クラス一の美少女、藤村由美はひとつになりたがっている

エテンジオール

第1話

「あなたの匂いを嗅いで、あなたしかいないと思いました。どうか私とひとつになってください」


 どこか変態的な告白をされたのは、高校入学翌日の放課後の事だった。











 好きな教科を勉強したくて選んだ、その科目に力を入れている高校の入学式。それが終わってから、すぐ家でゲームをしていたせいで、寝不足だった2日目。新入生がみんな集まって、体育館で部活動の紹介を聞いていただけの一日の、あまりの眠さに仮眠を取った後。




 寝ていた僕の頭上で、空気を出し入れするような音が聞こえた。


 人が深呼吸するようなリズムで繰り返されるそれ。午前中だけで終わったはずなのに、既に南から西寄りに傾いている太陽。ソレ以外に、物音のしない教室。



 身の危険を感じるには十分すぎる現状だろう。そんなイタズラをしそうな知人がいるならともかく、友人の一人もいない僕にとっては、それはただ恐怖の対象でしかない。



 吸って、吐く。深呼吸が二つ。大きさや頭頂部のくすぐったい感覚からして、つむじの辺り。距離はほぼ無し。



 吸って、吐く。深呼吸が三つ。仮にイタズラだとしても、なかなか気色悪い距離だ。おおよそまともな人が取るようなものでは無いし、この学校に僕の知り合いはいない。どのような立ち位置の人にしても、出会って2日目の、しかも寝ている相手への凶行だ。



 吸って、吐く。深呼吸が五つ。人の臭気に興奮する質ではない僕からしても、これが異常なことであるのはわかる。少なくとも、この相手とは今後一年間お近付きになりたくないくらいだ。



 吸って、吐く。深呼吸が七つ。現状、恐怖は感じるけれど身の危険は感じないから、少し放置する。これをやめて去り際に姿を確認して、そこから可能な限り近付かないようにすればいい。



 吸って、吐く。深呼吸が十一。待つ。



 吸って、吐く。深呼吸が十三。まだ待つ。



 吸って、吐く。深呼吸が十七、十九、二十三。まだ終わらない。



 吸って、吐く。深呼吸が二十九、三十一、三十七。さすがに疲れる。そろそろ終わらせるべきかもしれない。



 吸って、吐く。深呼吸が四十一。どのようになったとしても、僕は被害者だ。それに、下の階の2年生や3年生は授業中なのだから、何かあったとしても叫べば人が来るだろう。



 吸って、吐く。深呼吸が四十三。次のタイミングでやめなければ、僕は頭を上げよう。ちょっと勢いをつけて、相手の顔面に軽く頭突きすれば、逃げる時間も稼げるだろう。



 吸って、吐く。深呼吸が四十七。体感的には5分近くこのままだ。まだ辞める気配がないので、僕は思いきって頭を上げつつ、相手が驚く程度の頭突きをして立ち上がる。ぐにゃっとした柔らかいものを潰す感覚と、硬い何かが当たる感触。





 顔を上げた先で鼻と口を抑えながら悶えていたのは、黒髪の少女。連鎖反応的に一つ前の机をひっくり返して大演奏している、口元を両手で覆った少女。


 昨日クラスメイトになったばかりの、藤村由美だった。




 ひっくり返って、後頭部を軽くぶつけて、ヴーヴー呻きながら丸くなる藤村さん。いつでも逃げることができるようにしながら、彼女の復活を待って、話しかける。



「あのさ、気の所為じゃなかったらだけど、僕の頭の匂い嗅いでたよね?」


 これに対して、ノーと答えたら逃げなくてはいけない。変態行為だけならまだ許容できても、それを誤魔化そうとするのであれば危険だ。



「えっと……それは、その……ね?嫌な気持ちにさせちゃったかもしれないけど、決して悪気があったわけじゃないの」



 ギリギリセーフ。まだ自分の間違いを認めているだけ、救いようのある変態だった。変態であることに変わりはなくても、まだ許容できる範囲の変態だった。


 えへへ、と、頬を赤らめながら笑うその様は、一見すればどこにでもいる乙女だろう。


 認識を改める。度し難い恐怖の対象から、ちょっとこじらせていて危ないヤツに。



「はぁ、それで、藤村さんは一体何をしていたの?」



「えっとね、そのね、なんていうか……」


 まごつく。自分の奇行を説明するのは難しいのだろうか?



