第4話 パパの思い

 マコトちゃんはじわりと涙を浮かべ、かすかに震える口を開く。


「私のせいで父がボクサーでいることを諦めたんだったらって。父、テレビ中継される試合も良く見ていたし、たまに自分の試合、勝った試合だけですけど、母が撮影していたのを見たりしていて、未練があるのかなぁって。だから私、父の夢を叶えなきゃって」


 マコトちゃんはぐいと手の甲で涙を拭う。そんなマコトちゃんの頭を、拓真がふわりと撫でた。


「やっぱり良い親父さんだな」


 マコトちゃんは驚いて顔を上げ、少し呆けた様な顔を拓真に向ける。拓真は穏やかに微笑んだ。


「親父さんはマコトちゃんの親でいることを選んだんだな。ボクサーに限らずだけど、スポーツ選手であることを選ぶ人も大勢いると思う。アスリート生活がちゃんと生活できる収入があるものだったら良いんだろうけど、ボクシングの場合はそうじゃ無かった。親父さんはそれを選んでお袋さんに負担を掛けること、マコトちゃんにちゃんとした生活をさせてあげられないことを嫌だって思ったんだ。親父さんはボクシングを諦めたんじゃ無いと思うよ。マコトちゃんが娘として可愛いから、大事にしようと思ったんだよ、きっと。だからさ、私のせいで諦めたなんで思うのは、親父さんもマコトちゃんも悲しいことだと思うぜ」


「でも、でも父は自分の試合見て溜め息吐いたりして。だからもっとやりたかったのかなぁって」


「マコトちゃんも自分の試合っていうか、そういうのを撮影して見たことあるか?」


「あります」


「その時溜め息吐きたくなったこととか無いか?」


「あります。あそこもっとああしなきゃ、こうしなきゃって」


「親父さんも多分同じ気持ちだったんだと思うぜ。勝った試合だけど、この時こうしときゃ良かったのにって、反省というか、そういうのだと思う」


「そう、でしょうか」


「そうだと思うよ。親父さんは諦めたんじゃ無い。マコトちゃんがそう思っちゃって、親父さんの分までってボクシングを始めたのは凄いことだと思うけど、多分ね、親父さんがマコトちゃんにとって良い親父さんだったから、マコトちゃんはボクサーになろうって思えたんだと思う。親父さんがボクサーのままだったら、どうだったかな。そうだった時のことを想像したことあるか? 親父さんなかなか勝てなくなったって言ってたよな」


「はい」


「男ってな、個人差はあるけど、あまりにも巧くいかない時って自暴自棄じぼうじきになりやすいんだよな。ありきたりだけど酒におぼれたり家族に暴力を振るったり。そうやって周りを不幸にする人ってのはいるんだ」


「パ、パパはそんなこと」


 マコトちゃんは動揺してしまい、それまで落ち着いて父と呼んでいたのがパパになった。


「ああ、しないと思う。しない人だから、お袋さんとマコトちゃんのために引退できたんだと思う。けどその時になってみないと分からないことって多いんだ」


「そんな」


 マコトちゃんは絶望した様な表情になる。拓真は少し焦って「ああ、ごめん」と謝る。


「それだけ人の心は繊細で判らないものなんだ。でも単に親父さんは引退してもボクシングは好きで、だから他の人の試合とかも見てたんだと思う。自分の試合も懐かしいとかそんな軽い気持ちだったんだと思うぜ。だから自分のせいだなんて思っちゃ駄目だと思うぜ」


 マコトちゃんはほろっと涙をこぼしながら「はい」と小さく頷いた。


「俺もそう思うな。うちも両親がいて今は離れて暮らしてるけど、だからこそたまに会うと、なんでもしてあげたいって思われてるってひしひし感じるよ。もちろん甘やかしたりするのはいけないと思うけどね。マコトちゃんのお父さんもそうだったんだと思う。お母さんとマコトちゃんが大事で、なんでもしてあげたいって思ったんだと思う。お父さん、引退した後はコーチとかにはならなかったの? そういうアスリートもいるよね」


「選ばなかったみたいです。声を掛けてくれた人もいたみたいですけど、安定した会社勤めをって、中途採用で」


「じゃあやっぱりお母さんとマコトちゃんのためだよ。アスリートのコーチって凄く大変そうなイメージある。それこそ選手のためには時間とかそういうのも関係無く行かなきゃいけないとか、そういうのありそう。土日の休みも無いんでしょ?」


