第7節 百日紅の白い花


 雅治まさはるは傘を僅かに持ち上げ、久方振りに訪れる実家を見上げた。

「――ここに帰ってくるのは久しぶりですね」

 雅治が背の高い門扉へと進むと、この家の次期当主の帰宅に気付いた守衛が「おかえりなさいませ」と門を開けてくれた。


 雅治が門を抜け、道を進んで行くと、執事が開けてくれた玄関扉の向こうには和装の女性が立っていた。

 彼女が身に纏っているのは、彼女の生まれ故郷の民族衣装。白字の布に白い糸で、紫陽花の花が刺繍されている。それは夏用の『着物』だと言うが、洋装に慣れた雅治から見れば、この時季には暑そうに見える。

 それでも涼しい顔の彼女は漆黒の髪をきっちりと結わえ、凛と伸びた立ち姿で雅治を出迎えてくれた。

「ただいま戻りました。母上」

「お帰りなさい。雅治さん」

 彼女の声音は、鈴の音を思わせる。雅治と雛姫の母は清廉で厳しい女性だが、その声と同様に鈴の音のような優しさをも持ち合わせていた。


 雅治はこの家の女主人に頭を下げる。

「ご無沙汰しております」

「そうですね。雅治さんが帰ってくるのは久しぶりですね」

 事実を淡々と述べるように母は言う。そして、雅治が突然実家に帰った理由を聞くこともなく、それを察した。

「雛姫さんなら、お庭にいらっしゃるわよ」

 雅治は母の視線を追うように窓の外を見る。

「雨ですよ」

「ええ、雨ですね」

「……少し雛姫と話してきます」

 雅治は浅い溜め息を吐く。しかし、母は窓の外の雨も意に介さないように雅治に尋ねた。

「雅治さん、夕食は食べていかれるのかしら」

「はい、よろしくお願いいたします」

「旦那様も夕食までには急いで帰って来るそうですよ」

「……あの人は本当に雛姫に甘いですね。まあ気持ちは分からなくもないですが」

 多忙な父には会えないと思っていたが、雛姫と一緒に夕食を食べるために仕事を早く切り上げて帰ってくるらしい。父にも、あの双子の兄妹のことで話があったので、帰って来るのであれば丁度良いと雅治は思う。

「あら、あの人は雅治さんにもとても弱いですよ」

「……ご冗談を」

 雅治は笑い、母に頭を下げてその場を離れた。そして、そのままリビングルームに向かい、バルコニーから庭に出た。


 庭に視線をやれば、今日この家に帰ってきた『理由』をすぐに見つけることができた。

 庭師の手入れが行き届いた庭。そこに立つ、背の高い百日紅さるすべりの木。

 白い花を咲かせたその木の下に、彼女は立っていた。

 雅治は雨に濡れる石畳を歩き、彼女に近付く。

 そして自分が差していた傘を彼女の方に傾かせ、声を掛けた。

「風邪を引きますよ、雛姫」

 呼び掛けられた雛姫は、こちらをゆっくりと見上げる。雛姫は雨の中、傘も差さずに長い時間そこに立っていたようだった。

 その小さな肩だけでなく、全身がずぶ濡れだ。唇は血の色を失い、白くなって寒々しい。

 夏とはいえ、雨は身体から熱を奪う。木の葉から滴った雨は、雅治の肩も濡らし、じっとりと染みを広げていくのを感じた。


「雅治兄さんも帰ってきたのね」

 雛姫は興味がなさそうに呟く。

 雅治はその手を緩く引いて、大きな傘の下に二人で収まった。

「雛姫こそ、突然帰省願いを出すなんてどうしたんですか」

 雛姫は休日とはいえ、これまで学期の途中で帰省することなど一度もなかった。それなのに急に週末の帰省を申請したため、寮監から雅治に問い合わせがあったのだ。

「ちょっと考えたいことがあっただけです」

「考えたいこと、ですか」


 僅かな時間、雛姫は考え込んだ後、意を決したように雅治を見上げた。

「ねえ、雅治兄さん。雅治兄さんはお友達と喧嘩をしたことはありますか」

 その問いは、何ということのないものだった。

「そのくらい、普通にありますよ」

 雅治は決して怒りっぽい性格ではないが、それでも学生時代に喧嘩の一つや二つしたことはある。時には口だけではなく、手が出る喧嘩すらも。

「……そう、喧嘩するのって『普通』なのね」

「雛姫だって、そのくらいあるでしょう」

 彼女が幼少の頃から、授業中に同級生に対して容赦のない行動に出ている話は、耳が痛いほどに聞かされている。

 しかし、雅治にとって意外な返事が返ってきた。

「ないわ……ううん、なかったの。兄さん、私は今、人生で初めての喧嘩をしているの」

「……アイリスさんですね」

「知ってるんですね……そうですよね、結構大騒ぎでしたもんね。兄さんは魔術棟担当ですし」

 