「昨日、すれ違いざまにあなたの匂いを嗅いで、あなたしかいないと思いました。私とひとつになってください!!」



 意味不明な理由。辛うじて理解はできるものの、あまり素直に受け入れ難い。これが入学直後でなければ、間違いなくいたずらやいじめの類を疑うし、なんなら現在進行形で疑っている。



 ただ、いたずらの類にしては、頭の匂いを嗅いでいたことが、あまりにも理解不能だった。そのせいで、藤村さんが本気なんじゃないかとも思える。




 そして、一番気になるのは言い回しだ。“ひとつになってください”。好き、でもなく、付き合ってでもなく、友達になってでもなく。


 なにかの隠語なのだろうか、それとも、直接的なお誘いなのか。どちらにしても、顔を合わせて二回目の人に言う言葉ではないだろう。断って近寄らないでくれと言うのが間違いなく正しい。



 それでも、すぐに断ることが出来なかったのは、きっと彼女の目を見てしまったからだろう。


 少し明るめの焦げ茶。どこにでもいるような平凡な色だ。ただ、そこには僕がこれまで見た事がないほど強い意志が見えた。



 何が彼女をここまで追い立てるのか、僕にはわからない。理解ができない。けれど、その目の意志、何より、絶世とかの形容詞こそつかないものの十分すぎるほどかわいらしいその顔面偏差値に押し負けて、僕は思わず言ってしまった。



「……友達から、よろしくお願いします」



 井川和樹、異性経験無し、コミュ障。多少怪しくても、異性からアプローチをかけられたら好きになってしまうくらいには童貞だった。かと言ってすぐに手を出さない程度には貞操観念があった。










 そんな告白と返答から一週間。何事もなく、と言うより、大きな事件は起こらず時間は過ぎていった。


 あの日の後からずっと、やたら藤村さんの距離が近いことや、必要以上に付きまとってくること、そのせいで男子諸君との交流がなかなか上手くいかないことなど、細かい問題こそあれど、大した問題ではない。


 多少困ることも無くはないが、自分に好意を向けてくれている上に自分好みである異性に対して悪感情を向ける非モテコミュ障なんてのはそうそういない。





 それに、1ヶ月も経つ頃にはその問題も一部は解決した。


 ひとつは、藤村さんが以前ほど僕に付きまとわなくなったこと。単純に彼女自身も忙しくなってその時間が取れなかっただけであるが、少なくとも僕の主観的にはだいぶ落ち着いてきている。


 二つ目は、周囲が僕の話を受け入れてくれるようになったこと。おかげで、入学早々からクラスで1番かわいい女の子をコマしたいけ好かない野郎という認識から、入学早々から美少女に付きまとわれている羨ましい野郎という認識に落ち着いた。


 あいも変わらずある程度の嫉妬はあるものの、どちらかと言えば藤村さんのTPOを弁えない行為の示し方に対して同情的に捉える人も出てきた。おかげで多少とはいえ僕に対して好意的な男友達ができたわけだ。


 ただ、一つ問題もある。相手を知らないうちから付き合うなんて不誠実だという僕の考えに、最初こそ同意してくれていた彼らであったが、この一ヶ月間、一途に僕の気を引こうとしていた藤村さんの姿を見て、そちらに対しても不憫に思ったのだろう。少しづつ、僕に対して、いつになったら藤村さんの思いに答えるのかと急かすようになって行った。




 正直に言うと、僕自身としては藤村さんの気持ちに答えることに対しては、大した抵抗がない。藤村さんは僕好みの容姿をしているし、焦げ茶の目やそれよりも少し暗い髪色、ふわりと内側に巻いたボブと頭頂部のキューティクルは控えめに言っても性癖に刺さった。




 だから、僕は藤村さんにお付き合いを申し込んだ。



 自然な流れで近付いてきてすれ違いざまに匂いを嗅ぐような彼女ではあったが、何かにつけて近くまで寄ってきて、ほぼ密着しながら話すような彼女ではあったが、不思議と嫌いにはなれなかったし、マイナスの感情を抱くこともなかった。



