魔法少女の夜はふけて、

五芒星

1. 鳴り響く音

音を聞く。

音を聞く。①

 “死”が跳ねた。跳ねてそのまま格子へ落ちた。


 死に、意味はない。なにを為そうが、なにを救おうが、その瞬間に人生の価値は0に固定される。残された者には深い傷が残り、死んだ側はもうなにかを感じることもない。

 故に、意味も、価値も、死には存在しない。


 ──目の前で“死”が跳ねた。しばらく跳ねて動かなくなった。


 ◇


 風が、花束を軽く揺らしていた。並ぶ墓石は生の証。かつて、確かに生きていた人が眠る。眠っているはずの墓地。少女は、その眠りを信じたことが無かった。


「……」


 音無 空音おとなし そらねは墓の前に花を一輪備えると、立ち上がる。風は冷たく、執拗に頬を叩いていた。

 墓参りの回数など、数えたことはない。少なくともそんな行為が意味を失くすほどに繰り返したことだけが確かな認識としてあった。だけども言うべきことは何も思いつかない。今までも、今回も、そして多分これからも。


「また来るね、お父さん」


 ここに来る意味などない。父親がいない生活などもう慣れ切ってしまったし、なによりも、もう悲しくない。それでもこの場所に訪れるのは“死者に祈りが届いている”という共有幻覚に縋りたい心理からなのだろうか。


 ……嫌だな。まるで、死を肯定してるみたいじゃないか


 ◇


 教室というのは、放課後とそれ以前で人口密度が大きく異なる。チャイムと号令一つで人の流れは外へ──つまり部活か、もしくは帰路へ向かうからだ。後に残るのは行動の遅い者か、雑談に興じる者か。空音は前者だった。


「……ふぅ」


 そっと、耳栓を外す。途端に遮断されていた外界からの音が耳を打った。

 窓の外の木々のざわめき、教室の反対側で行われている井戸端会議の内容、校庭で生徒を叱責する顧問の声。

 顔をしかめた空音は素早く鞄から取り出したヘッドフォンでもって、自身の耳を覆った。


 途端、世界の音はすべて彼方へ飛び消えてしまう。どぎついまでの強声も、五月蠅いくらいの鬱声も、すべてが平等に。

 ――音の死だ。空音はぼんやりとそんなことを思った。


「……」


 音とは凶器他ならない。少なくとも空音にとってはそれが事実だった。痛いくらいに頭の中で跳ねまわる音を防ぐ手段は、直接耳を塞ぐか耳栓で軽減するかくらいのもので。

 それで精一杯で、それ以上進まず、戻らず、変わらず痛みはそこにあった。


 端末を操作すればヘッドホンからの甘美な音楽が耳を満たし、雑音の刃から守ってくれる。種類は問わない。適当なクラシックを流すこともあれば、雨の音とった環境音を流すこともあった。ただ、静かであればよかったのだ。

 本当は四六時中ヘッドフォンを身に着けていたい。耳栓は負担が大きいし、不快感も強いからだ。かといって、世間体と校則がそれを許さない。

 

 自分一人となった教室をざっとひと眺めしてから、空音はカバンを肩に掛けた。


 教室から出て、階段を降り、昇降口に着けばあとは家までの帰り道だ。空音は部活動には入っておらず、帰路は大体一人になる。入学当初は行動を共にしていた幼馴染もクラス分けで別れたことや、本人の用事などで段々と一緒にいる機会は減っているのが現状だ。ときおりハイテンションなメッセージが飛んでくるのでそれが唯一の関わりだろうか。

