4.徒労
携帯の登録は、「トガちゃん」だ。
「お疲れさまです。秋山です」
富樫からの電話だ。
秋山は、三崎課長に頼んで、浅水病院の事務員、広瀬さんと話しをさせてもらう事になった。
三崎課長も広瀬さんも自宅は白亀市だ。
浅水病院も白亀市にある。
富樫も東さんも白亀市のホテルに泊まっている。
誰かに見られても不味い。
田舎だから、偶然、知り合いと街中で出会す事もある。
栗林市や、白亀市なら知り合いと出会す確率が非常に高い。
タクシーで三十分くらいの白亀市の隣、塩出市で会う事にした。
午後七時の予定だった。
富樫は、ハヤブサの業務課、大野課長と面会する事になっている。
大野課長の予定がずれて、遅れるという事だ。
時間が合えば、一緒に会う事になっていたが、どうやら、間に合わない。
秋山は、本町通り商店街にあるビルの二階「鶏どり」という焼き鳥屋の個室で待っている。
三崎課長は塩出高校出身だった。
さすがに高校時代は、通っていなかったそうだが、同窓会で何度か利用したそうだ。
待ち合わせ時間ちょうどに、三崎課長が女性を連れて入って来た。
擂鉢堂の竹井MSが云っていた通りだ。
綺麗というより美人だ。
年相応の落ち着いた女性だ。
自己紹介を済ませると、ビールとシメサバが運ばれて来た。
焼き鳥屋でシメサバとは、と思ったが食べてみると、生臭くなく、脂が乗っていて旨かった。
三崎課長は、ここへ来たら、シメサバを必ず食べるそうだ。
焼き鳥が運ばれて来て、三崎課長が浅水病院の事を広瀬さんに尋ねた。
「看護師さんと、仲よう、喋ったりするんかな?」
中学時代の同級生に、話し掛ける口振りだ。
いきなり本題に入った。
「そうやなぁ」
広瀬さんが話し始めた。
看護師長は、若い看護師や新人を指導する。
ひとつのミスが、患者さんの命に関わるのだから、強く叱責する場合も当然ある。
しかし、外科の看護師長は、医師と仲良く話しをしている若い看護師を嫌っている。
重要でない事。
例えば、備品の片付け方について、何度も注意する。
看護師長の、やり方はこうだと云って、順番が違う事を指摘する。
看護師長が目の敵にする看護師は、決まって安藤外科部長と噂になっている。
ただ、若い看護師も負けてはいない。
相手は、看護師長だから、面と向かって敵対する訳にはいかない。
いざとなったら、安藤先生に言い付けると匂わせる。
しかし、そんな気の強い看護師ばかりではない。
中には、気を病んでしまう、若い看護師も多い。
広瀬さんは事務員だから、看護師と接点がない。
ましてや、若い看護師から、話し掛けられる事など、皆無だ。
看護師長から叱責を受けて、若い看護師が、ひとり悩んでいる姿を見ると苦しくなる。
それは、広瀬さん自身が、経験したからだった。
広瀬さんは、大学を卒業して、食品会社「津和木」へ就職した。
就職して一年目、先輩の女性従業員に虐められた経験がある。
先輩の女性従業員が入社した頃は、ほぼ、女性は高卒だった。
職位は、一般職だった。
広瀬さんが就職した時は、女性の場合、高卒八人と大卒二人だった。
「そうやな。うちの会社も最近は大卒の女性、採用しとるけど、そんなゴタゴタは、ないけどなぁ」
三崎課長の云う通りだ。
ただ、三崎課長の入社した時代には、梅本薬品は、まだ大卒の女性を募集していなかった。
「津和木」で高卒は、一般職、大卒は、総合職。
一般職の女性従業員には、制服が支給されている。
総合職は、私服だが、皆スーツで勤務する。
給料も僅かだが、始めから差があった。
まだ高卒で入社した女性従業員の方が多かった頃だ。
最初の三ヶ月は研修期間で、新入社員全員、各部署で実務や作業を経験する。
当然ながら新人は、業務や作業を知らない。
しかし先輩の女性従業員は、大卒の新人だけ、業務や作業を教えないし、指導もしない。
失敗した時だけ、大声で叱責する。
三崎課長がビールを飲んだ。
浅水病院でもよく見掛ける光景だと云って頷いた。
広瀬さんと一緒に入社した大卒の新人は、三ヶ月の研修中に退職してしまった。
広瀬さんは、ずっと堪えて、二年勤めた。
ただ、やはり厳しい状況に変わりはなかった。
ある日、退職した同期だった女性と町で会った。
地元の病院で医療事務をしているそうだ。
会社を辞めて一緒に病院で働かないかと誘われた。
広瀬さんは、誘いに乗った。
医療事務の資格を取って、同じ病院へ勤めた。
誘ってくれた女性が結婚て退職してしまった。
考えてみると、病院の看護師さんと話す機会はない。
また一人になってしまった。
広瀬さんは、病院を辞めて、暫く近くのスーパーマーケットでアルバイトをしていた。
ふと、医療事務の募集の広告を見て応募したのが浅水病院だった。
もう、対人関係に、さほど期待もしていなかった。
そう思って勤めてみると、気が楽になった。
一人で、職場を眺めていると、色んな景色が見えてきた。
一人で、悄気ている若い看護師に、声を掛けるようになっていた。
秋山は、話しを挟む事もせず、ただ、広瀬さんの話し掛けるを聞いていた。
なんとなく、秋山が思っていた話しとは違っていた。
もう帰る時間になって、部屋から出ると、林がいた。
カウンターで食事をしていた。
「あっ。ヤッシ」
秋山が声を掛けた。
「えっ?アッきゃん。何でここに」
林は驚いている。
「今日は飲み会や」
秋山が答えた。
「ああ。そうか。俺は晩飯や」
林は、後ろの二人をちらっと見て答えた。
成程、鶏飯と鶏吸い。
そして、骨付き鶏だ。
「ここの鶏飯。旨いんや」
林が云った。
それじゃあ、また、と云って階段を降りて店を出た。
商店街から路地に入り、タクシーに乗った。
三崎課長と広瀬さんが後部座席で秋山が助手席に乗った。
三崎課長が、林を覚えていた。
「あの人は、誰ですか」
広瀬さんが尋ねた。
三崎課長が林を刑事だと答えた。
その後、会話が途絶えた。
東さんが居てくれたらと思った。
秋山には、女性の気持ちが分からない。
今日の飲み会で、広瀬さんの言葉に、何の疑問も無かった。
つまり、単なる飲み会で、終わってしまった。
東さんなら、何か感じるものがあったかもしれない。
東さんは、竹井MSから三崎課長の聞き取りをしている。
営業から帰社してからだ。
明らかな、人選ミスだった。
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