機械仕掛けのこころにふれて

維織

序章

「人生やめたい」

 どこまでもか細いその声は、電車のレール音にかき消され、誰かの耳に届くことはなかった。

 意識して言ったわけではない。彼女は何故そんな言葉が口から出てきたのかを考えようとしたが、考えるまでもないことに気付いてやめた。満員電車が起こす規則的な揺れに体を持っていかれそうになる度に、足にグッと力を込めて耐えた。ふと窓に映った自分の顔が目に入る。そこにあった疲労を絵に描いたような顔から目をそらし、彼女は駅に着くのをじっと待った。

 到着して扉が開くと、彼女は流されるようにホームに押し出された。仕事帰りのサラリーマンに揉まれながら狭い階段を下りる。制服越しに感じる他人の温もりは不快そのものだったが、それ以上に彼女は思った。

 

 この人たちはどうして生きていられるのだろう――。

 

 何一つ楽しくないといった顔でうつむきながら階段を降りる大人たちに押され、人生を想う。この先、何十年も今の気持ちのまま生きていける気がしなかった。彼女は絶望しながらも、細い手首につけられたスウォッチ――腕時計型端末――をいつものように改札にかざす。

 その日は曇りだった。今にも落ちてきそうな重厚でおどろおどろしい雲が空を覆っている。駅前では何台かの清掃ロボットがゴミを拾い歩いていた。おそらくは銀色に輝いていたであろう身体は、経年劣化によって空を覆う濁った灰色のようになり、それでも彼らは汗一つかかずゴミを拾い続けている。

 清掃ロボットと私、そこにどれほどの違いがあるのだろうか。清掃ロボットの横を素通りしながら考えたが、答えは出なかった。

 普段なら駅前から続く賑やかな大通りを真っすぐ進む。その大通りには一本の暗く狭い横道があった。もちろん横道の存在を彼女は知っていたし、何度か通ったことはあった。しかし、遠回りになってしまう上、人通りがほとんどなく気味が悪かったため、めったに使うことはなかった。

 だが、その日、彼女は誘われるようにして横道に入っていった。

 悪い薬に手を出す人もきっとこんな気持ちなのだろうと思い少し笑いそうになったが、何も可笑しくないことに気付いてすぐにその表情は憂鬱に沈んだ。

 横道に漂う陰湿な空気に身を包まれながら、ゆっくりと歩く。人通りが少ないとはいえ、以前来たときには数人ほど目にした気がするが、その日は誰もいなかった。両脇にはそれなりに高くてコンクリートでできた無機質な建物が並んでおり、その多くの一階では店が営まれていたことが、どこまでも続くシャッターからうかがうことができた。

 しばらく歩いたところでシャッターの列は途切れていた。その先にもシャッターの列は続いていたが、その建物だけは違っていた。

 今どき珍しいレンガ造りの二階建て。その赤茶色の建物は、異質で、アナログチックで、陰鬱な横道に全くと言ってよいほど馴染んでいなかった。一階には窓があったが、カーテンが閉まっているため内部の様子はうかがえない。

 彼女はそのまま通り過ぎようとした。しかし、扉にかかっているOPENと書かれた小さな札が目に入り足をとめる。

 何のお店だろう。こんなところでやっててお客は来るのだろうか。そもそも本当に営業しているのだろうか。

 彼女はその店が気になって仕方がなかった。目の前の格調高いセピア色の扉を数秒間見つめながら考え、そして思う――どうせ帰ったって。気付けば彼女は扉に手を伸ばしていた。

 

 その瞬間、息をのむ。時間が止まり、五感すべてを持っていかれたような、初めての感覚を彼女は覚える。

 

 そこには一人の女性がいた。

 胸よりも少し上のあたりまで真っすぐに伸びた琥珀色の髪、そしてその奥には美しい横顔が見えた。どこまでも透明なコバルトブルーの瞳、筋の通った高い鼻、瑞々しい唇。その端麗な顔立ちをより引き立たせる高い背丈と長い手足。

 着ているのはメイド服だった。といってもコスプレ調の派手なものではない。白と黒が基調の落ち着きある服で、整ったプロポーションと相まって上品さが際立っていた。

 おそらくは店員であろうその麗人を見つめながら彼女は思った。今この時のために生きてきたんじゃないかと、そして今なら死んでいいとさえ。


「いらっしゃいませ」

 振り向きながらそう言った麗しき店員は、笑顔でこちらを見ている。我に返って、なにか言わなければととっさに考えた。

「あの、えっと……ここって何のお店ですか」

 焦って口籠った上に、なんて失礼な質問をしてしまったんだと彼女はすぐに後悔した。

 その店員は優しい笑顔のまま答える。

「喫茶店ですよ」

 そう言われて店内を見渡してみる。目の前にいる女性の美しさにばかり気を取られて全く気付かなかったが、店内にはテーブルと椅子が整然と並べられており、その向こうにはカウンターもあるようだった。だが、他の客は見当たらなかった。

「サクラって名前の喫茶店で、最近できたばかりなんです。どこでもお好きな席におかけください」

 促されるまま近くにあった窓際のテーブルに着いた。そこは四人席だったので、窓側に座り、横の椅子に学生カバンを置く。腰を下ろしたものの、背筋は伸び切り、腕は真っすぐに膝に伸びており、心がまだ上ずったままであることがその三角定規のような姿勢に表れていた。

