102.依存①

 仏法の観念イーシュワラを貪り侵す神々及び仏以下衆生の一斉焼却を企む五智ごちの如来たちは、かんばしくない明王みょうおう造立に未だ躍起であった。諸天諸菩薩にいたっては、大日如来によって設けられし生存枠たる十二天・二十五菩薩の地位獲得を目指して、日々しめやかな競争を続けている。須弥山しゅみせん護法ごほう組織はまこと、壊滅に近かった。


 一方、仏界に歯向かうマンダラ山は、三位一体神トリムールティを中心として断じて対抗の手を緩めはしなかった。とりわけ、元護法神であったブラフマーが諸仏を見限ったのを発端に、毘沙門天による明王開眼阻止の計画を放棄して須弥山陥落を企み始める。

 如来破滅に追い込むマンダラ総軍を率いる将に選ばれるは、近年五智如来に追われて婆羅門界ばらもんかいに亡命した帝釈天であった。だが、依然として護法を諦めぬ帝釈天は、この山崩しに紛れて仏菩薩を東方娑婆地しゃばちのがそうと新たに一計練っていた。


 繁栄を取り戻したい大日如来と栄華を奪いたいブラフマー、そして帝釈天が平穏を望んで動き出す。

 今に三者、いなの思惑が交差するのだった——。





          ✴︎✴︎


 ある日帝釈天が一人、マンダラ山頂にそびえるパゴダをつたい、無断でブラフマーのおはす蓮畠はすばたけを訪ねた。ただ帝釈天の悠長に腰のくんを巻き直すのろまな仕草を見るに、特段大事な急用があるわけでもないらしい。


 本日のブラフマーは、庭端に育つ巨大な聖樹の太い枝に登って座り、脚も伸ばして花咲く芳香に包まれながらくつろいでいた。

 そこへ帝釈天が割り込み、静寂を破る。この軍神は、他人ヒトの娯楽に水を差すのに痛痒つうようを感じないらしい。その聖樹の根元まで歩み寄ると、枝に寝そべるブラフマーを見上げた。


「おやおや、誰ぞやの足音かと思えばおまえか。この私に、一言の断りも無しにここへ上がってくるとは。シャクラでなかったら、蔓で締め殺しておったぞ」


 昼間のうたた寝中であったブラフマーが、帝釈天より注がれし視線の圧力に気がつき、ふと目を開ける。それから首を傾けて下方に瞳を移し、かの風采を見とめればその足先から旋毛つむじまでを一往復した。

 憩いのひとときを打ち割られたものの、明からさまに気分を害しはしなかったブラフマーである。なんせ、日頃はマンダラ山麓の付近に設けた小さな宿舎ゲストハウスにこもって顔すら滅多に見せぬ彼が、この日は珍しく姿を現したのだ。むしろ、その所以が気になって興味が湧いたのだった。


 ブラフマーは、片脚をぶら下げて一度寝心地を整えつつ、帝釈天への直視を中断して横目を使う。それからまずは将軍による千慮の一失を軽く咎め、手始めの挨拶とするのであった。


「ああ、そうそう。夜叉どもを誘い損なったそうじゃないか。大将が失敗をしおってからに、惜しいことよ」


 毘沙門天の東征には加わらなかった吉祥天ら居残り夜叉団は、一時須弥山の護法を支援していたのだが、こちらもまた五智如来に口を封じられかけ、帝釈天より一足先に婆羅門界へ落ち延びて来ている。しかして、仏法帰依を欲する毘沙門天の意向に忠実に沿い、光明対策による明王開眼阻止の決心は断じて揺るがなかった。

 密かに仏菩薩の東方進出を企んでいる魂胆を明かしてまで須弥山襲撃の加勢を頼んだ帝釈天の申し出を、毘沙門天が嫡男・最勝さいしょうかたくなな姿勢で断ったのだ。以後まもなく、夜叉一族は再びランカー島を離れ、仏界へ帰山して行ったという次第である。

 

 帝釈天と最勝、護法を果たさんとするこころざしは同じなれども、その手法を両者でたがえてしまった。第三者と第四者が、互い情熱を背負って衝突する日もそう遠くはない。


 とはいえマンダラ山にしてみれば、かつてに長らく信頼を寄せていた戦力を、またも須弥山へ逃す羽目となった。前回には独立、此度には拒否で、二度目の喪失である。夜叉一族の勧誘不成功によって仏界に優勢を許してしまった目下、開戦せぬうちから兵力を削がれた婆羅門界は早々に逼迫ひっぱくしていた。

