれ……?」

 ふと目を離した隙に忽然、輝夜竹誓は消えていた。

「どこ行ったんだあの娘?」

 ゴッちゃんや取り巻きが校庭を見回しても自分たちのイカツイデザインのバイクがあるだけで、ほかは何も――無くはなく、ちょうど肩を怒らせた鬼の形相の教師が向かってくるところだった。

「宇和島ーーッ!!!! この不良め、校庭にバイクを乗り入れるなとあれほど……!」

「やべ、ゴッちゃん! 先公が来ますぜ…!」

「そんなんどうだっていい! マツリの何を知ってるんだあの娘……まあ、団地でミヤに積年の恨みつらみをブチ込めば、竹誓ちゃんも俺の強さがわかる。話はそれからでもいいか」

「…………――どけえええええええええええええェーーーーーッ!!!!!」

 そこへ暴走自転車エントリー。

「ミヤだ! アイツ……!?」

 けたたましいベルを鳴らしながら見る間に校庭の真ん中に突っ込んできた。

「遅刻するゥーーーーーーッ………!!!!!!」

 その動線にはゴッちゃんや取り巻きたちのバイクが停車している。

「ぎゃあああああ止まれバカヤローーーーーーッ!!!!」

「調も遅刻だ、コラ!!!!!」

「スマセンッ!!!!!」

 血管を浮かせた教師もミヤを止めようと駆け寄るが、ガツンッ!! と暴走自転車はバイクを踏切台にして、昇降口へ見事な放物線を描きながらシュートしていった。

 当たり前だが、台にされたバイクは衝突の反動で凹み、キズが付き、おまけに並べられていた他のバイクもドミノ倒しになった。

「うわあああああああ俺のバイクぅッ!!!!」

「クソミヤ許さねえぞ!!!!」

「ゴッちゃん、俺らシメてきますッ」

 ミヤの乗った自転車は玄関に着地し、勢い殺さず廊下を疾走しているところだ。

「調ーーーー!!!! 自転車から降りろォーーッ」

 取り巻きたちの後ろから教師も追いかける。

 わあわあ捕物を演じている奴らに置いていかれた形で、今やゴッちゃんだけが砂煙の中肩をプルプル震わせていた。

「……俺より目立ってんじゃねえぞクソがぁ……ッ」

 その言葉は誰にも聞かれることは無かった。

「ミヤ……アイツさえ俺の目の前から居なくなれば、俺がここいら一帯を完全に手中に収められるはずなんだ! 今日という今日は、完璧にブッ潰す……ッ! それが俺の願いだ!!」

 ホームルームが粛々と行われる平和の窓辺で、薄い三日月のように赤い唇を歪めた女がいた。




「ミーーーーーーーーヤ! おっはよーっ!」

 昼休み。

 朝の一件で職員室でこってりしぼられたがすっかり立ち直っているミヤの横に、声量と勢いと弁当の大きさが凄まじい男が立っていた。

「おはようではねえだろ」

「いいんだよ、俺とお前の仲じゃねェの! 幼馴染のダチじゃん?」

「日本時間今は昼で、これからいただきますって時に」

「いいってことよー! 俺は気にしねえからさっ、まあたんと食いなって!」

 まるで話が通じない。

 ルンルン笑顔で調子良くミヤの隣の席に座る。そこが誰の席かは知らないしどうでもいいし、怒られたら適当に頭下げときゃ許してもらえるだろう。そんなチャランポランに生きてきたこの男、明月院颯太めいげついん そうたという。

 チャランポランではあるが、こんなふうにしてゲッツはミヤとは別のクラスながら、毎度母親お手性の惣菜を持ってきてくれている。

「毎日毎日ゲッツのおばちゃんに悪ィよ。いつも俺の分の飯まで作ってもらっちゃってさ」

 そういうミヤはスーパーで廃棄だった弁当を失敬して、本日の昼食としていた。

「だからミヤは気にすんなって! どうせ今朝も昨日の夜もろくに食ってないんだろ? お前ん家の事はまあ長い付き合いで分かってるし……俺のお袋が心配してるだけだから、食べてやってよ。食べない方がお袋気を使うし」

「……そっか。ゲッツのおばちゃんにお礼言っといてくれ。ごちそうさん」

「おう!」

 幼馴染ともなると、家族ぐるみでお互いの状況が筒抜けになりがちなのだ。それでも引け目なく仲良くやって行けているのは、ミヤもゲッツも比較的刹那主義的な湿気のない性格が理由になるかもしれない。

「でもさすがに多いよなあ」

「まあうちの肉屋の惣菜全種詰めてるからね」

「もしかして俺って毒見役なのか……?」

「ははっ、お前が毒で死ぬわけ無いじゃん! 毒見の役に立たねえよ。おーい、ヨロイー!」

 ゲッツの軽口に、ミヤは聞こえてはいるがいつもの事なので聞き流すことにし、いただいたお惣菜を有難く口に運んだ。

「うん……やっぱうまいな」

 そういえば、とミヤは思い出す。自分の母親の味を食べたのはついぞ直近いつだったか。

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