episode9 第66話

 肩を落とした俺は、富田に背中を押されるようにしてテント前に戻ってきた。

 不安そうな眼差しを向けてくるクルミ。

 ナナコは、残りの食材を腹の中に片付けている。

「お前、この状況でよく食べられるな?」

「だからこそじゃないか。食べなければ力が出ないからな。それに、食べ物は粗末に出来ない」

 そう言われるとぐうの音も出ない。

「で、わたしの力が必要なんだろう?」

 全ての食べ物を平らげドヤ顔を決めるナナコに、俺は首を横に振った。

「どういうことだ? もしかして、奴らはここに、たまたまキャンプをしに来ただけと言うのか?」

 ナナコの言葉を否定しようとした俺に代わり富田が口を開く。

「いいえ。私が彼らの意に従うのです。だから、最後にお別れとお礼を言わせてください」

「最後? 別れ? 一体何のことを言っている?」

 ナナコの鋭い視線が富田へと向けられる。

「先ほど武蔵さんにはお話ししたのですが……」

 そう前置きをすると、富田は、俺とナナコにクルミを預け、たった一人で、奴らの軍門に下る旨の話をした。それから、クルミを一瞥すると、

「この子も、ナナコさんにずいぶんとなついています。だから……。どうか、よろしく、お願い、します」

 無理やり絞り出したようなかすれ声で頭を下げる。

「わたしは、そんな話を聞きたいんじゃない。そんなのおかしいじゃないか? なぜ二人が離れ離れにならなければいけない」

 今にも富田に詰めよらんとするナナコの間に割って入る。

「富田さん。もしも、俺たちの身の安全を保障するために言っているなら、考え直してくれませんか? 奴らの所に行くなんて本心ではないでしょ? 無事旅を終えたら知り合いの会社に行くってそう言ってたじゃないですか? そのつもりなら、思う所はありますが俺たちもクルミさんを一時的に預かるくらいはします。それならいつだって好きな時に会えるし、いつか一緒に暮らすことだって難しいことじゃない。しかし、以前の隔離施設みたいな研究所にまた行くのであれば、そう簡単にはいかなくなるんじゃないですか?」

「武蔵さん……。あなたは、どうして、そこまで……」

「俺はコンビニ探偵です。依頼をしてくれれば手頃な料金で、猫捜しだろうと、ボディーガードだろうと出来ることならなんだってやります。だから、改めて依頼してください」

「なん、でも……」

 難しい顔をしながらも小さくそう呟く。

「それならば、お願いしてもいいでしょうか?」

「ええ。ぜひ!」

 興奮気味にうなずく俺に、富田はやや冷ややかな視線で口を開いた。

「私の、記憶を消してください」

「え……?」

 機械のような目で見つめられ、感情のこもっていない声に、冷や汗をかいてしまう。

「妻がいた時の、娘がいた日々の、幸せだった頃の記憶を全部、私の中から消し去ってくれませんか」

「いや、それは……」

 出来る訳がない。

「そうです。そんなことが出来る訳もありません。世の中、出来ることと出来ないことがあります。私の記憶を消せないのと同じで、彼らから逃げ続けることなど不可能なのです。結局のところ、自分は……」

 言いかけて、大きく深呼吸するようにため息を吐き出す。

「こうなることは最初から分かっていたんだと思います。竜宮城から戻り、玉手箱を開けてしまった浦島太郎がどうなるのかなんて、子供でも知っています。自分はもう十分に年老いています。役目は終えました。あとは棺桶に足を踏み入れるだけです。だから、一足早く心を殺して生きるのです。無になり、無心で、目の前の仕事を片付けるだけの日々。場所が知り合いの会社か、あの研究所かという違いだけなのです」

 話し終え、「私はいささか疲れました」と膝を抱えて座り込んだ。

 その短い言葉(ほんしん)が、どんなに長い言葉(いいわけ)よりも俺の胸をえぐった。

 この人は今までずっと頑張ってきたのだ。その人が、これから心穏やかに過ごしたいと望んでいるのに、他人の俺に何が言えると言うのか?

「心を殺す……だと?」

 どこか重苦しく低い声色の呟き声を発したナナコ。

「そんなことは不可能だ。この胸がノックを続ける限り、人は無になどなれはしない」

 見ると、ナナコがかつてのような冷めた表情に変わっていた。

「かつてわたしも兄を失い何もかもに絶望し、心を殺して生きていた。しかし、何も食べなければ腹は空くし、叩かれなければ痛いし、狭い部屋に一人でいれば悲しみで涙だって出る。ドブに浸かり、汚濁に塗れた手を目にすれば、惨めで、情けなくて、立ち上がる力さえ失ってしまう。そんな弱い自分に負けないように、何物にも傷つけられないように心にカギをかけた。目をガラス玉のようにして、何を見ても何も感じない。そこには痛みも悲しみも、喜びさえない。そこにいるだけの存在になった。やがて心がカサカサに乾いて何も感じなくなった。機械人形にでもなり、ただ兄の命を奪った敵討ちが出来ればと……。そうやって、その目的だけを糧に生きていた」

 富田は黙ってナナコの話しに耳を傾けていた。

「だけど、そんなことは不可能だった。心を殺したように生きることも出来るだろう。だが、それはただ刺激に鈍感になっているだけに過ぎない。富田の記憶を消すことが出来ないように、何らかの刺激を受ければ、それは鎌首をもたげて姿を現す。声をかけられればむず痒いし、空っぽのお腹に食べ物が入れば満たされた気になる、すり寄って来る猫に触れればその温かさに驚かされる」

 その話を聞きながら俺は初めて会った頃のナナコのことを思い出していた。ナナコも富田のように頑なで、感情を表に出さず自分の殻に閉じこもっていた。

「本当の意味で、生きている限り、人は人をやめられない」

 落ち着き、説き伏せるような口調でそうナナコは富田に語る。

「わたしは武蔵とむな志にそれを……。人のぬくもりを、家族の温かさを、教えてもらった。人は無になどなれはしない。そこでわたしは数年を無為に過ごしてきたのだと気が付いた。自分は何も変わっていないのに時だけが過ぎ去った。無駄な時間だった。心を閉ざして生きてきたその代償が、今のこの幼い体だ」

 そう言うと、ナナコは両手を広げて自らの小さな体を示して見せ、

「人が成長し大人になるためには、自分の殻に閉じこもらず、誰かに心を触れさせる必要があったんだ」

 富田の手を取り、優しく握る。

「何かを手に入れるのはたやすい。だが、一度自らの意思で手離したものを再び手にするのは困難を極める。今、わたしはそれを取り戻そうとしているが、それはとても難しい。叶うならその時間をなかったことにしたいとも思う。しかし、それは出来ない。過去は変えられない。だから、少しずつ取り戻していく。本当のわたしの姿を……。この後悔に塗れたわたし自身がだ」

 氷のような冷たい表情に赤みが差し、顔をほころばせる。

「潮目が変わるその時はいつか訪れる……。自分が予想もしていない時、突然にな」

 しかし、富田の表情はその言葉を拒絶するように厳しいものだった。

「だから、その日を待てと言うのですか……。私はもう十分に待ちました。そして、出した答えがこれなのです。どんな形でもいいから、あの子の生きていた証を遺せたらと……。二人なら安心してこの子を任せられる。どうか、お願いします」

 拝むようにナナコの手を握り締める富田。

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