末路に咲く花
三浦周
末路に咲く花
男は、カウンターのバーボンに睡眠薬を落とした。氷の浮いていないストレートの茶色の中で錠剤型の薬は上手く溶け込まずに、ゆっくりと底へと沈んでいく。
それは、まるで彼の人生のようだった。
男は舌打ちをすると、マドラーでその錠剤を押し砕くようにかき混ぜる。本来、睡眠薬というのは犯罪対策で溶けると青くなるものだが、質の悪いブラウンの中に溶けていくソレはドブのような色へと変じていった。
それを一口舐めて、彼は血走らせた目を細めて虚となったふりをした。それは、もう効かなくなった睡眠薬へのせめてもの順応である。
彼はもうアルコールでも、睡眠薬でも安らかに眠ることなど叶わない。うちから湧き出る懐疑心と意図せず丈夫に育った身体がそれを拒むのだ。
彼のような末期とも言える存在でなければ、それは即時昏倒するような危険な睡眠薬の飲み方だろう。
彼はここに死にに来ていた。正確には死ぬ前に最後の一杯と洒落込もうということだ。
「自殺的だねぇ」
それを聞いたバーテンは彼を咎めるでもなく、品良く笑った。
「ええ、全く」
「慣れてるね、あんた」
男は細めた瞼をぎょろりと開き、バーテンに向かって威嚇のような視線を向ける。けれどもバーテンは意にも介さず、葉巻をつけて彼の方へ吹きかけた。
「ええ、あなたのような人は珍しくない」
そういったバーテンの目はまるで闇を限りなく漂白したような、そんな黒に満ちていた。
「私の店にはね、あなたのような人が集まるのですよ。誰に教えられてかは知らないが、まともな客が来た試しがない」
「ははは、じゃあ看板を下ろすことだ。俺は誰にも聞いちゃいないが、あんな名前じゃ似たようなのが集まったっておかしくねえ」
表の看板は黒地のベニヤに赤いペンキ、縁取りは銀の色したアルミ製。店名として並ぶ英単語の意味からすれば彼の言うことも尤もであった。
『
それがこのバーの名前。
「妻がつけてくれた大切な名前なのです、変えるなんてとんでもない。それに私はとても気に入っております」
「くだらねえ」
そういうと男は安い三級品の紙巻きタバコを懐から取り出すと、乱暴にライターのフリントを擦った。
「知ってますか? 自殺した者の後には花が咲くのですよ」
「ああ、知ってるさ。俺は咲かせてやったことがあるからな」
「どのような花でしたか?」
そう問われた男は、まるで武勇伝のように自慢げに語り始めた。
「中学の時だ、気の弱くてチビの女がいてな──たしか、三山って言ったかな。そいつが馬鹿みたいにとろいもんだから俺はムカついて、そいつを虐めてやったのさ。楽しかったぜ? そいつを教室で全裸にしてやったら、面白い声で泣き喚くんだ。まるで猿みたいにキーキーさ。それから金も取ってやったっけな、十万以上は儲けてやった。最後は仲間内でレイプしてやったのさ──そしたら、半年くらいで机の上に花瓶に綺麗な花が咲いた。ああ、あの頃に戻りたいもんだぜ」
バーテンは男の語りを聞いて、同調するように笑い、それから棚にある上等なウィスキーを取り出すとショットグラスにソレを注いだ。
「これはあなたの話のお礼です、ラフロイグの30年物。なかなか手に入らないものですよ」
「へぇ、そいつはいいな。俺と同い年の酒じゃないか」
「お代わりは瓶が空になるまで、好きなだけどうぞ」
男はショットグラスを一気に傾けると、傍に置かれたその瓶から節操なしに酒を注いでいく。
アルコール中毒で爛れた肝臓には、最早前途はありはしまい。それに何より彼は死ぬ気だ。
「私の妻が咲かせた花は、一輪の赤い薔薇でした」
「あんたは奥さんを死なせたのか。ハハハ、悪い男だ。笑いが止まらねえ」
「ええ、私は悪辣な男でした。妻は包丁を首に押し当て、そのまま私の目の前で死んでみせたのです。きっと恨んでいたんでしょうね、けれど不思議なことに彼女が咲かせた薔薇の花を見て、私は何より美しいと思ったのです」
