第12節 傷つけるための訓練
アイリスは芝生の上に敷いたハンカチの上に座り、各自稽古をしている騎士倶楽部の学生たちを見つめていた。
誰をと言うわけではなく観察していると、上から声が掛かった。
「楽しんでるか、アイリス嬢」
クラーラとの対戦、もとい、皆が言うところの
隣に腰を下ろすレオを見上げながら、アイリスは返事をする。
「はい、こういった剣術の訓練を間近で見るのは初めてのことですので、とても面白いです」
「楽しんでいるのなら何よりだ」
レオは歯を見せながら笑った。
「はい、ですが皆さんお怪我が多いようで心配です」
アイリスは微笑むが同時に俯く。
アイリスは、怪我や血が苦手だ。昔からアレンが騎士たちの訓練に混ざりに行ったり、こっそりと双星宮の外に冒険に出掛けたりしたときには、気が気でなかった。
アレンが傷をつくって帰って来るのを何回も見たからだ。
アイリスはアレンが自分の側を離れるとき、怪我をして帰ってくるのではないかといつも心配していた。そういうときは決まって心がざわざわと落ち着かず、胸に苦しいものがせり上がった。
多分、怖かったのだ。一人になることが。
アイリスが瞳を曇らせると、レオが察したように、優しい口調で語り始めた。
「まあ、俺たちは一般人と比べたら、怪我することに対して
「怪我をするのも訓練の内……?」
アイリスが戸惑いながら問うと、レオは普段よりもゆっくりと言葉を選ぶように答える。
「ほら、怪我をすれば痛いだろう」
「はい、痛いですね」
アイリスはまだレオの言いたいことが分からず、きょとんとする。
そんなアイリスにレオは語り聞かせるように話し始めた。
「俺たち騎士棟の理念は、『護る』ことなんだ」
レオが自身の指にはまった騎士棟所属の証を空にかざすと、イエローダイヤモンドが月の光を反射した。
イエローダイヤモンドの魔石としての意味は、「強化」や「無傷無敗」だ。
「でも、人を護るためには時には人を傷つけなきゃならない。その矛盾を、俺たちはきちんと知っていなくちゃならないんだ」
レオは右手で左腕をギュッと掴んだ。
アイリスはそれを目で追う。
「傷を負えば痛い、でもそれは相手だって同じだ」
「人を傷付けるのなら、自分だって傷付く覚悟を持たなきゃならない」
だから――、とレオは言う。
「『怪我をするのも訓練』って言ったのは、『自分が傷付く痛み』と『相手を傷付ける痛み』を覚えて、その覚悟を自分の身体に刻み付けるための訓練って意味なんだよ」
レオはそう説明し、首を捻りながら唸る。
「うーん、俺の説明で伝わるか?」
アイリスはこくりとひとつ頷いた。
「はい、とても。……それに今のお話を聞いて、皆さんがお強い上に優しい理由が少しだけ分かった気がします」
アイリスは再び騎士倶楽部の学生たちの姿を目で追う。
「身体面でも私は皆さんに到底敵いませんが、おそらくそういった覚悟の面で、私は皆さんにアイリスは全く敵わないのですね」
アイリスは少し困ったような顔をしながら笑った。
「私には、レオさんの言うところの『傷付ける覚悟』というものがないんです」
――私は怖がりだ。
「でもアレンも、皆さんもその覚悟を持っています」
――私には傷付ける覚悟も傷付く覚悟もない。
「アレンと比べて、私は魔力だけは強いです」
アイリスの魔力量は多く、その能力は高い。
――けれど実践経験の乏しい、頭でっかちな能力。
アイリスはここに来るまでは双星宮の敷地内どころか、部屋からもほとんど出ることができなかった。それは国の事情でもあり、アイリスの事情でもあった。
自由に動き回れる身体を持っていたとしても、アイリスが一人きりだったとするならば、同じように籠もりきりだったと思う。
弱虫なアイリスには、能力の使い道は狭いどころかほとんどなかった。
家庭教師から教わった簡単な生活魔法。
魔術具の使い方。
入学試験で見せるための魔法。
