第4話「異世界フィリア」

「ご主人様っ! 走ると危ないですよ!?」


 気持ちを抑えきれずにだんだんと速足になっていると、後ろからマナが不安そうに注意を促して来た。


「大丈夫だって、今はすこぶる調子がいいんだ」


 マナを安心させるために直ぐ傍にある木を登ってみせる。


「ほらっ、木登りだって今なら簡単にできるんだぞ」

「何をしてるんですか!? 危ないので早く降りてきてください!!」


 大袈裟なまでに慌てているマナを不思議に思っていると、足元から小さくミシミシという音が聞こえてくる。


 次の瞬間、バキッっという音と共に数メートルの高さから落下する。


「ぐふぅお!」


 マナが何故あんなにも慌てていたのかを今更ながら理解した。


「大丈夫ですかご主人様!? お怪我はありませんか?」

「あはは、まさか枝が折れるなんてな。大丈夫、怪我はしてないよ」

「あれだけ激しく動き回れば当たり前です! 念のために回復魔法を掛けておきます」


 いたずらをした子供を叱りつけるようにマナは声を上げると、俺の背中に手を当てて「ヒール」と回復魔法を発動させた。


「うぉっ!? 凄いな、これが魔法か」


 暖かい光が身体全体を包みこんでいる光景に思わず声が漏れる。


「どうやら骨折はしていませんね、良かったです本当に……この魔法で治せるのは擦り傷や打撲が限界ですから」


 マナは支援に特化した力を貰っていたが、女神セレンの言っていた通りまだ効果の低い物しか使えないらしい。

 まぁ、マナのことだからこれからメキメキと魔法の腕を上達させるに違いない。


「そういえばマナは回復魔法以外の魔法も使えるのか? やっぱ俺も魔法使ってみたいんだよなー」

「……」


 質問に答えるでもなくマナはジーっと黙ってこちらに視線を向けてくる。

 その意図がわからない俺が頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、マナに一喝される。 


「正座!!」

「は、はい!」


 有無を言わさないマナの迫力を前に俺は反射的に地面に正座させられてしまう。

 

