シロツメクサの咲く頃に
よしの(旧ヒナミトオリ)
第1話
アビゲイルはひどく冷静であった。否、驚き慌て号哭することすらできない絶望の底に叩き落されたのだ。
彼女の目に映るものは、惨劇。もしくは地獄。赤褐色に変化しつつある、鉄の匂いを漂わせる赤い液体。テカテカと光る脂。子どもたちであったであろう肉塊。美しく鮮やかであった教会であったそこは、ステンドグラスの極彩色の代わりに鉄の匂いの赤、小さな頭蓋骨からこぼれてしまったピンクで彩られた。輝く燭台の代わりに伸び切ったはらわたで飾られていた。
惨劇による絶望はアビゲイルの脳をショートさせるには十分すぎた。脳は思考を遮り、体が硬直する反面、糸の切れた人形のように倒れこみそうになり、立っているのがやっと、という均衡状態にある。
「あ、あああっ!」
やっと出せた声は不明瞭で、なんの意味も持たなかった。目が、目が彼女を責め立てる。死んで、もう彼らはその感情すら発露できないことは理解できていた。しかしながら彼らの濁った瞳は、アビゲイルから視線を外さない。同時にアビゲイルも目を閉じて逃避することができなかった。
「ひどい。私たちはこんなに痛かったのに、姉ちゃんは免れた。」
幼い声が、小さな唇からこぼれたような気がした。アビゲイルは、ぴちゃと音を立たせて後ずさる。いっそ、一緒に死んでいればよかったのかもしれない。一人買い物に出かけていたから、免れただけなのか。
持っていた買い物袋をより強く抱きしめた。少しぜいたくな小さな白いパンが、反動で飛び出し、ぽと、と赤い液体の上に落ちた。パンが血を吸って白から赤に変わっていくのをただ眺めるしかできなかった。
「アビゲイル!」
がっと肩をつかまれる。音につられて顔を音のした方向に向けると、見知った顔があった。動揺から醒めていくのがわかった。
「あれ?ポールじゃない。何しにきたの」
詰るように、声に怒気が入ってしまう。でも仕方ないだろう。孤児院出身で、こいつはこの領の兵で、有事の時以外は治安維持の役割をも担っているのに、この惨状を見過ごしてしまったのだから。自身が八つ当たりをしている自覚はあった。それに私だって同罪なのだ。
ポールは気圧されることもなく、アビゲイルを落ち着かせるように抱擁する。心地よい他人の熱がじんわりと移ってきた。
「すまない」
「謝らないで。許さないから」
「許されるとは思ってないよ」
心底、懺悔するように、かみしめるように許しを求めないのだ、というように絞りだされた声が耳元で出されてアビゲイルの鼓膜を揺らす。アビゲイルは嘆息した。
「いいよ。いつからいた?」
「アビゲイルが教会に帰ってくる前にいたよ」
「やだ。私あなたのこと気づかなった」
「ひどいな」
そこで、抱擁の形を解かれてぬくもりが遠ざかる。一抹の寂寥感が心に波紋を描いた。
「俺は、一度、城に戻って報告する。お前は落ち着け」
「そうだね。確かに。みんなかくれんぼ得意だもの」
そうだ。どう考えても、血だまりの量も何もかもが孤児院全員の分じゃない。アビゲイルが正気に戻ったのを確認するとポールは教会を立ち去る。
「ごめんなさい」
そして、子達が自身を責めるように見えたことを子達に謝った。自身が痛いから、他の子が同じように痛むことを喜ぶような子達じゃない。みんな、やさしくって、心が温かいそんないい家族だったのだ。そんな、何の罪もない子達が道楽で殺されたのだ。貴族の道楽じみた戦争の、副作用によって。
アビゲイルの生きる世界では、戦争が多かった。長期間の戦争のさなかであったと言うべきであろう。なぜなら、王族同士の領土の小競り合いがあったからだ。アビゲイルの住むのはグラン王国のフリュール領である。この国は豊穣の国、小麦の国と呼ばれている陸の大国。戦争にて対するは、妖精の国と呼ばれるシー王国。この土地はひどく痩せている島国である。アビゲイルが聞いた話では「シーの王がグランの肥えた土地を奪うために戦争を仕掛けてきた」というものであった。
その大義名分が正確であれ、誤りであれ、戦争において血を見るのは平民であり、貴族が死ぬことがない。戦争の中で最も厄介だったのが傭兵団であった。戦闘がない時には国から解雇されてその日暮らしで略奪行為を行うのが常であった。この領地にいる傭兵はそのようなことを行わないが、他領のものならあり得る。アビゲイルは、そのもの達の仕業であると確信した。
孤児院は教会の奥に位置し、簡単には侵入できないつくりになっている。というのも、そもそも人権のない平民の中でも孤児は特にないがしろにされる。領主のお膝元の町で、するものは少ないが、強姦や誘拐などをされても庇護してくれる人がいない。つまりは自己防衛が必須なのだ。
教会から孤児院に行く廊下はいつものような人気はなく、建物が死んだようだった。いつもなら子どもたちが走りまわる孤児院の中をくまなく探せど、人の気配は見えず、急に寒く感じられた。もう誰もいないなんてことがあるのだろうか。
教会の奥の孤児院の地下に食料保管庫がある。もしかしたら、そこに隠れてやり過ごしたかもしれない。
きっと生きているという希望的観測が心を占めているが一方では、一人でもいい。生きていてくれ。お願い。神がいるのだと言うのなら、私を憐れむのなら、誰でもいい。もういっそ悪魔でもいい。家族を返してくれ。という嘆願を心の内では垂れ流していた。
そのような念が届いたのか、食料保管庫には孤児院の中でも殊に小さな子達とアビゲイルの一つ下のエリーがいた。ざっと20人前後くらいだろうか。子達は状況が理解できていないのに、感じ取ってはいたのだろうか。アビゲイルが食料保管庫に降りた時も何の音もたてずにじっとしていた。
「ああ、よかった。生きていたんだ」
ふらりと、子達に覆いかぶさるように抱きつく。よかった。よかった。本当に。アビゲイルの腕の中ではもごもごと抗議の声を発していた。
「アビー。もうその辺で」
「ああ、ごめんね。ステラ、エイダン、ジャクソン」
「アビー泣いてる。なんで?アビー泣かないで。ステラも悲しくちゃうの」
3つのステラに指摘されて初めて、自身が涙を流していたことに気づいた。
「ううん、ステラ。私はね、悲しくて泣いているんじゃないの。みんなにまた会えてうれしいの」
「そう、なの?アビーがうれしいならステラもうれしい」
きょとんとした後に、ステラは花がほころぶように笑う。エリーがアビゲイルとステラのやり取りをまぶしそうなものを見るかのような瞳をしていた。私もステラをまぶしそうに見ているのだろう。
「アビー。ちょっと」
エリーは抱いていた赤子を近くの子に渡して、先ほどの顔とは打って変わって緊張したような顔をしてアビゲイルにささやいた。
「うん。上に行こう」
「教えてくれる?何があった?なんでこんなことに?」
問われたエリーはきゅっと瞼を一度強く閉じ、目を開けるとそこには意を決した表情があった。
「ええ」
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