 その事に恐怖や違和感を感じることなく、僕はその選択をした。


 無邪気な様子で喜ぶ彼女を見て、僕はそれを正しい形だと思ってしまった。警鐘を鳴らすかのように、背筋に走る悪寒に気付かないふりをしながら。













 結論から並べると、それからの日々は、かなり楽しいものだった。


 一緒にでかけて、一緒にお昼を食べて、映画を見て、レジャーを楽しんで。やたらとレア肉を好むことや、その量が僕の倍くらいであること、僕に汗をかかせ、それを持参したタオルで拭くことに執着することなんかを除けば普通のデートをする。


 たまにお互いの家に行って宿題や課題をやって、余った時間でおしゃべりしたり、ゲームをしたり、本を読んだり何もしなかったり。変に気負わずに一緒にいられるのが心地よく、定期的にドキドキさせてくれるのが心臓に悪かった。


 アピールが強かったり、所々言い回しがおかしかったり、部屋を見せてくれなかったりなど、変わっているところは多かったけれど、料理上手だったり、いつも笑顔でいてくれる事だったりのおかげで、そこまで気にならなかった。








 そんなある日、時間がいくらでもある夏休み。暑い気候の中で藤村さんが腕に組み付き、さらに暑く感じてしまった日のこと。普段であれば無駄に固い貞操観念で跳ね除けていた誘惑を、暑さで頭をやられたのかスルーしきれなかった時のこと。




「ひとつに……なろ?」


 普段は決して出さないような蕩けるような甘い声が鼓膜を震わせる。何度も聞いたはずのこの声は、背中に伝わる柔らかさもあって、僕には耐えきれないものになってしまっていた。


 衝動的に、体をひねって彼女を押し倒す。


 女の子座りのまま後ろに倒された体制、突然のことに困惑する表情、柔らかな肢体。


 どれも僕の下にあるもので、そのどれもまだ見るつもりのないものだった。


 責任を取れるようになるまで、彼女には一切触れるつもりがなかった。好きだったからこそ、触れられること自体は嬉しかったものの、自分から触れることはしないつもりだった。


 行為に至る時は、彼女と話し合ってからするつもりだった。彼女にとって抵抗がないのを確認してから自分のペースとも相談して、問題のない環境になってからようやく 彼女に手を出そうと思っていた。


 その一切を拭い去って僕は彼女を求めてしまった。理性的な判断ができるはずの人間でありながら、あふれ出る獣性に任せて非合理を積みながら、彼女を求めてしまった。



「あぁ。いいよ。」





 その行動が、その言葉が全てを分けたのだろう。そんなことをしたことで彼女からの僕に対する認識が変わってしまったのだろう。











 ひとつになろうに対する、僕の返答の得てからの彼女は早かった。くるり、と、僕らの位置関係が入れ替わる。僕が彼女を押し倒していたはずなのに、気がついたら彼女が僕の上にいる。



「やっぱり、 かずくんすごくいい匂い。すっごく、すっごく、おいしそう」


 その言葉に、状況に対して僕はまだ理解が届いていなかった。ただ僕の上にまたがって、動けないように肩を押さえつけて、爛々と光る眼差しを称えながら唾液を垂らされるに身を任せていた。



「かずくん、とってもおいしそう。かすくんのこと、たべてもいい?」



 脳みそまで下半身に支配された僕は、彼女のその言葉を下の意味、下ネタだと勝手に解釈して、いいと伝えてしまう。成人するまでは清い関係を保っていたいと思いながら、その言葉にさからえずに是と返してしまう。


