第9話 ねがいします
右手はごつごつとした岩肌を見せる崖で、左手は浜昼顔や烏帽子草、磯菊などの海浜植物が砂浜を埋め尽くしている。波打ち際へはこの海辺の花畑の花を踏みしだいていくことになる。
ところどころに崖と同じ種類と思われる岩が出ている。穏やかな陽気の日には、岩に腰かけてコーヒーをおともに読書にふけるのも江洲楓は好きだった。
そのように馴染み深い道でいつもなら夜風に頬をなぶられながら歩くのも気持ちのよいものなのだが、今日は人ならぬ気配につきまとわれているような悪寒がして、江洲楓は自分の影だけを見つめて足早に家路を急いだ。
遊歩道は途中からそのままふもとを辿っていく道と居臥山への上り道へと分かれる。
江洲楓の家はゆるやかな坂道を少しだけ上った居伏山のふもとにある。庭から眼下に遊歩道が見えその先に花畑、そして濃く蒼い海が広がっている。
辺りはかつての別荘地で浮世離れした建築物が並んでいる。ただ、夏場と冬場だけ人の出入りはあるものの実際に定住者がいるのは八洲邸だけだった。
昭和初期に建てられたスパニッシュ様式の邸宅は瀟洒な佇まいで気に入っていた。
子どもの頃は夏と冬に来ていたが進学で東京に出てからは、実家にすら帰ることは稀になり、ましてや別荘に足を伸ばすことはなくなっていた。
卒業後就職先が決まらず実家に戻ったものの居心地はよくなく、放置されていた別荘の管理人を自ら買って出たのだ。ちょうど地元の学校で司書の仕事もあり、父からの条件の別荘の一隅での学舎運営も軌道に乗ってきて今に至っている。
そんな折に卒業生からもたらされた難題、そして、不審な人物が巻き込まれた事件。
「雨乞いの血筋なんて、この辺では聞いたことがない。どこから流れてきた人だったんだろう。うちの学校の生徒たちも行ってたんだよね。話をきいた子以外にもいたのよね。占いは好きな子多いし」
そうつぶやいた時、着信音が鳴った。
久繰里あかりからのメールだった。
歩きながら開いてみると、
「ねがいします」
と、あまりにそっけない一言。
「願いします……って、よほど慌ててたのかな」
そっけないがゆえにそこに込められた思いが伝わってくる。
久繰里あかりのあのおびえた顔、ショック状態を起こすほどの恐怖、それは尋常ではなかった。
「バスに乗ってた人誰だったんだろう。ちゃんと顔を見ておけばよかった」
最後にいなくなっていたように見えたのは、消えたのではなく座席に伏していたからもしれない。もしかしたらただの酔っぱらいだったのかもしれない……そんなことはないとわかっていても、あれは常識で考えれば判明することだと八洲楓は思い込もうとしていた。
彼女は背筋を這いのぼる恐怖を久繰里あかりが感じていた恐怖が伝播してくるのをなんとかしてはね返そうとしていた。
図書室での仕事は紙の本に関することがメインとはいえ、蔵書の管理は学校図書館専用のソフトを使って行われる。
ちょっと前までは手書きの目録カードを使ってのアナログな管理だった。注文図書が入るたびに奥付を確認し目録カードに記載していく作業は手間はかかるが新しい本と交友を深めるようで楽しかった。
そんな江洲楓は、日常生活ではなるべくデジタル機器を使わないようにしていた。緊急連絡や出先での急な調べ物で検索をかけることはあるが、急ぎでなければ絵葉書や手紙でやりとりをするのを好んだ。そうは言っても今この恐怖をはらうにはデジタル機器のにぎやかさが必要だと思われた。
「こんなことになるなら音楽アプリ入れておけばよかった」
江洲楓は歩きながら携帯機器を操作するのだが、イメージしているアプリはなかなか見つからなかった。
「あっ、痛っ」
江洲楓は思わず携帯を落っことしそうになった。
静電気が起ったのだ。
「こんな湿気の多い場所で、どうして」
江洲楓は手をさすってからタオルハンカチをショルダーバッグから取り出して携帯を包んで持った。気休め程度ではあるが携帯に直接触りたくなかった。
「カラス玉を身につけてると帯電しやすくなるのかな。まさかね。でも、カラス玉の正体が電気石、トルマリンだったら摩擦や加熱で帯電するのよね。どの程度のものかはわからないけど」
江洲楓は胸元でゆれるペンダントに手を当てた。
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