episode9 第1話

MEMORY 1




 暗闇の中、誰かの話し声が聞こえる。話し声といっても、喋っているのは一人だけで、どうやら『私』に話しかけているようだ。

 それに応えたくても、私は口を動かすことが出来ない。口どころか、手も足も、つま先一つピクリともしない。

 私は夢でもみているのだろうか?

 ただ暗闇の中、音だけが聞こえている。

 だから、今はそれに集中するしかない。

 カチャカチャとキーボードを叩く音に、金属同士がぶつかる音が聞こえる。それに紛れて微かに聴こえる呟き声。

 何度となく繰り返される同じような作業音。

 何をしているかは分からないけど、「よし」とか「もうすぐ」、「できる」といった声が何度も聴こえてきたので、彼、もしくは、彼女は何かを作っているのだろと思った。

 そんな時間が何十分、何十時間経っただろうか?

 気が付くと何も聞こえなくなっていた。その代わりに、私の中で何かが沸々と沸き上がってくるのを感じた。今まで平坦だったものが、波打つような、全身に少しずつ力が入るような感覚。

 試しに私は、ゆっくりとまぶたを開いた。

 薄汚れた部屋を眩しい電灯が照らしている。むっくりと上半身を起こすと、男がこっちを見ていた。

「おはよう。×××」

 男は私の名を呼ぶ。

 馴染みはないけれど――なぜか、記憶にある名前だった。

 パチクリと一回だけ瞬きをして、「はい」と答える。

 と、男は目を見開いたかと思ったら、まぶたを思い切りつぶる。目じりに深い皺を刻み、そこから涙が溢れた。

「ぉぉぉぉ」と、声にならないうめき声をあげて、私の頬に手を伸ばす。

 差し伸べられた手を取ると、なぜだか懐かしいような感覚がした。節くれ立ち、爪に油汚れがしみ込んだ武骨な指。乾ききっていて冷たい手のひらを握りしめる。

 抱き締められる肢体。

 うめき声が耳元からきこえてくる。震える体。震えているのは私? それとも、抱きしめている男なのだろうか?

 この男は私を知っている? 私はこの人を知っていた? 記憶が曖昧で混濁している。

 なにもわからない……。



 強く抱き締められるほどに、胸のあたりが熱くなるのを感じた。目じりから何かかがこぼれ落ちるような気がした。

 そして、私は予感した。



 ――別れの――予感を――。



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