 少し待っててくださいねと言った店員はカウンターの方へ歩いていった。なんて美しいのだろうと思いながら後ろ姿を見ていたが、店員はカウンターの裏へ回るとそのまま歩みを止めることなく店の奥へ消えてしまった。

 小さなため息をついた後、切り替えるように何を頼もうかと考える。しかし、彼女はすぐに困った表情をした。大抵の飲食店では注文パッドがテーブルに置いてあるか、あるいはテーブルにディスプレイが埋め込まれている。だが、木でできたこの店のテーブルにはディスプレイなどないし、注文パッドも見当たらなかった。

 どうすればよいのかわからず呆けているうちに、店員が戻ってきた。抱きしめるようにして持ってきた何かを店員が渡しながら、

「こちらお品書きです」

 そう言って微笑む。

 お品書きという言葉も耳に珍しいと彼女は思ったが、それ以上に受け取ったものが冊子だったことに驚いた。注文パッドを渡されると思い込んでいた彼女は、生まれて初めての紙のメニューを開く。

 飲み物はコーヒーがメインのようだった。たくさん種類が書いてあったが、コーヒーを嗜んでいない彼女には違いがわからなかった。どれにしようか悩んでいると、店員が嬉しそうにこちらを見つめていることに気付く。

「えっとじゃあ、この店長おすすめコーヒーを」

 急がなきゃと焦り、彼女はとっさに一番左上に書いてあったものをお願いした。

「承知しました」

 そう言った店員は彼女からメニューを受け取って軽く頭を下げたのち、コバルトブルーの瞳を輝かせながらカウンターに向かった。

 しっかりと見たわけではなかったが、他のコーヒーにはよくわからない横文字が名前についていたので、仲間外れ感のある店長おすすめコーヒーを注文してしまったことに彼女は若干の不安を感じた。しかし、どうせコーヒーそんなに好きじゃないしとすぐに思い直すことにした。

「マスター、来てください!」

 カウンターの裏側に立っている店員が、先ほど自身が消えて行った方向を見ながら言っている。決して大きな声ではないが、遮る障害や雑音がないため、流麗な声が店内に響いた。

「待ってろ、すぐ行く」

 店員とは対照的な渋くて低い声が返事をする。しばらくして、調子のいい足音を響かせながら、店員の向いている方向から男が現れた。

 マスターと呼ばれたその男の風貌はいかにもといった感じだった。白いシャツに真っ黒な蝶ネクタイ。ほとんど銀髪と言って良いほどに艶のある白髪のオールバック。顔立ちこそ老年のそれだが、姿勢が良いため若々しく映った。

 マスターはこちらを見ていらっしゃいと言った後、すぐに店員の方に向き直る。

「珍しいな、何人目だっけか」

 その見た目とは裏腹な呑気なトーンに店員も、

「珍しいなじゃありませんよ、まったくもう」

 と呆れ果てた様子で大きく息を吐き、続けて言う。

「三人目です。それと注文、店長おすすめコーヒーです」

 まるで寸劇のようなそのやり取りから、どうやら自分が三人目の客のようだと彼女は知る。無理もない。人気のない道で、看板もないから何の店かもわからない。客が来るわけがなかった。

 店員から注文を聞いて喜色満面といった様子のマスターが背後にある棚を開くと、そこには数えきれないほどの瓶が並んでいた。おそらくはコーヒー豆が詰められているのであろうそれらから五つを選んでカウンターに置く。さらにマスターは、カウンターの下からいくつかの装置を取り出した。一見すると化学実験器具のようなそれらの装置にどんな機能があるか彼女にはわからなかったが、コーヒーを作るためのものであることくらいは想像できた。

「すぐできるので少し待っててくださいね」

 そう言ってこちらを見た店員と目が合い、彼女は頬を紅潮させて視線を外してしまった。今にも口から出そうになる心臓を押し戻すように深く息を吸い、視線を戻す。

 コーヒーを作るのはどうやらマスターの役割らしい。楽しそうに装置をいじりながら、時折、選別した瓶を手に取って頷いている。店員はその様子を横で嬉しそうに見ていた。

 彼女はふとカウンターとは反対側に顔を向ける。フリルのついた淡い桜色のカーテンをめくって外を眺めてみたものの、道が狭いため、向かいの建物で空は見えなかった。

 カーテンから手を離し、店内を改めて見回してみる。レンガの壁や木のテーブルからは微かではあるが柔らかい香りがした。天井からは小さめのシャンデリアが吊り下げられており、暖色が周囲を照らしている。全体的に控えめな内装は彼女の心をほぐしていった。

 そして再び店員を見つめる。何度見ても美しかった。

 隣に置いた学生カバンからノートパッドを取り出し、二つ折りになっているそれを開く。左のページには数学のテキスト、右のページには計算途中の数式が映し出された。ホルダーからペンを抜き、右ページ上部にある操作バーの【新規作成】を押す。真っ白になったキャンバスにペンを動かし始めると、頭の中はたった一人の女性のことで溢れかえり、


 なんて名前なのだろう

 年はいくつだろうか

 大学生くらい?

 アルバイトなのかな

 どうしてここで働いてるんだろう

 

 そして思う、

 

 私はきっと――。

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