episode11 第5話

「だけど、イネコさんが生まれた時は、世間が大騒ぎだったんじゃないですか?」

「特に何もなかったの。ご主人は地位や名声に興味がない人で、別に成果(わたし)を世間に公表することもなく自分の研究に勤しんでおったかの」

 取り立てて理由もなく、地位も名誉にも興味がない? ますます分からない。

「それじゃあ、生まれてからイネコさんはどうしていたんです?」

 イネコは実験体としては扱われなかったのか? 遺伝子組み換えで生まれた生物。こんな貴重なサンプルを前に研究者なら放っておく訳がない。

「生まれたばかりの頃、子犬と変わらなかった私は、他の動物たちと一緒に大学の施設で飼われていたな。それはそれは玉のように可愛がられていたのじゃ」

「はぁ……」

「だが、大きくなるにつれ徐々に人の姿に近づいていっての。知能も人並みに成長し、生後1年で私は可憐な少女へと変貌したのじゃ」

 う~ん。話を聞くに、ご主人はイネコを何がしかの実験に使っていたようには思えなかった。それに、イネコ自身、自分を特別な存在だとは思っていないようだ。

「そうなると、流石に動物たちと一緒の檻という訳にはいかず、ご主人のプライベートルームへと移されて生活していたのじゃ」

「プライベートルーム?」

「何のことはない。ご主人が一人暮らししていた大学近くのアパートじゃ。私はそこでご主人の帰りを待ち、一日の内の短い時間だったが、共に過ごしたのじゃ。同じものを見て、一緒に食卓を囲み、夜中にはこっそり散歩に出かけたりもしたぞ」

 まるで、イエイヌだな。元々そういう暮らしをしていたから、イネコにはそれが苦ではなかったのかな?

 俺は感嘆のため息を吐き出す。

 世界は広い。俺が知らないだけで、イネコのような奴もいるんだな。

「そんな暮らしが半年ほど続いたかの? 今度はご主人の進路をどうするかという話になった。ご主人は優秀な科学者だった。博士号も取得し、大学に残ることも出来た。そうすれば、それまでのような暮らしを続けられることは出来たであろう」

 ペロリと鼻の頭を舐めるイネコ。

「しかし、ご主人はそうはしなかった。私の存在を知っているゼミの教授の薦めもあり、とある研究所へ勤めることになった。研究所と言っても、こじんまりとしたものではなく、一つの街が研究施設になっていて、そこでは日用品から専門的な道具まで何でも揃う研究都市のようなものじゃ。世俗からは少し離されているが、その研究所は、その分野のトップクラスの研究者がいて、そこで働くことはメリットこそあれデメリットにはなりえない。ご主人はそう言っていた」

 世俗から離れた何でも揃う研究所? どこかで聞いた話だな。

「何と、そこでは私のような者が他にもいて、普通に生活しているとのことだった」

 イネコの耳がピクピクと動く。

「それを耳にした時、私は自分が歓喜しているのに気が付いた。それまでは、世間から切り離されて生きて来たのじゃ。この体では大っぴらに街を歩く訳にはいかないからの」

 人差し指の爪で毛だらけの頬をなぞる。

 それはそうだろうな。通りでイネコが向こうから歩いてきたら、誰だってビックリする。

「ワシはご主人と一緒にいられるなら、それでもいいと思っていた。けれど、心のどこかでは、昔みたいにご主人様と一緒に野原を思い切り駆けたいと思っていたのかもしれない。ご主人はそんな私の寂しさに気付いていたのじゃろう」

「優しい人、なんですね?」

 イネコはその問いかけには答えず、その代わりに俺の手を取った。モフモフな毛と肉球が気持ちいい。

「研究所の説明を終え、ご主人は私にこう言ったのじゃ。『そこで一緒に暮らさないか?』と……」

「え?」

 俺は思わず疑問符を投げかけた。その言い方なら、イネコがご主人と一緒に暮らさないことも出来るのではないか? 俺の頭に浮かんだ疑問に答えるようにイネコは話を続ける。

「それまで、ワシはご主人様の一部のようなもので、自分の体に付いている目や鼻と同じようなものと思っていた。いて当然、あって当たり前の存在。空気のように一緒にいて、ずっと同じ時を過ごすものだと勘違いしていた……。けれど、ご主人は私を私として扱っていた。意思を尊重し、私にも選択権があると教えてくれた。一人の個として、互いに離れて暮らすことも出来るのだと、その時、私は初めて気付いたのじゃ」

 握られた手に力が込められる。

「ワシは二つ返事でご主人の手を取った。それ以外の答えはなかった。自分の居場所はすでに目の前にあったのじゃからな」

 晴れ晴れとした声でそう言うイネコを、俺は胸のすく想いで見つめた。

 イネコは自分が生まれた理由を分からないと言ったが、俺には何となくそれが分かったような気がした。

「かくして、ご主人と私の暮らしが始まったのじゃ。ご主人は自分の研究を、ワシはその助手としてそこで働いた。研究所には本当にワシのような者もいて、普通に生活をしていての。ワシもそこでは出歩くことが出来た。休日にご主人と散歩をしたり、買い物をしたり、日向で寝転がったり……。そこでの暮らしはささやかだったが、凄く楽しかった。そんな暮らしの中、そうなるのは当然だったのかもしれんが、私たちは互いに引かれ合い、恋に落ちたのじゃ。愛を誓い合い、子をもうけ、施設内という限られた場所じゃったが、三人で幸せに生活していた……」

 スッとイネコが不意に遠くを見つめるような目つきをした。

「だけど、それで、めでたしめでたしって訳ではないんでしょ?」

 俺は何となくそんな気がした。そして、イネコはそれを肯定するように口元を歪め、

「その通りじゃ。そして、これから話すことが、私がここにいる理由に繋がる」

 ペロリと鼻先を舐めた。

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