バーテンの話に気を良くしたのか、男はグラスに注いだウィスキーをまた一気飲みする。その様は悪魔の宴のようだ。
「私の娘は、向日葵のような花を咲かせました」
それを聞いた男が、水を得たように笑い狂う。
「向日葵ィ? 死んだやつに向日葵なんざ最高に面白すぎて笑えちまうな」
「不思議なもので花というは自殺した者の最期の瞬間を表しているわけではないのです。あの子は太陽のように笑う子でした。だから、大輪の向日葵を咲かせたのでしょう」
「おいおい、オッサン。次はなんだ、親か兄弟か? 最後にここに来て良かったよ。良い気分で死ねそうだ」
「ああ──やはりあなたも花を咲かせるのですね」
男は、思わずバーテンの目にギョッとした。何故なら、その瞳の奥に好奇心のような渇望を感じ取ったからだ。
まるで、自分の死を理科の実験の蛙のように見つめているその眼球を彼は天性の観察眼で見抜いたのである。
「オッサン、そんなだから家族全員おっ死ぬんだぜ。そうだ、俺が家族のところに送ってやろうか?」
「いえ、遠慮しておきましょう。私はもっと生きながらえて、ここで美しい花を見ていたい」
「根性なしめ」
男がそう吐き捨てると、店のドアがばたりと開いた。人影が一つ、痩せ細った若い女の影だった。
「いらっしゃい」
強い酒を、お願い。
女はそういうと、男の二つ隣の席へと腰を下ろした。
可哀想に。痩せ細った女は化粧もせずにぼろぼろになった病的な肌に真っ青な痣と隈を作って、なんとかここまで歩いてきたといったところだ。
「よう、姉ちゃん。強い酒なら奢ってやるよ」
男はにんまり笑って、そういうと今まで自分が使っていたグラスにウィスキーを注ぎ、女の前に叩きつける。
突然の酒に驚きはしたが、女はか細い声で、頂きますと答えてウィスキーへと口をつけた。
女がそれを飲み干したのを見て、男は愉快そうに酒を注ぎなおす。
バーテンは何も言わずに、それを一瞥すると手持ち無沙汰というふうにグラスを吹き始めていた。
「なぁ、あんたもここに死にに来たのか?」
その問いは、男が酒に酔っていた証拠であるだろう。男は酒に強かったけれど、それでもあまりの飲酒量だ。
「死にに……? そう、私はもう誰にも必要とされてないから。だから、私はいらない子だから──あああああああああっっ!!!」
突然叫んだ女の目には、涙がとめどなく溢れ出していた。
けれど、男もバーテンもまるで見世物小屋の猿でも見るみたいに下卑た笑いを浮かべるのみだ。
「まぁまぁ、話を聞かせてくれよ。俺は親切な男だからさ、あんたの身の上も聞いてやるよ」
女は語る。
両親に虐待されて、育ったのだという。母は無関心で子供なんか欲しくなかったと日頃から口癖のように言って、それを口実に女に満足な食事も与えはしなかった。父はヤクザの下っ端で、上から殴られた分の腹いせを彼女で解消していたのだそうな。それでも小さいうちはまだマシで、性徴を迎えた彼女は異常性癖の変態たちに金の対価に体を売ることを強要された。
二十歳を超えても、その営みは対象を変えて続いただけだ。むしろ、堂々と出来るだなんて父も母も喜んだという。
それから、父と母を乗せた外国産の高級車が追突事故を起こしたことで、彼女はようやく一人になれた。
しかし、残ったものは絞り尽くした鶏がらの体。
故に彼女はここに来たのだ。
「──へぇ、大変だったねぇ」
男はさも心配するかのように低い声でそう言うと、濁ったウィスキーを彼女の前に差し出して親切そうに笑ってみせた。
「どうだ、これを飲んでみろよ。これは毒薬入りのウィスキーだ、飲んだらサクッと死ねるだろうぜ。きっと痛みもないはずだから」
女は喉から声にもならない何かを呻いて、そのウィスキーを口へと流し込んだ。
時間にして、おおよそ15分程度であろうか。ジャズ音楽が流れる店内には静寂にも似た澱んだ空気が流れ、それを誰も換気もせずに吸っては吐いてを繰り返すのみ。
薄れていく女の意識に写っていたのはニタニタ笑う男とバーテンだった。
「なぁ、この女は今から死ぬんだ」