 ヌルッとした感触、ザラリとした感覚を、右耳が捉えた。舌先のツルツルした感覚と、その奥の味蕾が奏でるザラザラ感。




 初めての感覚に、背筋にゾワゾワとした快感が登る。ともすればそれだけで絶頂に至ってしまえそうな快感が僕の脳を支配する。







 けれど、その直後に感じたものは、全身を貫く痛み。右耳の軟骨を食い破り、皮膚の繊維を食い千切り、全身を支配する劈くような痛み。


 耳の上の出っ張った部分を、鋭い犬歯が貫く。貫いたまま、引きちぎる。




 ブチブチという音。もう二度とまともに集音機能を果たせなくなった耳が一番最初に伝えた音を聞いて、さすがの僕も自身の上に被さる少女を疑うしか無かった。



 ゴリ、ゴリ、と音を立てて、彼女は何かを咀嚼する。それは、僕が目の前の全てを疑うには十分すぎたもの。愛した相手が自身の理解の外側にいると察するには十分すぎたもの。



 固くて柔らかいものを咀嚼した彼女は、それを当然のように飲み込んだ彼女は、その口元を真っ赤に染めあげて、笑う。



「えへへ、やっぱり、美味しいや。これまで食べてきた何より、これまで食べてきた誰より、いっちばん美味しいや」


 そう言いながら笑う彼女の顔を前に、僕の意識は遠のく。自分の理解出来る範囲を超えたせいだろうか、はたまた痛みのキャパシティを超えたせいだろうか。理由はさておき、僕の意識は次第に黒く染って行った。何も考えられない無へと落ちていった。













 気付いた時、僕がいたのは真っ暗な部屋の、柔らかな床の上だった。素肌に伝う感覚から推測すれば、おそらくはベッドの上。身動ぎした時にギシギシと僅かながら軋んだ音を立てたことから、まず間違いないだろう。

 ソファの上というのも考えられなくはないが、両手両足に拘束具をつけた状態でソファにとどめる可能性を考えれば、その可能性はそれほど高くはない。



 視覚的な情報は、一切ないと言っていいだろう。真っ暗で、しばらく目を開けていたにもかかわらずものの輪郭すらわからない。耳鳴りしか聞こえない聴覚情報も然り、何も入っていない味覚情報も然り。


 わずかなりとも役に立つものとしてほ、嗅覚だろうか。なにかの花のような、優しい香り。


 藤村さんからいつも漂っていた香りだった。直前の記憶も含めて、犯人を推測するには十分すぎるほどの材料だった。




 ここから出せ、とか、早く解放しろ、とか、在り来りな文句を言ったり、サボって休んでいたりしながら、犯人の到着を待つ。これまで創作物で経験してきたパターンからすると、ターゲットが目覚めて直ぐにアクションを取らない監禁者はだいたい詰めが甘い。専業的に監禁できないこともあるのだろうが、自分の管理しきれていない隙に脱獄されたりしている。




 とはいえ、目の前に待機していない藤村さんだが、以前デート中にそんな話をしていたからか、僕か大きく動くことが出来ないように両手両足にしっかりと手枷足枷をつけてくれている。体を動かす度にジャラジャラと豪華な音響が聞こえるのは悪くないが、それでもやはりどうにかしたいものだ。




 色々と身動ぎしながら考え事をしていると、定期的に右耳が腕に当たる。感覚を得たところが耳の先端出ないことにショックを得つつも、ザラリとした感覚とその度に痛む断面に顔を歪めながら、藤村さんがやってくるのを待つ。





 5から6時間たった頃だろうか、室内に明かりが灯り、それと同時に僕の頭上の一部が開いてそこから少女が現れる。最初は目の前の彼女に対して文句を言おうと思っていたが、そのあまりにも幸せそうな様子を見て、僕は何も言うことが出来なくなってしまった。




 一緒に遊んだ時より、始めて好きだと言った時より、手を繋いで、道を歩いて、初めて口付けを交わした直後より、今の彼女は幸せそうに見えた。


 なんだかんだで彼女のことを好きになってしまっていた僕では、それに対してどうすることも出来ないまま、失われた耳を嬲られる。



 感じるのは痛み。そして、わずか快感と、優越感。



 学校で1番とは言わない。テレビにいるようなとも言えない。街を歩けば誰もが振り向く、なんて言葉も、当てはまらない。


 けれども、藤村さんは間違いなく美少女だった。クラスメイトの2割くらいから好意を寄せられるような、なんだかんだで色々な人から知られ、好意を寄せられるような、年に数回は告白されるような美少女だ。