 幸い空音は一人を苦にする性格ではない。それを良いことだと思うかは人によって違うだろう。


 昇降口は人でごった返していた。珍しいこともあるものだと空音が靴を履き、外に出ると──人だかりの中心には、倒れている教師が。


「なに、腹痛?」

「どうする? 先生呼ぶ?」

「えー、お前が行って来いよ」


 周囲の生徒の反応は完全に二つに分かれていた。見ない振りをしてそのまま家路に着く者。反応はするものの、ひそひそと意味のない会話をくりかえす者。


 恐らくあの教師に人が駆け寄るのはもうしばらく経った後だろう。空音は目をそらし、前者のグループに帰属しようとして――


「……」


 昨日、父親の墓参りに行ったからだろうか。空音の思考の中に一つ、濁りが混じった。それは透明な水に垂らされた絵の具のようにみるみる占める面積を増していく。


「う……ぁ……」


 教師のうめき声、ぎりぎりという音が聞こえるほどに自身の腹を押さえつけながら、教師は床でもがく。

 空音の目線が野次馬たちと悶える教師を交互に移動する。今ここで手伝いを求めたところで、この群衆たちが素直に手助けしてくれるなどあり得ない。今ここで一歩踏み出したとしても――


 時間はただ、なんの感情も見せずに過ぎ去っていく。そして濁りが迷いとなり、迷いが花をつけ始めたころ、異変が――起きた。


「ふ――ぐッ……」


 教師がのけぞると、その口から黄色の粘液が飛散る。野次馬たちはそれから急いで飛びのくと、醜悪なものを見る目のままそっとその場を退いていく。


 サイレンが空間を割った。誰が呼んだのか救急車のサイレン音と赤青のランプが昇降口の中に差し込む。遅れて救急隊員が教師へ駆け寄ると、そこでようやく残りの野次馬も蜘蛛の子を散らすように散開していく。昇降口内には喧騒が戻りつつあった――教師の背中が盛り上がるまでは。


「――」


 取り戻しつつある喧騒が再びその勢いを落とす。救急隊員も困惑の眼差しで、背中の盛り上がりが更に膨らむ教師を――



 ――救急隊員の首が、宙を舞った。



 静寂から喧騒へ、そして喧騒から――混乱と恐怖の叫び声へ。はね飛ばされた首は血で空中に軌跡を描きながらくるくると回り、一人の生徒の背中に命中。その生徒は泣き叫んで躓きながら逃げていく。

 救急隊員の首をはねた触手は、教師の背中で満足げに踊る。と、更に教師の背中が裂け、続いて五本の同じような触手が姿を現した。


「――」


 恐怖に駆られた生徒たちが一斉に逃げ始める。しかし、空音はなぜか動けなかった。自身の足の震えを自覚して初めてその理由が恐怖であることに気が付いた。


 触手に囲まれた中央部から巨大な眼球が姿を現したことも、眼球がぎょろり、と機械じみた動作でこちらを向いたことも、教師の身体の下から追加の触手六本が足のように展開されたことも、すべて現実ではないかのような感覚だった。下駄箱を蹴散らしながら教師――いや、化け物が眼前まで迫って――そこで初めて、認識が、追いつく。


 自覚した瞬間に、足はすんなりと硬直から解放された。けれど、それに感謝する暇なんてものはなく、"走らなくては" という言葉のみが、恐怖にいくらか味付けがされたそれがまとわりついていた。


「――」


 廊下には既に生徒は残っていない。おおかた別の出口から逃げてしまったのだろう。


「他のっ、出口――」


 一心不乱に空音が逃げた先、いつのまにかたどり着いていたのは二階、出口からはむしろ――


「遠ざかって……るっ」


 息が上がり、心臓が、全身の筋肉が早鐘と警告音を吐き出す中、彼女は背後を振り返った。そこには、なにもなかった。化け物も、逃げる生徒も、なにも。


 ――怖いくらい静かな廊下で、空音は一人立ち止まった。安心よりも先に芽生えたのは納得だった。そうだ、さっきのはひどい思い込みか、幻覚だったに違いない。だってあんなものが現実にいるはずないもの。


 現実に――


「……ぁ」


 ――現実にいるはずのないものが、床を突き破って現れた。


 足が足の役割を放棄し、空音はへたり込む。廊下の左右上下に突き刺した触手で自身を固定した眼球の化け物は空音の姿をその瞳に映した。ぷらんと垂れさがるのは干からびた教師の身体――もう、命はあるまい。