「はい。むしろ土日の方が生徒とか練習生多いです」


「マコトちゃんが学校に行ってたら土曜とか日曜休みでしょ。それに合わせたりもしたかったんだよ。やっぱり良いお父さんなんだね」


 真守が言ってにっこりと微笑むと、マコトちゃんは「はい」とまたじわりと涙を浮かべる。


「えへへ」


 マコトちゃんは嬉しそうに笑って、こそばゆい様に身体をくねらした。


「パパ、私がプロボクサーになりたいって言った時、どう思ったかな。嬉しいって思ってくれたと思います?」


 真守と拓真は顔を見合わせると「うん」「だな」と自信満々に頷く。


「それは嬉しかったと思うよ。お父さんの夢とかそういうの無しにして、自分が好きなスポーツに関心を持ってもらえたんだもん」


「そうだよな。最初はお袋さん対策で、ダイエット目的だって行き始めた時でも喜んでくれたんだろ? そういうのも親孝行だよな」


「プロになりたいって言った時、お母さんはどうだったの?」


「最初は渋い顔されちゃいました。でも「やっぱりお父さんの子なのね」って諦めて、パパよりも応援してくれる様になりました。私、かつ丼は小さなころから好きで」


 マコトちゃんは食べ進めて半分以下になったかつ丼を、優しい顔で見下ろす。


「何かあった時にはママがかつ丼作ってくれたんです。受験合格した時とか入学とか卒業とか、ああ、プロテストに合格した時にも。奮発してくれてひれ肉のとんかつ揚げてくれて。普段は今日真守さんがしてくれたみたいに、買ってきたとんかつで作ってくれたり。でも丼つゆは作ってくれて。そうだった。私が甘いめのが好きになったのは、ママの味付けがそうだったからで」


 マコトちゃんの目から涙が溢れ、はらはらと流れ出る。マコトちゃんはそれを両の手の甲でぐしぐしと擦り、呟く様に言った。


「パパとママに会いたい。ありがとうって言いたい。さよならって、ちゃんとお別れしたい」


 そしてずるっと鼻をすする。真守がティッシュペーパーを箱ごと差し出すと、マコトちゃんは「ありがとうございます」と言って1枚取り、鼻を抑えた。


「ごめんなさい、わがままですよね」


 マコトちゃんが苦笑をすると、拓真は「いいや」と強く言った。


「会いに行こうぜ。親父さんとお袋さんに」


「え、でも」


 マコトちゃんが戸惑うと、拓真は「大丈夫だ」と重ねる。


「親に会いたいなんて当たり前のことじゃ無いか。俺、両親が来る前にマコトちゃん連れて来ちまったから、最期会えなかったもんな。それぐらいの融通はきくんだぜ」


 拓真が言ってにっと口角を上げると、真守も「そうだよね」と笑う。


「俺も手伝ったんだけど、ちょっと越権えっけん行為かなって思いながらも、亡くなった人の思いを伝えられたよ。その後その方がどう思ったのか、どうしたのかは判らないけど、言伝を頼んだ方はきっと喜んでくれるって言ってくれたんだ。事情を知ってる方だったからね」


 涙で濡れたマコトちゃんの顔がみるみる輝いて行く。


「私、パパとママに会っても良いんですか? 本当に?」


「向こうからは多分こっちは見えないだろうけどな。よほど霊感の強い人じゃ無いと。でも行こうぜ。会いに行こう!」


 拓真は言って威勢良く立ち上がる。マコトちゃんも「ああ……」と漏らしながらつられる様にふらりと腰を浮かす。が、かつ丼を見て「あ!」と声を上げた。


「ご飯を残すなんて駄目です!」


 そう言って座り直すとお箸を持った。


「お腹いっぱいなら無理しないで良いんだよ?」


「いいえ、全然大丈夫です。ママに言われました。どうしても食べられないんだったら仕方が無いけど、ご飯を残しちゃいけないよって。こう見えてもアスリートです。まだまだ食べられますよ!」


「頼もしいなぁ」


 マコトちゃんは「冷めても美味しいです!」と言いながら、わしわしとお箸を動かした。

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