毗沙門戦記
ぽんつく地蔵
上
プロローグ
開戦
雪崩のように雨の降るとある季節に、作物も実らず、
悲鳴の聞こえない瞬間は無く、地には死体が敷き詰められるまでになった。辺りには死臭が漂い、黒煙が立ちこもり、草木は枯れ果て、空は暗黒に包まれた。その被害は人界のみならず、天界にまで及んだのである。この凄惨さになす術もなく、神々でさえも世の戦慄を食い止めることができずにいた。
時に、かつてのヴェーダ期における神々の帝王にして、今は
帝釈天率いるその大軍は、皆が皆、色鮮やかな甲冑を身に纏い、華やかな装飾をつけ、体をしなやかに動かせるたびに甘い芳香を放つは誘惑のごとく、一糸乱れぬ厳格さを保ちつつも穏やかさと妖艶さに満ち満ちた最も強力な護法善神たちの群れであった。
いつぞやにはこの大軍で、妖魔ヴリトラを討ち取って大地に恵みの雨をもたらし、また、仏法をおびやかした悍ましきアスラ神族の軍勢には一閃の雷霆でもって圧倒の勝利を得たのである。帝釈天を中心とする数多の守護神から成り立つ構造が、難攻不落の地である須弥山を創り上げているのであった。
ところが、このような帝釈天の大軍でさえも、未知の凶暴性を備える羅刹鬼の群れには全く歯が立たず、従来の戦術では通用しなかったのである。初戦は、護法軍側の惨敗であった。二戦、三戦と交戦を重ねるも、結果は相変わらずであった。
「まさかここまで追い込まれるとは。
さすがの帝釈天も打つ手を見出せず、焦りと悔しさに唇を噛んでいた。
それから間もなくのことである。世界の破滅もまさに目前に迫ったその時、どこからともなく神獣の雄叫びが天空に響き渡った。
一瞬の沈黙を経て後、地平の轟きとともに、金剛なる胸甲に虎の毛皮を身に纏った悠々たる一人の将軍が、片手に
その虎軍の様子は、沈着冷静にして自信に溢れ、鍛錬の上に鋭利に磨かれた美しさを備えていた。如何なる戰の如何なる敵人をも決して寄せ付けぬ、干戈を交えずして数々の対者を圧倒する真に強靭な大軍のようであった。しかしながら、須弥山の神々とは違って平穏さはなく、荒々しさと怒りを露わにしていたのである。
そうして、それらを束ねる将軍は、顔に
そして、あとに続く眷属の群れは、枯れた大地を踏み締め、再び煌びやかな緑の森を蘇らせていったのである。勝利の歓喜に満ちる虎々の咆哮は天まで届き、空は瑠璃の色を取り戻した。並大抵ならぬ威力を備えたる将軍はまさに鬼神のごとく、しかし虎の大軍が天地を横切る景色はこの上なく壮麗であった。
それから、光明の輝きを取り戻した世界をしかと認めた虎軍は、満足したかのように荒々しい怒りを鎮めると、堂々とした足取りでもと来た道を帰り始めた。
するとそこへ、帝釈天を先頭とした護法軍が列を成して追いかけるように現れ、虎軍の行く先を遮った。そして、帝釈天が一歩前へと進み出て、将軍と思しき凛々しげな武神に声をかけたのである。
「先の
唐突に目前を阻まれた将軍は、しかし彫り深き顔を微々とも動かさず、濃い太眉一つとて頑なに揺らがせない。乏しい表情で一呼吸置いてから、やおら受けし問いに答えた。
「
帝釈天はその言葉を聞いて、怪訝げに眉根を寄せる。仏の世には知れぬ一団であった。
「名を、お聞かせ願おう」
「我は、夜叉一族の王なり。それ以上は、言えませぬ」
帝釈天がこの正体を暴かんとしてなおも迫るも、夜叉一族の王と名乗る将軍は断固として
じきに、外剛将軍のほうから虎を一足前進させた。
「それよりも貴殿方。見るところ、仏の法を擁護せし神々の様子にあられる。その戦士らが、邪鬼の小虫相手に、なぜこうも手こずっておられるのか。かように臆病でおっては、光明どころか十方の
三叉戟を握り締めながら、護法軍全体を見渡して、嘲笑の混じった戒告の言葉を浴びせる。
とはいえども、続けて馬鹿にするような笑いは一声として上がらず、それは緊迫の空気をよりいっそう強めるのであった。
帝釈天は、言い返すことなく沈黙のまま、将軍のその言葉をゆっくり吟味するように目を伏せる。すると、将軍はまた一歩虎を前へと進めた。
「道を開けていただきたい。我々は、次の地へ向かわねばなりませぬゆえ」
気迫に満ちた赤瞳が、神々の帝王の眼をしかと捉える。見つめ合ってしばらくして、ようやく帝釈天は静かに微笑み、軍に通り道をつくるよう合図を送った。
「失礼した。この度の救いの手、感謝申し上げる」
帝釈天がそう言い終わるや否や、虎軍は颯爽と走り始めた。将軍は「御免」とそう一言だけ挨拶を残し、護法軍の間を足早にすり抜けていく。
そして、あれよという間に地平線の彼方へとその姿を消して行くのであった。護法軍はしばらくの間、虎軍の去った北方の広大な大地を眺めていた。
「ふむ、あの男、いささか無礼でございましたな。天主を前に頭も下げぬとは」
「まあそう言うでない。あの武神の言う通りだ。此度の件で、こちらが偉そうな態度などとれまいて。虎の勇ましいこと、優しすぎな私たちも見習わねばならんな」
次いで今度は、西方守護神の
「やはり、そう思うか?」
「夜叉と申す一族、羅刹どもと同じく、暴鬼の類い。それがあれほどの勢力を蓄えているとは。さきほどの様子からするに、今の時点では敵対するには値せずとも、以降、仏に歯向かってくるとあらば、此度以上に一筋縄ではゆきませぬぞ」
「いかにも、先手を打っておいて損はなかろうて。しかし、ああいう、無慈悲で暴虐な守り神も一人や二人、護法として欲しいものだ」
「そういえばあのお方、仏法の道理をある程度お知りのようでございましたね。ただの武神にあらず、
「ふむ。そうとなれば、ますます護法にふさわしい」
「しかして、鬼ですぞ?」
「何を今更。私の眷属たちは、どうせ皆、生まれは鬼だというのに」
「これは失敬。そうでございましたね」
帝釈天は一頻り高笑いをした後、大軍を須弥山に向けて前進させ、淡い光の中を歩んでいった。かくして、大地に繁殖した羅刹一族は一人の将軍の手により成敗され、地の奥底に封じ込められたのである。
その後、帰城した帝釈天は、世界を魔の手から見事に救済した英雄が地上に現れたことを
「かの男は、瀕死の全生命体の傷口を、もらすことなく
——
(『毘沙門天王和讃』より)
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