 確かに雅治の耳にも入ってきていた。

 何より、雛姫はあの日を堺にアイリス・ロードナイトと一緒にいることをやめ、大人しく一番前の席に座っている。まるで、彼女があの学院に来る前までのように。


 アイリス・ロードナイトの双子の兄が、彼女をとても大切にしているように、雅治も歳の離れた妹を大切に思っている。

 たとえ困らされることが多くても、それは変わらない。

 だから雅治は雛姫に微笑む。そして兄として彼女に、自身の経験から学び得たことを語る。

「でも、『喧嘩』なんでしょう。それなら仲直りできるじゃないですか」

「……どうしてそう言い切れるの?」

 雛姫はその翠の瞳で、雅治の瞳の奥を探るように見つめる。

「雛姫が『喧嘩』と言っているからですよ。仲直りできないと思っていたら、喧嘩なんて言わないでしょう」

 雅治はそれを知っている。

「仲直りできないなら、それは『決別』です。雛姫が『喧嘩』だと言っている時点で、それは仲直りしたいと思っている証拠ですよ」

 雛姫は目を見開き、雅治を上から下まで全身をくまなく観察した。

 そして、口を開いた。

「そうよね。雅治兄さんって、一応教師でしたよね」

「一応は余計ですよ」

 雅治は形だけでも不服を申し立てる。

「でも、どうして喧嘩なんてしたんですか。それこそ、今まで喧嘩なんてしたことがなかったのに」

 その問いは、喧嘩の表面的な理由を問うているのではない。彼女の心を問うているのだ。

 雛姫はその意図を汲み、考えているようだった。しかし、すぐに答えが返ってくる。

「私、アイリスさんに会って、変わったのよ」

 確かに雛姫は変わった。いつも何を考えているのか分からない少女。しかし今日はとても雄弁だ。

「普段なら何も思わないはずのことに、すごく感情が揺さぶられたの」

 彼女は、喧嘩相手の少女にいつも触れていた自身の手を見つめている。

 そして頭上に揺れる百日紅の白い花に触れ、その花を手折った。

「アイリスさんって私と似ているのね。似ているけど、違う存在」

 雛姫は手折った花を色々な角度から見つめている。そして語る。

「私、『化け物』って呼ばれているでしょう」

 彼女は自分の二つ名を自虐的に語る。


「私、『孤独な化け物』だったのね」

 そんな言葉を紡ぎながら、じっと白い花を見つめる瞳も、いつもより雄弁だった。

「そんな『孤独な化け物』が、お姫様に出会って魔法にかかったの」

 彼女は白い花弁にそっと口づける。まるで悪い魔法使いに掛けられた、黒い魔法を解くための口づけのように。

「ううん。私にかけられた黒い魔法を、アイリスさんが解いてくれたのかもしれない」

 花弁はゆるりと地面に落ちて、濡れた。

「アイリスさんの魔法で、私は自分のことが少しだけ見えるようになった。兄さんが『周りを見ろ』と言った理由が今なら少しだけ分かる」

 ――それは雅治は子供の頃から、妹に口うるさく言ってきた言葉だ。

 彼女があまりにも自分の世界に籠もるから。その扉を雅治はノックし続けていた。

「みんなは私のことを特別だって、選ばれた存在だって言うけれど、違うわ。選んでいたのは私の方なのよ。人と深く関わらないことを自分で選んだの」

 彼女はいつも一人だった。

「それなのに……私、寂しかったんだって、気付いちゃったの。アイリスさんに出会って気付いちゃったの」

 それでも結局は、雛姫を自由にさせてきた。雛姫が寂しかったのなら、その原因は自分たち家族にある。

「アイリスさんは誰かから褒められるとき、いつも寂しそうな顔をしてた。私、その顔を知らないうちに、自分に重ねてた」

 雛姫は木の葉の向こうの空を仰ぐ。彼女の頬を流れ落ちる雨は、涙のようだった。

「……だからかしら。私、思ったの。アイリスさんに幸せになって欲しいって、悲しい顔して欲しくないって、そう思ったの」

 彼女は足元を見つめる。

「雛姫……」

 雅治が雛姫の名を呼ぶ。

 そして、今度はその小さな手に、力強く袖を掴まれる。

「――……っ」 

 驚く雅治に、雛姫は先程よりも幾分も力強い声音が向けられた。


「ねえ、教えてください、雅治兄さん……!」

 葉から零れる露が、いやにゆっくりと落ちていくように見えた。

「アイリスさんが、あの兄妹ふたりが背負っているものは私には分からない! でも、それでも笑っていて欲しいと思ってしまったの――!」

 その翡翠は真剣で、真っ直ぐで、揺らいでいた。

「傷つけたかったわけじゃないの。悲しい顔をしなくてもいい道があるんだよって、手を引きたかっただけなの!」

 雛姫は傘を握る雅治の手を掴んだ。

「私には兄さんやセレーナがいたわ。手を引いてくれたわ。今度は、私がその手を引きたいの!」

 雅治の手は雛姫の小さく冷たい両手に包まれている。

「――でも、はじめてで、やり方が分からなかった。……ねえ、ジェダイト先生。どうしたら、誰かの手を引けるようになりますか?」

 縋るように強く、強く、掴まれている。

「どうしたら大切にできますか。だって、アイリスさんは――――」

 彼女の心からの叫びと願いは、雅治の瞳にはとても美しく、そして眩しく映った。

 だから、雅治は微笑む。


 その瞬間。

 白い花弁が二片、頭上の枝から仲良く地面に落ちていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る