下品なふうに男はそう言う。
「ええ、そのようですね」
無感情にバーテンは頷く。
「俺が死ぬのは一旦辞めにした。何せ都合の良いオモチャが、あっちから転がり込んできやがったからさ」
「オモチャ、ですか。私はあまり趣味ではありません。それよりもこの方が咲かせる花は一体どんな色をしているのか。私にとってはその方がずっと、興味を惹かれる対象になります」
「まぁ、見てなって。邪魔したら、あんたも家族の元へ送ってやるからな」
がばっと女を床に引きずり倒し、男は隆起した股間を隠そうともせずに女の上へ覆い被さった。
興奮した吐息が店内に充満し、その臭さと言ったら、鼻が曲がるほどの悪臭である。
ドブ色の毒を飲み干した女を更に重ねて殺し尽くすように、男は女の服を千切っては剥ぎ取っていった。
「ハハハ、この女も馬鹿だよなぁ。女なんだから、体を売り続けてりゃ生活にも困らなかっただろうに。だから、こいつが死ぬより先に俺がこいつの心を殺してやるのさ」
バーテンは男の背中をじっと見ながら、それでもグラスに写る自分の顔が気になるようで壊れた機械のように布巾を滑らせた。
「ああ、花がまた咲くのですね」
バーテンの言葉など、もう男は聞いていなかった。
「俺は仕事もないっていうのに、偉そうなガキにこき使われてるってのに、こんな女が死のうだなんて、俺の苦労とてんで釣り合ってねえだろうが」
もしも、この場に第三者がいて、正義の心に燃えていたのなら、きっと彼も女を襲いはしなかっただろう。けれども、ここに良心はなく、醜いものしか存在しない。
だからこれこそ、地獄の有様。
女の乳房がまろびでて、それに渾身の握力が加わろうとした時だ。男は口から血を吐き出して、女の体を真っ赤に染めた。
「……ハァ……ハァ、なんだ、これは──」
流血は、決して止まることはない。何故なら、そういう毒を彼が飲み干していたからだ。
男はバーテンの方を睨むと、握り拳を振り上げる。
「カウンターがあるので殴れませんよ」
言葉の通り、男はカウンターへ腰から激突した。痛みはすぐに顔の紅潮で現れ、それからすぐに真っ青になる。
「困るのですよ、あなたのような人は特に」
もうすでに男は身体が動かない、動くはずの筋肉も曲がるはずの関節も一切合切反応しない。
バーテンは動かなくなった男へ近づき、つまらなそうに何かを呟く。距離はどんどん近づくというのに、バーテンの言葉は男の耳に届きはしない。
毒で麻痺したせいなのか、それこそ酔っているせいであるのか。
もう、彼自身にすらわかりはしなかった。
「あなたの花も見たかったのですが」
どこからか取り出された荒縄が男の首に巻かれた。
「やぁ、起きましたか」
バーテンが女へ声をかける。女は自分の身体を起こすと、身につけた服装が変わっていることに気づいて甲高い恥を帯びた声を上げた。
「誓って何もしていませんよ。あなたはあの後、嘔吐して服を汚して倒れ伏したのです。とはいえ、そんなふうに恥らえるのはあなたの心が残っている証拠であるでしょう」
女はバーテンの言ってることをよくは理解していなかったが、それでも、どうもと頭を下げた。
「死んだ妻の服で申し訳ありませんが、どうぞ、そのままお持ちください」
時計を見れば、朝六時。すでに日光が顔を出している。スズメは鳴いて、風は爽やか。
外に一歩でも出てみたとすれば、誰であろうと自殺なんて思いつかない澄んだ青空があるのみである。
女はふらふら、バーの扉へ向かう。
彼女は明日死ぬかもしれない、けれども今日ではなかったようだ。
「ああ、お待ちを。また死にたくなったらここへ来てください。あなたの花が咲くところを見たいのです」
女は頷くでもなく視線を交わして、それから陽の光の中へと消えていった。
「あの人の花が楽しみだなあ」
バーテンはそういって葉巻をつけると、賄いのシチューをコトコト煮込んだ。
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