それは悪夢か正夢か (3)

 この王立学院は男女共学の全寮制で、ひとつの建物の西翼が男子寮、東翼が女子寮となっており、正面玄関のある中央棟が食堂ホールを含め男女共用区域である。談話室は中央棟の二階にあり、ふたつの広い部屋が続きになっている。手前の部屋が談話室で、ローテーブルとソファーが何組か配置され、少人数が集まって語らったりカードゲームに興じたりできる場所となっていた。


 奥の部屋は壁面すべてが本棚で、ちょっとした図書室である。といっても娯楽本はほぼ置かれていない。敷地内にある別棟の図書館まで行かなくても、ここである程度の調べ物ができるようになっていた。そして部屋の中央には二十人ほどが一度に席につける大きさの長テーブルが置かれており、必要に応じて会議室として使用されることもある。


 アビゲイルが「読書コーナー」と呼んでいたのは、談話室の中で最も図書室に近い位置にあるテーブル席のことで、イザベルはよくここで読書をしていた。


「イザベルさま、読書中に恐れ入りますが、少しお話しできますか」


 おずおずと近づいて声をかけたレーナに、イザベルは読んでいた本を閉じて振り向き、にっこりと微笑みかけた。花がほころぶような華やかな笑顔だ。


「あら、何かしら。どうぞお座りになって」

「ありがとうございます。失礼します」


 勧められた隣のひとりがけソファーに腰を下ろしてもじもじしていたレーナは、やがて意を決したように話し始めた。


「ええっと、監督生のお姉さまから今朝がた注意を受けまして……」

「まあ。どうなさったの?」

「あの、ですね、ええっと、まずこれをご覧ください」


 歯切れが悪い上に視線がうろうろと定まらず、あやしいことこの上ないのだが、後ろ手に隠し持っていたイラスト入りの袋をイザベルのほうに差し出しつつ、中から一枚のイラストを取り出して見せた。


「これはハインツさまとわたくしかしら」

「はい」

「とてもすばらしいと思うけど、お叱りを受けたこととこの絵に何か関係があるの?」

「はい。これ、私が描いたんですけど──」

「すごいわ。あなた才能がおありなのね」


 キラキラとした賞賛の笑顔を向けられ、レーナは照れて赤面した。


「ありがとうございます。ハインツさまから依頼されて描いたものもあって、それを先日お渡ししました。そこを誰かに見られて妙な噂になったらしく、注意を受けた次第です」

「ああ、なるほど。それは災難だったわねえ」

「いえ、私の不注意でしたから。誤解を招くようなことをして、申し訳ありませんでした」


 頭を下げるレーナに、イザベルは首を横に振った。


「いいえ、謝っていただくようなことは何もないわ。わざわざ知らせてくださって、どうもありがとう。おかげで、こんなすてきなものを見られたのよ。本当にすてきね、これ」

「どうぞ、よろしかったら差し上げます」

「やだ、おねだりしちゃったみたいじゃない。でも、うれしいわ。ありがとう」


 社交辞令でなく本当にうれしそうにイラストを見つめているイザベルに、レーナはホッとしてやっと肩から力が抜けた。


「それにしても、ハインツさまったらずるいわ。わたくしに内緒で、こんなにすてきなものを独り占めしてらしたなんて」

「他にも何枚か持ってきたんですけど、ご覧になりますか?」

「もちろんよ。見せて見せて」


 レーナは残りのイラストを袋から出し、ローテーブルの上に一枚ずつ並べた。それをイザベルが後ろから覗き込むようにして眺めていたが、並べ終えたレーナが椅子に戻ろうとしたところで事故が起きた。


「痛っ」

「え?」


 ゆるふわ仕上げのレーナの編み込み髪が、イザベルの胸元の飾りボタンに絡まってしまっていた。


「いやだわ、どうしましょう。ごめんなさい、ちょっと動かないでじっとしていてちょうだいね」


 しかし見た目はゆるふわでも、手先の器用なアビゲイルが仕上げた髪はリボンと一緒に意外にしっかりと編み込まれている。イザベルからは自分の胸元は近すぎてよく見えず、なかなかうまくほどけなかった。

 そこへ、近づいて声をかける者がいた。


「何かお困りですか」


 入り口近くの席で本を読むふりをしながら様子をうかがっていたアビゲイルが、トラブル発生と見て手助けをしに来たのだった。


「ええ。わたくしがうっかり髪を引っかけてしまって。助けてくださる?」

「あらら。うーん、これはなかなか難しそうですねえ。ちょっと待っててくださいね」


 絡まり方が複雑なのを見てとったアビゲイルは早々にほどくのを諦め、談話室に置かれた棚から備品のはさみを取ってきた。


「もう最悪、これでリボンをチョキンと行っちゃいましょう」

「そうね。でもチョキンと行くなら、わたくしのボタンがいいわ。リボンは切ったらダメになってしまうけど、ボタンならまた縫い付ければよいのですもの。痛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。わたくしの不注意だったわ」

「あ」


 しかし悪いことは重なるものだ。イザベルを手伝おうとしたアビゲイルは、可及的速やかに対処せねばならない、とある物体に気づいてしまった。物体というか、生物というか、レーナが「小さな黒い悪魔」と呼ぶ昆虫類のアレが静かに壁を伝っていたのだ。これは見過ごせない。

 かと言って、アビゲイルに自力で退治できるだけの度胸や技術があるわけでもないので、ヤツが騒ぎを引き起こす前に手早く対処してくれそうな男子学生を探しに行くことにした。


「緊急事態発生につき失礼します。最後までお手伝いできなくて、申し訳ありません」


 イザベルの手にはさみを握らせ、チラリと壁の「小さな黒い悪魔」の位置を確認してから慌ただしくアビゲイルは談話室を後にした。

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