「いいですかご主人様!? ご主人様は新しい身体になったばかりなんですから、あまり無茶なことはしないでください!」 

「……いや、でも」

「でも何ですか? 女神様も仰られていましたよね!? まさか聞いていなかったんですか?」

「いえ、すみません」


 有無を言わさないその態度を見れば一目瞭然、どうやらマナはかなり本気で怒っているらしい。

 流石に有耶無耶にできる状況ではないので、とにかくこれ以上マナを刺激しないように何度も頭を下げ続ける。


「二度目の人生を与えられたとはいえ、この世界は前の世界よりも簡単に命を落とす危険があるんです。それは私たちとて例外ではないと教えられたじゃないですか!」

「……はい」

「逸る気持ちは理解できますが、もう少し落ち着きを持って行動してください」

「……はい」

「ご主人様に何かあっては前の世界にいるお父様やお母様、妹様に会わせる顔がありません」

「……はい」

「女神様も仰られていましたが――」


 ――それからしばらくの間マナからのお叱りを受けた後、長時間の正座で痺れる両脚を揉みながら心の中で強く決意した。


 これからは絶対にマナを怒らせないように気を付けよう。


 どうにか歩ける状態まで足が回復したので立ち上がると、マナが手を差し伸べてくる。


「えっと、これは?」

「また危ないことをされては困りますので、暫定的な措置です」


 異世界に来て手を繋いで冒険するなど雰囲気もへったくれもないだろう。

 しかし流石にこれ以上マナを怒らせるわけにもいかないので、気恥ずかしさを我慢して差し伸べられた手を握る。


「わかったよ」

「……い、行きましょう」


 マナは俯いたままボソッと口にして繋いだ手を引っ張り、俺は促されるままに歩き出す。

 前を歩くマナは喋り疲れたのか若干頬が赤い気がするが、変に指摘して地雷を踏んでは元も子もないので何も言わないでおく。


 マナの軽い足取りを見るに一先ず機嫌は直ったのかなとそっと胸を撫でおろした。



 しばらくの間森を散策すると俺は気になっていたことを聞いてみる。


「そういえばマナの方こそ大丈夫なのか?」

「と言いますと?」


 ちなみに今は手を繋いで歩いていない。道中で言い出しっぺのマナの方から手を放したからだ。


「マナの方が俺よりも身体の変化が激しいだろう? 再開した時から何の違和感もなく人の姿に慣れてるけど、もとはと言えばマナは犬じゃないか」

「私は女神セレン様の計らいでご主人様より早く身体を与えられていたので、身体に慣れるだけの時間は十分にありました」

「あぁ、なるほどな」

「耳や鼻の感覚も集中すれば元の身体と同じように機能しますし、特別不憫を感じることはありません。むしろこちらの身体の方がいろいろと動きやすくて助かっています」

「そうか、それなら安心したよ」


 不都合があるのではと心配していたのだが、どうやら杞憂だったらしい。

 マナは獣人になったのが余程嬉しいのか尻尾が右に左にブンブン揺れていた。


 

「結構歩いてみたけど、何か気付いたことはあるか?」

「申し訳ありません、まだ判断できるような情報は得られてません」

「この森固有の生き物とかいれば話は違うかもしれないけど、まだそれらしい生き物は見掛けてないもんな」


 マナは事前に女神セレンからフィリアについての知識や常識をある程度教えられているため、何か目立つような物があれば現在の居場所に検討がつく可能性がある。


 しかし――


「私が与えられたのは最低限フィリアで生きて行くのに必要な知識です。なので単純に知らないだけの可能性もありますし、ここが何の変哲もないただの森という可能性も十分に考えられます」

「ただの森か……今のところその可能性が一番高いかもな。日も沈み始めてることだし、この森で夜を過ごすことも考えて食料になりそうな植物とか適当に調達しておくか」

「そうですね、幸いなことに魔法で水と火は確保できますので」


 現在マナが覚えている魔法の中には火を起こす魔法と水を生成する魔法が含まれているので、生きていく上で必要な水や、調理や暖を取るための火の確保は容易となっている。


「魔法って本当に便利だよな、マナが一緒で本当に良かった。自力で火や水の確保って考えるとかなり大変だし」

「ありがとうございます。ですが不可解ですね、ご主人様の身体にも確かに魔力は宿っているんですが……」



 ここに来るまでに俺は何度かマナに教えてもらって魔法を発動させようと試みていたのだが、何故か魔法が発動する兆候すら見せずに全て失敗に終わっていた。


 何故だろうと疑問を浮かべていると突然、穏やかな風しか吹いていなかったその場に不自然な突風が発生する。

 思わず顔を覆って風が収まるのを待つと、地面に何やら文字が刻まれていた。


『魔力を制御する回路を組み込むのを忘れていました。てへぺろ☆(・ω<)』


 今現在二人が抱いていた疑問を解決する答えがそこにはあった。それも日本語で。


「「……」」


 その地面に描かれた文字を見てしばらく思考を停止させていた俺はマナに尋ねる。


「なぁ、マナ。女神様って実は――」

「いけませんご主人様! 女神様を悪く言うのは不敬ですよ!?」

「それにてへぺろって……」

「女神セレン様だって女性です! 威厳を示すのも大事ですが、時には可愛らしい言葉を使いたいこともあると思います」

「可愛しい言葉というか、てへぺろってもうほとんど使われなくなった死語だろ」

「な、何か意図があってのことです! 私たちには決して理解のできない崇高なる何かが……」


 自分でも薄々感づいているのかマナの表情も段々と曇って行く。


 しばらくその場に留まっていたのだが、それ以降女神セレンからのお告げが降ることはなかった。



――天界――


『……そんな馬鹿な』

 

 天界から二人の様子を窺っていた女神セレンは今しがた錬が口にした死語という言葉に衝撃を受けているのだった。

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