 悲鳴はでなかった。代わりに諦めが実り始めていた。もうじき秋の稲穂のように頭を垂れる――


 ――死に、なんの価値もない。


 ふと、その言葉が頭をよぎった。なぜかも分からなければ決断にも満たない。


 触手が空音の腕を掠める。わずかな痛みと出血。眼球は自身の触手に付いた血液をまじまじと見つめる。まるでなにかを確かめるかのように。


 死に、価値などない。マイナスでも、プラスでもなく、“無い”のだ。


 ざわざわという音が聞こえた。それは外で街路樹が葉を揺らす音だった。

 どくどくという音が聞こえた。それは自身の心臓の鼓動だった。

 ねちゃりという音が聞こえた。それは目の前のおぞましい眼球がわずかに動く音だった。


 ――なら私は、死にたくない。名誉の死も、不明な死も。啓蒙たる死も惜しまれる死だろうと死は死だ。変わりはしない。すべて皆、平等に――


 ――死ぬなんて、ごめんだ。


 どんどん鋭くなっていく。加速していく。風、誰かの声、鼓動……鼓動は目の前から、目の前の化け物のその奥底から。


「……心臓」


 口からついて出た空音の声に眼球が反応した。しかし――既に、遅かった。


 カチリ、なにか決定的な音が鳴った。それは解除にして開錠、覚醒にして活性。音は渦巻き形となりて、意思は閃き力と変わる。

 周囲の空間に彼女を中心として波紋が生まれた。そして――光が、光の帯が。


 ◇


 変わる。変わる。変わっていく。違う、これは──気づいたんだ。

 音とは、世界だった。よくよく見れば、いや、、世界のすべては音の産物だった。

 木の葉の一枚を極限まで拡大したとき、そこにあるのは紛れもない生命という名の旋律で、人を動かす運命とはつまり歯車と歯車がかみ合う際に生じる軋みの名前だった。

 そうして、理解が追いつかないまま、ただ意思の足だけがその認識に追いついた。


 ゆっくりと立ち上がった空音には、今自分がどういう状態にあるのか決して分からない。眼球の中の光輪も、周囲で瞬きぱちぱちと音を立てる星々も、空音の理解が及ぶ認識の形をとってはくれないのだ。


 その様子をじっと観察していた眼球が動いた。触手をスプリントの要領で伸縮させ、空音への跳躍。


「――」


 が、僅かに空音が身体を逸らせば化け物の巨体はいともたやすくその横をすり抜けていく。スローモーションで流れゆく時の中、空音は壁に向け飛ぶ化け物のほうを振り返った。


 手は、意識せずとも勝手に動いた。右手は前へ、親指と中指を合わせ、そして――

 パチン、指を鳴らす。空間に音の波紋が広がっていくのが、空には確かに感じられた。


 波紋は眼球を飲み込む。“音”と“音”の間にその肉を挟み、抉り、回転させ、千切る。神経を絶ち、細胞をかき混ぜ、その意識と本能が闇に飲み込まれるまで──


 破裂した肉と血が廊下を叩く音、それが雨音のように響き続けていた。群青の衣装を赤に濡らし、空音はただ茫然と、ぐらぐら回る視界の中で、一人、


意識を手放し──


 ◇


 ちょうちょが、倒れた空音の身体に止まった。リボンでもって形作られたそれは三対の脚をせわしなく動かし、彼女の傷を縫い塞いでいく。

 続いて一匹、もう一匹。


 コツン、と。廊下の床を叩いたのは学校指定の靴だった。


「……空音?」


 少女は、自身の手に止まるちょうちょから目を離すと、倒れる空音の元へ駆け寄る。


「え、空音じゃん。なんで?」

『彼女が、魔法少女よ』


 インカムの向こうから聞こえてきた声に、少女は目を見開いた。


「なにその偶然っ……え、ほんとに?」

『波紋反応、残滓、状況。すべてがその証拠よ。……桜空さくら、この娘ってあなたの──』


 思案するように少女は一瞬虚空を見上げた。

 状況としては最悪。いや、逆に──


「ポジティブに考えることにしよっかな……ちょっと無理そうだけど」

『……事後処理班がもうすぐ到着するわ。桜空、彼女の回収を』


 それだけ言い、通信は切れる。桜空と呼ばれた少女はしゃがみこむと、空音の髪をそっとはらった。


「……なーんの因果なんだろうね、これ」


 縫合を終えた蝶は、静かに飛び立った。

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