本で読んだだけで試したこともない魔法。
真の実力が備わっていない机上の優等生。
――そんなつまらない私の能力。
治癒の魔法や呪われたオッドアイの偽装のための魔法や魔術だって、アレンがいたからやろうと思った。アレンがいなければ、アイリスは何もしなかっただろうし、しようとも思わなかっただろう。
自分が唯一アレンの役に立てていると、自分の存在価値を感じられたのは、アレンの怪我を治したりするときだけだった。
――アレンがいなければ、私には何もない。
「どんなに強い魔力を持っていても、私には傷付く覚悟も傷付ける覚悟も無いんです。だから、私はアレンには敵わないんです。今のお話を聞いて、それが良く分かりました。……そんなだから私はアレンに護られてばかりの存在なんです」
アイリスが自嘲気味に言うと、レオは腕を組んで「うーん」と唸る。
「それは多分、アレンがアイリス嬢の兄貴だからだと思うけどな」
レオは首を傾げ、再び唸る。
「俺たちはまだ会ったばかりで、何が分かるんだって思うかもしれないけどさ。俺はアレンはアイリス嬢を弱いだなんて、これっぽっちも思っていないと思うけどな」
レオの言葉にアイリスは静かに顔を上げ、首を傾げる。
そして、『強さ』の象徴のような紅蓮の色の瞳を見つめた。
「多分『強さ』っていうものには色々とあってさ、アイリス嬢にはアイリス嬢にしかない『強さ』ってのがあるんだと思うけどな」
レオは胸の前で、両手を球を掴むようにする。
「『強さ』の形……っていうのが、俺もアレンもアイリス嬢も他の皆も、全部違うだけなんじゃないかと思う」
「『強さ』の形……」
アイリスはレオの言葉を復唱する。
アイリスの瞳に少しだけ月明かりを反射し始めると、レオがニカっと笑う。
「まあ、強くなりたいなら、これから強くなればいいんだよ!
アイリスはその言葉に力強く頷く。
「はい! 私も強くなりたいです。強くなって、アレンを護りたいから」
「ま、俺もアイリス嬢が弱いだなんて思ったこともないし、これからも思うことはないと思うけどな」
レオの一言に、アイリスは思わずまじまじとレオの顔を覗き込む。
「レオさんは何だか、お兄さんみたいですね」
その瞳は、色も形もアレンのものとは全然違うのに、その瞳の奥によく似た温かさがあるのを感じた。
「アレンがレオさんに懐くのが良く分かります。もう一人兄が出来たみたいに思っているのかも」
アイリスはきょとんとしているレオを置き去りに、一人で納得して頷く。
「……やっぱり兄妹だよなあ」
今度はレオがアイリスの方をまじまじと見つめる番だった。
「……? 兄妹ですので、顔は似ていますよね。でも昔はもっと良く似ていましたよ」
「うーん、やっぱり兄妹だよなあ」
「……?」
アイリスにはレオが何度も同じことを呟く理由が分からず、疑問符ばかりが頭上に踊ることとなった。
◇ ◇ ◇
「なんで、君たちは変な表情で見つめ合っているのさ」
先輩との稽古後で息の上がったフランが怪訝な表情でレオとアイリスを見下ろしている。
「あ、フラン君。お疲れさまでした」
「おう、フランお疲れ!」
レオはアイリスと共に顔を上げる。
「うん、ありがとう。ちなみにアレンはまた別の先輩に捕まっちゃったよ」
「あら」
「なっ!次は俺がアレンとやろうと思ってたのに」
レオは慌ててアレンの姿を目で追うが、確かに既に三年生の先輩に捕まって対戦を始めていた。
アレンはクラーラ相手には手も足も出ないという感じだったが、今は良い勝負をしていそうに見える。
それだけクラーラが規格外だということだ。
「今日は同学年同士の対戦にはならないんじゃないかなあ。先輩たちは完全に獲物を見る目で僕たち一年のことを見ているんだよ……。僕には分かる」
フランはそう言いながら、自分自身を抱きしめて震えている。
アイリスはそんなフランを見てほっとする。怖がりな人もこの学院に、そして戦うことに特化した騎士棟にも居るのだということに。
