俺はロバート

 ロンドンの深い霧が恋しい。濡れた石畳すら恋しい。今すぐにでも帰りたい。


「お前もそうだろ、ジャック」


 ジャックのグラスにはいつも日本酒が入っている。


「日本は悪くない。お前もそうだろ、ボブ」


 俺のグラスにあるのも日本酒だ。このままでも十分に美味い。ワインやシャンパンのように、英国人によって洗練されたものもあるが、日本酒は別物だ。英国人が手を加える余地はないだろう。


「俺たち英国人はでしゃばっているだけさ。この国は一度完成しかけていたんだ。英国より遥か先にあったんだよ」


 ジャックの言う通りだ。技術面で大きく遅れていた日本に、100年のうちに逆転された。それができたのは、内なる力の賜物だ。30年近く住んでよく分かった。


「もう帰りたいんだ、ホームに」

「俺はここをホームと呼びたい。人間のホームさ。温もりに溢れ、喜びも悲しみもわかち合う、生き甲斐もある。俺はブリテンには何も持ってないんだ」


 どれほど言葉を尽くしても、無駄なのだろう。ジャックはもはや日本人だ。


「ここにあるのはそれだけじゃないんだぞ」

「分かっているさ」


 俺は紳士だ。相棒を置いて一人で帰ることなどできるはずがない。俺たちは蟻地獄に突っ立っているんだから。


「もう止めておけ。飲みすぎだぞ」


 バーを出ると、通りはすっかり寂しくなっていた。ここらはタクシーもあまり来ない。


 千鳥足のジャックに肩を貸してやる。鍛えているから、この歳でも引き締まったいい体をしている。俺も負けていないが。


「痩せたな。日本人みたいだ」

「ふふっ、ありがとよ」


 ふざけているのか、ジャック。俺は侮辱したんだぞ。"日本人みたいだ"なんて、英国人としての誇りが許さないだろ。


 体を離すと、ジャックは今にも転びそうにしている。


「どうした、ボブ。帰るぞ」


 振り返ったジャックを、俺は殴った。一発だけだ。目を覚ましてほしかったんだ。


 失神したのか酔い潰れて寝ているのか、分からない。背負って帰るか。


 こうして歩くのは訓練生の頃以来だな。

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