それは悪夢か正夢か (5)

 本を読むハインツのかたわらで、アビゲイルがローテーブルの上に広げられたイラストをそっと片づけていると、ヴァルターが戻ってきた。


「おーいレーナ、いつまでアロイスに甘ったれてんだあ? 抱っこなら俺がしてやるぞ。ほら」

「だ、抱っこじゃないし!」


 ヴァルターは笑顔で両腕を広げて見せるが、レーナはあわててアロイスの腕の中を抜け出して距離を取る。アロイスはイザベルとよく似たきれいな顔に苦笑を浮かべた。


「レニー、おいで。髪を直してあげるよ」


 アロイスはレーナをソファーに座らせ、ほどけた髪を簡単に結い直した。アビゲイルには及ばないものの、なかなかの手際である。そして仕上げにポケットからベルベットのリボンを取り出して結びつけた。


 その様子にヴァルターは面白いものでも見たような顔をしたが、からかったりすることはなく、ただ黙って口元に小さな笑みを浮かべただけだった。そして床に散らばったレーナの髪を悲しそうに拾おうとしているイザベルを片手で制して、持っていた掃除用具で片づけ始める。


「レーナさん、本当にごめんなさい。不注意で痛い思いをさせた上に、こんな……」

「イザベル嬢は何も悪くないだろ。悪いのは、暴れ回ったこの野生の子猿だ。おいレーナ、反省してるか?」


 ヴァルターがレーナの額を指でつつくと、レーナはムッと口先をとがらせた。


「反省はしてるけど、アレ触った手で触んないでよう。気持ち悪いでしょ!」

「うわ、ひでえ。理不尽。誰のために始末してやったと思ってんのよ。そもそも俺だってあんなもの、素手じゃ触らんわ」


 大げさに嘆いてみせるヴァルターの肩を叩き、アロイスは含みのある視線をイザベルに向けた。


「ヴァル、諦めろ。妹っていうのは、しばしば理不尽な生き物なんだよ。ねえ、ベル?」

「知りません」


 アロイスと目の合ったイザベルは虚をつかれてパチパチと瞬きをしたが、すぐにツンと視線をそらした。その様子に、アロイスとヴァルターは顔を見合わせて笑い出す。

 そんな友人たちの横で難しい顔をして何度もアビゲイルの本を読み返していたハインツは、やがて顔を上げた。


「確かに気味の悪い一致だね……。アビゲイル嬢、すまないけど二、三日この本を貸してもらえる?」

「もちろん構いませんが、そんなものどうするんですか」

「うん、ちょっと確認したいことがあってね」


 そして友人ふたりとその妹たちを見回してから声をかけた。


「みんなに聞きたいことがあるんだけど、少しだけ時間をもらえるかな。ここだと周りに人が多いし六人には狭いから、奥へ行こう」


 六人は談話室奥の図書室にある長テーブルに移動して、それぞれ席についた。ハインツは全員が座るのを確認してから、本をページを開いた状態で自分の前に置く。


「聞きたいのはね、さっき僕が談話室に入ってきたときのことなんだ。あのとき、僕が何と言ったか正確な言葉を誰か覚えているかな?」


 全員の顔を見回すハインツと目が合い、レーナは居心地悪そうに身を縮こませた。


「すみません、いろいろ必死で、いつハインツさまがいらっしゃったのかもわかりませんでした……」

「ごめんなさい。わたくしも周りに気が配れる状態ではなくて」


 イザベルも申し訳なさそうに、伏し目がちに答えた。ヴァルターは思い出そうとして首をひねってはいたが、すぐに諦めたようだ。


「俺も臨戦状態だったからなあ。『どうした?』とか何とか、聞かれたような気がする。けど、正確な言葉って言われちまうと全然自信ないわ」

「まあそうだよね。僕自身もそうだし。だから先入観なしで答えてもらって、実際はどうだったのか確認がしたかったんだ。アロイスはどう? 覚えてる?」


 アロイスは少しだけ考え込むしぐさをしてから、口を開いた。


「『どうしたの? ものすごい悲鳴が聞こえたけど、何があった?』だったかな」

「覚えてるのかよ! すげーな。さすが監督生さまだ」

「ついさっきのことだからね。たまたまだよ」


 騒ぐヴァルターに、アロイスは苦笑いして手を振った。ハインツはアロイスの回答を聞いて、本を見ながらゆっくりと数回頷いた。


「やっぱりそうか。アロイスがそう言うなら、もう間違いないな。一字一句違わない」

「違わないって、何と?」


 アロイスが尋ねると、ハインツは本を指でトントンと叩いて困ったように笑った。


「これだよ。予言の書」


 ヴァルターはそれを聞いて、眉間にしわを寄せて露骨にいやそうな顔をした。


「何だよそれ。俺、オカルト系は遠慮したいんだけど……」