なんとなく彼とは気が合う気がしていた。
「ところで二人はなんの話をしていたの」
フランは尋ねながらレオの隣に腰掛ける。
それにアイリスが答えた。
「レオさんに『強さ』についてのお話をしていただいていました」
「なんだか哲学的な話をしてるね。なんかレオっぽくない気がするんだけど」
フランは小首を傾げながらレオの顔を見る。
「フラン、お前さりげなく失礼だよな!」
レオはフランの赤毛をぐりぐりとかき混ぜる。
「ちょっとやめてよ!」
フランはバリケードをするように両手で木刀を掲げてレオの攻撃を防いだ。
それを見てアイリスは感心して頷く。
「フラン君は、男性としては比較的小柄な方かと思いますが、結構力持ちでいらっしゃいますよね」
アイリスが素直な感想を口にすると、フランに本気で悩んだ顔をされてしまう。
「……ねえ、レオ。僕、分からないんだけど。ここは怒るべきところなのかな」
アイリスは自分の発言を思い返し、フランの微妙な顔と重ねて慌てる。
昔アレンの身長とダニエルの身長を比べて、アレンにとても怒られたことがある。
「ご、ごめんなさい! 私、失礼でしたよね! えっと、……フラン君はまだまだ伸びしろがあると思います!」
「アイリス嬢。そういうフォローは地味に相手を傷つけることもあるということを覚えておくんだぞ」
アイリスの必死のフォローに、レオが哀愁の笑みを浮かべながらフランの肩に手を置いた。
「は、はい。覚えておきます」
「レオのそのフォローも余計だということも覚えておいてね」
フランは肩に置かれたレオの手を除ける。
「む、難しいですね……」
アイリスは自分の人生経験の不足を痛感する。
「何事も経験だな」
「人間はそうやって成長していくんだよ」
しみじみと頷くレオの横で、フランは何か悟りを開いたような目で夜空を見上げていた。
「……えっと、横道に逸れちゃったけど、僕に何か聞きたいことがあったんじゃないの」
フランは
「あ、そうなんです。クラーラ先輩もそうなのですが、自分よりも身体が大きい相手の方と闘うのが得意なのかなと思いまして。何かそういったコツがあるのでしたら聞いてみたいなと」
フランはアイリスの質問にふんふんと頷く。
「なるほどね。そういう意味では僕とクラーラ先輩は系統は似ているかもね。クラーラ先輩と僕ではレベルが全然違うけれど、確かに僕たちは二人とも相手の力を利用するのが得意だよ」
「護身術の授業で習ったことですね」
「そうそう。相手の力や体格を上手く利用するんだよ」
フランは二度頷く。
その横でレオが何かを思いついたような素振りをする。
「でも腕力的な意味で強くなりたいなら、アイリス嬢は、かなりの魔力量を持っているんだから、強化魔法を使ったら良いんじゃないか」
レオの提案にアイリスは瞳を傾がせて「うーん」と唸る。
「私の知る限り、強化魔法や強化魔術は倍化の魔法なので、あまり効果がないんです」
「どういう意味だ?」「どういう意味?」
レオとフランが声を揃えてアイリスに尋ねる。
何だかアレンとアイリスみたいだ。
「例えば、アレンの運動能力を数値で表すと、『50』だと仮定します。強化によって『10倍』になったとしたら、能力値は『500』相当になります。高い効果が出ていますよね」
レオとフランがうんうんと頷いて納得している様子のため、アイリスは話を続ける。
「一方で、私の運動能力はアレンの能力値50と比較したら、0とまではいきませんが、『0.1』くらいで、とてつもなく低いんです。すると、同じ魔力消費量で強化魔法をかけて同じ『10倍』になったとしても、能力値は『1』相当にしかならないんです」
アイリスは木の枝を広い、地面に数字を書いていく。
「これではアレンには到底勝てません」
アイリスは更に地面に数字を書き足していく。
