第3話 小さな幸せ

 お茶碗にふんわりと盛られた炊きたてほっかほかの白米に、内山さんは「わぁ……」と頬を緩ました。


「いただきます」


「いただきまーす」


「いただきます」


 真守まもる拓真たくま内山うちやまさんは手を合わせ、内山さんはおはしを持つと、さっそく白米をたっぷりと口に含む。ひと口ひと口噛みしめるほどに、じんわりと目が細められる。


「美味しい〜。白米を存分に食べられるなんて本当に久しぶりで〜。産んだらたくさん食べるんだって決めてたの」


 次には椎茸のおかか炒めを挟み、また白米を運ぶ。


「あ〜、これすっごくご飯に合うわね〜」


 そうしみじみと言って満足げに口角を上げた。ししとうや茄子にもお箸を伸ばしつつ、もりもりとあっという間にお茶碗は綺麗に空になった。内山さんは「ふぅ」と満足げな息を吐く。


「ご飯控えてたんですか?」


 拓真が訊くと、内山さんは「そうなんですよ」と苦笑する。


「妊婦って食事制限というか、体重制限があるのよね。ひと昔前なんかは「赤ちゃんの分までしっかり食べて」なんて言われてたみたいなんだけど、今は必要以上に太っちゃ駄目って。そんなことしなくても、赤ちゃんはきちんと母親から栄養るからって。むしろ太り過ぎると妊娠線が出たり割れたりで良く無いんだって。だから妊娠が分かってからは、ご飯はお茶碗に1杯だけって決めて。私、それまでは最低2杯は食べてたの。だから今より頬とかもふっくらしてたの。お腹の赤ちゃんは育って行くし、羊水もあるから体重そのものは増えるんだけど、腕とか足とかは妊娠前より細くなったぐらい」


「へぇ。俺ら男だからそのあたり全然詳しく無くて。妊婦さんも大変ですね」


 拓真が感心した様に言うと、真守は「あ、俺聞いたことあります」と声を上げた。


「テレビとかで見たのかなぁ。でも母も言ってましたよ。母たちのころは祖母に煮干しとか白米とかすごい食べさせられたって。お陰で太っちゃって。幸いと言って良いのかどうなのか、産まれたのが俺ら双子だったんで、育児疲れで痩せたって」


「それは本当に良かったんだか悪かったんだか」


 拓真が苦笑すると、内山さんは「ふふ」と微笑んだ。


「そっか、おふたりは双子なのね。私、私は……」


 内山さんは打って変わって悲しそうに表情を歪ませた。


「ひとりも産んであげられなくて。私ね、実は2回流産してるの」


 突然の重い告白に、真守と拓真は顔を見合わせる。それはまた想像を絶する。内山さんは過去に2回、そして今回で3回も我が子を喪ったのだ。


 真守も拓真も何も言えなかった。同情やあわれれみは違う。それは内山さんに失礼だ。


「そうしたら、しゅうとめに言われちゃった。「あなた、子どもも満足に産めないの?」って。


「それは酷い!」


 真守はつい声を荒げていた。拓真も「ああ」と苦々しい表情になる。


「ありがとう。私さすがにショック受けちゃって」


「それ、旦那さんには?」


「さすがに言えなかった。自分の母親がそんなことを言ったなんて、知ったら主人が嫌な思いするでしょう?」


 内山さんは弱々しい笑みを浮かべる。


「内山さん、もしかしたらお姑さんに言われたこととかされたこと、旦那さんには何も言わずに我慢して来たんですか? 想像ですけど、他にもいろいろ言われたりしてそうな気がするんですけど」


 すると内山さんはまた苦笑いを浮かべる。


「あれを嫁いびりって言って良いのか……。例えば夫の実家に行ってご飯をご馳走になる時には、嫁の立場だったら姑の手伝いをしないといけない空気になるのね。妊娠したら、口では「ゆっくりしていてね」って言うんだけど、ふたりになったら嫌味を言われたり。「本当にゆっくりするなんて、大したものよね」みたいな。お手伝いしたらしたらで、ほら、家事ひとつ取っても人によって段取りって違うでしょう? だから姑に合わせるんだけど、違うことをしたら「こんなことも満足にできないの?」って言われたり。もちろん夫としゅうとが聞いていないところで」