 かく悪環境をいかにして立て直すつもりかと、帝釈天を睨むブラフマーの口が歪む。


 しかし、当の本人はいたって平然としていた。


「それが、どうかなされましたか」

「どのツラが言うておる」

「意をともにせぬ者どもを連れておっては、質の良い戰などできませぬ。かえって、蛇足を省けたというもの」

「ふん。ただでさえ兵が少ないというのに」

「では、あなたさまが創ってくださればよいものを」

「すでに一万ほど創ってやっておるではないか、無理を申すな。骨太なつわものを創造するのにかなり苦労したのだぞ」

「それは失敬いたしました。しかしブラフマーさま、ご心配には及びませぬよ」


 去る者追わずをわきまえる帝釈天、その分損害を埋める策の品数も多いようだ。枝上のブラフマーをねめつける帝釈天の眼に、逡巡しゅんじゅんの気配はない。

 よほど、払子ほっすの一本で我が世の春を謳歌するが余計な心遣いをしてくれるなと、胸中の愚痴がこぼれ聞こえてきそうであった。


「私のツテはおよそ五十万、うち三分の一は護法団でありますが。残り半分はここに、あともう半分さえ収集できれば申し分ない兵力になりましょう」

「その、もう半分とやらは?」

「下界にわり近い地域に住む神々ですが、おもには私が長年飼い慣らしている女どもを。いずれも、武に優れた者たちですので」

「ふぅん。嫁を差し置いた夜遊びの賜物が、ここで役に立つとは」


 ブラフマーもブラフマーで、怖じけぬ帝釈天の態度が心底鼻につき、いたずらに嫌味たらしく対抗する。だが、ブラフマーが強気を出せば、帝釈天は黙って問答から引き下がるのである。

 それはそれでますますしゃくに障るブラフマーであったが、かえってこれ以上責め立てる気も失せた。


「……それで、おまえ。そもそも何用でここへ来たのかね?」


 ブラフマーは今度は話題を変えて、はなから気がかりであった疑問を帝釈天に尋ねる。日々のひきこもり神がわざわざ外出するには何かわけがあるはずである、やはり無用ということはあるまい。

 すると帝釈天は、ふと聖樹の根元に視線を伏せて、一瞬ながら言葉を詰まらせた。さきほどより保ち続けた泰然がかすかに崩れ、率直に申し上げてよいものか否かとの葛藤に少々剣幕となる。パゴダまで訪問した今になって、もう一押しの勇気が足りなかったようだ。


 傍らブラフマーが、早く言えと顎を突き出した。ゆえにずっと噤んでいてもらちが明かぬと腹をくくった帝釈天は、唸りつつもいよいよ重い口を開ける。


「……私とと。帝釈天と梵天の仲として、おはなししとうございます」

「ははっ、たわけたことを。今更何をしゃべるつもりだ?あのうさんくさい経の話か?」

「ただの戯れでございますよ。どうか、今日だけでも。今後一切、このような無礼はいたしませぬ」

「ふん、この寂しがり屋め。全く変わらんなぁ、おまえというやつは」


 帝釈天の、ブラフマーを訪ねた目的がようやっと知れた。単に、ブラフマーなどではない、梵天という親友の顔が見たかったのである。婆羅門神に囲まれる日々に加え唯一のよすがでもあった最勝とも決別し、なおも護法に奔走する孤独にいよいよ耐えかねて、ようは相棒に甘えたかっただけなのだ。


 ブラフマーはさような帝釈天の今にも心折るるようなわずかに沈む顔色を見て、満更でもないかのごとくにわかに笑みをこぼした。普段強壮な犬が弱々しく鳴く様子たるや実に愉快、かわいげがあるものよと言わんばかりである。だからであろうか、以降のブラフマーはたいそう上機嫌であった。


「よかろう、今日だけぞ」


 ブラフマーが、おもむろに起き上がって枝から飛び降り、帝釈天の目の前に着地する。あおられる天衣の長い裾が、たなびきながらあとを追って舞い落ちた。

 弱虫な帝釈天の要望を承諾すれば、高円筒形の華やかな宝冠を頭から取り外す。次いで、唐突に片手を広げて燐火を灯らせると、それが自ずと破裂するのを待った。するとうちから、一升の壺が出現するのだった。ソーマ酒である。


「ならば酔え、帝釈天。とびきり度数の高いものを用意したぞ」


 さすがに無条件では赤字である。図るに、泥酔せし帝釈天を野放して遊ばせ、その経過を堪能しようというのだ。つまりは、大道芸サーカスの見物に等しい。

 ブラフマーは、酒壺を帝釈天に差し出して強要する。対して帝釈天は、己が見世物にされるのを拒まなかった。しかも、そうならばと俄然本気になり、自らブラフマーの手中に一歩踏み込む。酒壺さえ、タダでは受け取らなかった。


「では、追加で。腰つきの良い女を十人ほどお出し願おう」


 渡される酒壺に手をかけながら、帝釈天はさらなる要望を告げる。片眉を釣り上げるブラフマー、帝釈天に図太い意欲を見せつけられてわずかに戸惑った。

 だが、否むのでは互恵は成立しない。ブラフマーは渋々と、両手を広げて花園はなぞのに砂煙を巻き上がらせ、天帝シャクラが所望の女神十人を即興で創造し召し出すのであった。




 

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