「アレンと同じ運動能力になるには『500倍』、10倍強化した能力値になるには『5000倍』しないと追いつきません。ですが、それだけの能力倍化をするためには当然膨大な魔力を使います」
数字の横に書いた小さな人形にアイリスはバツ印を刻む。
「そういうわけで、魔法で強化できても、元々の能力値が低い能力に対しては、その効果はたかが知れているんです。まあ、私の全魔力を強化に使用すればある程度にはなるとは思いますけど、そうすると同時に魔法が遣えなくなるので、私の強みが無くなってしまうんですよね」
レオもフランも既に授業でアストルム老師に褒められる位のアイリスの魔法を見ているため、彼女が全魔力をつぎ込んだらどうなるのかと想像してふるりと震えた。
「な、なるほどー」
「勉強になった」
「でもこの世界にはまだまだ私の知らない魔法があるわけですから、倍化以外の方式で強化できる魔法もあるかもしれませんね」
アイリスは夜空を見上げて星を探す。
そこに描かれている見えない答えを探すように、目を凝らす。
「そうしたら私も皆様と武術で渡り合える日がくるかもしれませんね」
アイリスはまるでそんな日が本当に来ると信じているように笑う。
レオとフランはその笑顔を見て、アイリスが魔法を得意とするのは、単純に魔力量が多いだけでなく、その信じる力の強さから来ているのだと思った。
――それだって、『強さ』の一つだ。
◇ ◇ ◇
「クラーラ先輩、『騎士倶楽部』の皆様、本日は貴重な機会をいただき、ありがとうございました」
アイリスは旧鍛錬場を出ると、クラーラをはじめとする『騎士棟倶楽部』の学生達に挨拶をする。
皆が「おやすみ」や「気を付けてね」や「こちらこそありがとう」という言葉を残し、手を振りながら去っていった。
その場に残ったのは、アイリスとアレン、レオとフラン、そしてクラーラだった。
アイリスが深々と下げた頭を再び上げると、クラーラが聖女のような微笑みを、優しい問いと共にアイリスに掛けた。
「何か得られるものはあったかしら」
アイリスは今晩の出来事を、交わした言葉の一つ一つを思い返す。
クラーラの問いかけに対する答えは、何の躊躇いもなく、アイリスの口から発される。
「はい! とても勉強になりました!」
アイリスは元気良く返答をする。
そして、僅かな疑問を逡巡しながらも口にする。
「あの、今更ながらなのですが、部外者の私が参加してもよろしかったのでしょうか」
クラーラはその蜂蜜色の髪と似た優しい笑顔に少しだけ悪戯な色を混ぜる。
「構わないわ。正直に言うとアイリスさんの能力を少し知りたかったという下心もあるのよ。こちらとしても収穫はあったわ」
アイリスはこてりと大きく首を傾げる。アイリスは見学していただけなのに、クラーラに収穫があったというのはどういうことなのだろうか。
それに――
「私の能力……ですか?」
「ええ、アイリスさん、貴女は二月後には新人戦の団体戦選手に選ばれているはずですから。こちらとしては今から情報収集しておいて損はありませんからね」
アイリスはクラーラの言葉に驚きを隠せない。それは全く現実的な話ではなかった。
「そんな、まさか」
アイリスの能力にはあまりにも偏りがある。
入学式の日、新人戦の団体戦というのは様々な種目で競うと言っていた。そうなれば当然、様々な能力が平均値を超えている上で、総合的な能力が高い多才な学生が選ばれるはずだ。
その条件に該当する人間は何人も思い浮かぶ。それはどう考えても自分ではない。
「ありえないですよ」
アイリスは困ったように笑った。
「あら、シンってばまだ声を掛けていないの? 余計な情報を与えてしまったかしら」
アイリスは曖昧に微笑み、隣に立つアレンのローブの裾を握った。
◇ ◇ ◇
その月夜、『儀式』は行われた。
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