「僕もだよ。だけど実際、さっきの出来事がここに書かれてる。どこまで一致してるのか確認したくて、みんなに尋ねたんだ」


 アロイスはあまり興味なさそうに、椅子の背にもたれて腕を組んだ。


「ふうん。でもさ、あの状況だと誰だって言うことなんて大して変わらないし、たとえ一字一句まで一致したとしても、たまたまじゃない?」

「それが、セリフだけじゃないんだよ」


 ハインツは本に書かれている内容のうち、今まで実際に起きたことを説明し始めた。

 まずは、ハインツとレーナがふたりで逢っていると噂になったこと。

 次に、その件に関してレーナが上級生から注意を受けたこと。

 そして最後に先ほどの件、イザベルがレーナと談話室で会って話し、やがてイザベルがレーナを押さえつけて髪を切り落としたところへハインツが登場すること。


 そこまで聞いてヴァルターは、呆れたような声をあげた。


「それ、最初のふたつはともかく、最後のやつは全然事実と違うじゃねーか。イザベル嬢はレーナを押さえつけたわけじゃなくて絡まって離れられなかっただけだし、髪を切り落としたって言ってもこいつが暴れたせいではさみが触れちまっただけの、純然たる事故だろ」


 ヴァルターが「こいつ」と言いながらレーナを見やると、彼女は上目遣いにチラリと兄の顔色をうかがいながら「ごめんなさい」と消え入りそうな声で謝って、椅子の上で小さくなった。


「うん、そうだね。ヴァルはその場に居合わせた当事者だから、経緯を知っていてそう判断するよね。だけど経緯も事情も知らない人が、離れた場所から見えたことだけをつなぎ合わせたとしたらどうだろう? 書かれている内容と一致してるように見えるんじゃない?」

「さっきの話を聞いて思い出したけど、ハインツさまずるいわ」

「え?」


 だしぬけにイザベルから非難され、ハインツは返事に窮して固まった。


「レーナさんから聞きました。あのすてきなイラスト、ご自分ひとりで楽しんでいらしたんですってね」

「ああ、あれか、あれね……」


 話がそれている上に何やら非常に雲行きがあやしいが、情報漏洩元のレーナはさらに身を縮こませるばかりで、援護射撃はとても期待できそうにない。状況を読んだアビゲイルは、さきほど回収したイラスト入りの袋をテーブルの下でそっとイザベルに渡して耳打ちした。


「イザベルさま、これをどうぞ。レーナからです」

「あら、ありがとう」

「ハインツさまがまだご覧になってない新作入りです。内緒ですよ」

「まあ!」


 唇の前に人差し指を立ててみせると、イザベルはにっこりと笑顔になった。見た目によらないこの意外なちょろさはどこかレーナに通じるものがあるなあ、などと栓ないことを思いつつ、アビゲイルはハインツに向かって「あとは自分で頑張れ」との気持ちを込めて目配せをした。


「イザベル、ごめん。僕は彼女のイラストのファンだけど、あなたもこういうものが好みとは知らなかったんだよ」

「わかりました。わたくしもいただきましたから、許してさしあげます」


 実のところハインツのコレクションは、今日イザベルが受け取ったイラストの数の比ではないのだが、あえてそこに触れる者はいなかった。せっかく寝た子をわざわざ起こすことはない。


 アロイスは背もたれから身体を起こして、手を打ち鳴らした。


「さてと、話を戻すよ。さっきの話だけど、仮に起きたことがそこに書かれた内容と完全に一致すると確認できたとしてさ、それが何だっていうの? まさかやらせだの仕込みだのを疑ってるわけじゃないよね?」

「うん、それは疑ってない。すべてが偶然だったのは、ここにいる全員が見てるからね」

「そうすると『すごい偶然だったね』って言って終わっちゃう話なんだけど……」

「そうだよね。ただ、この偶然がどれだけすごいのか個人的に知りたかったんだ。みんな、付き合ってくれてありがとう」


 ハインツは本を閉じて立ち上がり、「急ぎの用事ができてしまったから」と友人たちに断りを入れて談話室を出て行った。もともとヴァルターとアロイスはハインツと一緒にボードゲームをしようと談話室に向かっていたのだが、何となく気がそがれてしまい、ハインツが部屋を出て行ったのを皮切りにその場は解散となった。


 そうしてそのまま全員、すごいけれども単なる偶然でしかないこの話のことはすっかり忘れてしまっていたのだった。────翌日、とんでもない形で蒸し返されるまでは。

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