 そんな彼女が、自分だけを見てくれている。非モテ男子としては、それは十分すぎるほど優越感をくすぐるものだ。それがまともなものでなかったとしても、ついつい嬉しく思ってしまえる程のものだ。



「かずくん、もう起きたんだね。もう少し寝てると思ったんだけど、私が思ってたよりもずっと頑丈なのかな?」



 背筋をゾワゾワとした悪寒が駆け抜ける。それと共に、ゾクゾクとした背徳感が駆け抜ける。耳を舐り、そのまま舌を絡めとったその感覚は、恐怖であると共に僕にとっては福音だった。




 かつて、これほど僕を求めてくれた人がいただろうか。この先、こんなにも僕を愛してくれる人が現れるだろうか。


 間違いなく、一番求めてくれたのは彼女だった。それがたとえ食材としてだったとしても、僕を欲してくれたのは彼女だった。


 こんな僕に、彼女がかけてくれた時間は、思いは、愛情は、これまで受けてきたどんなものよりも大きかった。自分の人生最後の瞬間を見とる相手として不足ないほど、素敵なものだった。





 だから、僕はそれを受け入れる。どことなく気まずそうで、懺悔をするかのように告げるそれを、迷うことなく受け止められる。







「ごめんね、ずっと、ずっとあなたの体だけが目当てだったの。あなたのことを食べたくて、あなたに溺れたかっただけなの」



「ご飯を作ったのは、健康なあなたを食べたかったから。汗を拭いたのは、あなたの体液を味わって少しでも我慢したかったから」




 それを、悪いことのように彼女は言う。それを悪い事だと、一般的な観点から見て許されないことだと認識しながら、それでも彼女は動き続ける。



 瞳孔を開いて、定まらない焦点で、肩口に顔をうずめる。その直後に右肩に感じる痛み。


 噛まれていた。生ぬるい吐息がかかる。粘性の高い液体が伝う。圧迫されていた痛みが、異物が入り込んだ痛みに変わる。痛みに背けていた目を向けると、肩口が赤くなっていた。



 やめて欲しいと思うよりも先に、その顎の強さに感心する。そもそも生の肉を食いちぎることに向いていない人間の歯で、皮膚を破るほど強く噛んだのだから大したものだ。日頃からよく肉を食べていたから強くなったのだろうか。少なくとも僕は、同じことができる気がしない。




 背筋がゾワゾワする。生存本能が警笛を鳴らす。



 けれども不思議と、抗おうという気持ちはなくなっていた。



 逃げなきゃいけない。そうじゃなきゃ殺されてしまう。



 わかっている。けれど、どうしてか僕の中から忌避感は消えていた。




 彼女が求めるのなら、僕にできることはそれに答えることだけだ。それが当たり前であると、心が訴える。体からの警告を無視して、僕はそれを是とした。




「……いいよ、食べても」



 出せたのは、そんな言葉。


 いくら心が受け入れていても、体はそうではない。現に、止むことなく脳に届く痛みのせいで、呼吸は乱れる。言葉も、つっかえつっかえだ。


 けれども、気持ちだけは受け入れた。彼女に食われることが、僕の最後なのだと、認めた。




 今、多少なりとも悔いが残ることがあるならば、一度も彼女のことを抱きしめることが出来なかったことだろう。僕のことを食材として愛でて、誰よりも僕のことを思ってくれた彼女のことを、一度も抱擁できなかったことだろう。


 機会だけはいくらでもあった。僕が躊躇わなければま、いくらでもできた。無意識の間に、変わらないと、いつでも出来ると思っていたものは、気がついたらできないものになっていた。






 彼女に、最後に一言だけ、ありがとうを伝えたかった。こんな僕を求めてくれてありがとうと言いたかった。

 彼女のことを1度だけでいいから抱きしめたかった。僕から手を出そうとするまでずっと、僕に幸せな夢を見させてくれていた彼女を、一度だけでも抱きしめたかった。



 彼女がそれを求めるかはわからない。今の状況が一番だと言うのかもしれない。それでもそれをしたくて、でも出来なくて。それが僕にふさわしい終わりだった。何も為さずに浪費を重ねた僕の終わりだった。










 少しだけ、肩の痛みが弱くなった気がした。

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