 確かにひとつひとつは、そう大きなことでは無いかも知れない。


 だがどれも、言われたら嫌な思いをするものだし、積もれば大きくなる。お姑さんへの感情は悪くなるだろうし、内山さんのストレスも大変なものだろう。


 別居していた様だから、毎日では無いにしても、旦那さんの実家に行くのが嫌になったりもするだろう。


「俺は、それを嫁いびりだって言っちゃいます」


 真守が言うと、拓真も「だな」と頷く。


「お姑さんがお舅さんと旦那さんに聞こえない様に言ってたって言うんなら、そこには悪意があったと思います。内山さんもそれを感じ取っていたから、旦那さんに言えなかったんじゃ無いですか?」


 お姑さんに言われた、されたことを旦那さんに言う奥さんも、世にはたくさんいると思う。


 言えるだけでも心の負担は軽くなるのでは無いだろうか。


 そこで旦那さんが信じてくれないのなら、ある意味夫婦の危機の様な気がするが。


「そう、かも知れない。夫に嫌な思いをして欲しく無くて、飲み込んでたの。言っちゃって良かったのかしら」


「良かったと思いますよ。そこで内山さんを信じてくれないんだったら、旦那さんにマザコン疑惑が出ますけどね」


「わはは、言えてる」


 拓真が笑うと、内山さんもくすりと笑みをこぼした。


「拓真も俺も結婚したこと無いですけど、夫婦の間の隠し事って、必要なものとそうで無いものがあると思うんですよ。嫁いびりはむしろ隠さない方が良いんじゃ無いかなと思います。俺も将来結婚することになったら気を付けないと」


 まだ見ぬ未来のことではあるが、身につまされる思いだ。母は真守にとって良い母親だが、お嫁さんという存在がどんな変化を起こすか判らない。


 内山さんが黙っていたのも、恐らく旦那さんにとってお姑さんが良いお母さんだったからだろう。仲が良く無ければ内山さんも遠慮無く言えただろうから。


「でも、そんな姑でも、この子がちゃんとお腹で育ってくれてたことは喜んでくれたのよ」


 内山さんは言って、すぐ側ですやすやと眠る赤ん坊をそっと撫でる。


「流産したことで嫌味を言われたけど、この子は安定期までしっかり育ってくれたから。だから産んであげられなかったのは、夫にも、もちろん舅にも姑にも申し訳無かったなぁって。実の両親も楽しみにしてくれていたのよ。私ひとりっ子だったから、初孫だったの」


 内山さんはお箸を置き、赤ん坊をそっと抱き上げる。


「こんなに可愛い子なんだから、元気に産んで、皆に抱いて欲しかった。それは本当に悔しいなぁ」


 内山さんの伏せた目に、じわりと涙が浮かぶ。それはまぶたにとどまるには重く、つぅと一筋頬を伝った。真守はティッシュを差し出す。


「ありがとう。もうこうなってしまったのは仕方が無いんだから、いつまでも泣いていても駄目だと思うんだけど」


「いえ。自分だけならともかく、血を分けた子を喪う辛さは俺にも分かる気がします」


「ああ、そうよね。あなたもご兄弟を喪ってるんだものね」


 内山さんは涙を拭いながら、真守と拓真を見た。


「そう思うと、こうして一緒にけることが唯一の救いかも知れないわね。この子と一緒にいられることが、今の幸いよ」


 産まれなかった赤ん坊は、死神手帳によると死者として数えられていない。ならもしかしたら、天国行きになろうが地獄行きになろうが、一緒にいられるのかも知れない。


 それぐらいの慈悲じひはあって欲しいと、真守も拓真も心の底から願った。

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