第戦話 妹ハッピーバレンタイン!2022
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本編と番外編の設定の違いは、作者の近況ノート『『妹ハッピーエンド!』 最新話更新の再告知(第一章 第五話)&???なお知らせ』の
祝 1 也
バレンタインデー。
女の子が意中の相手にチョコレートをあげる日で。
彼女が彼氏にチョコレートをあげる日で。
妹奈がぼくにチョコレートをくれる日で。
火殿 妹奈が笹久世 祝也にチョコレートをくれる日だ。
以上。
…………。
……え?
何この雰囲気。
何この、「それだけ?」みたいな雰囲気。
いつものように、今回はバレンタインデーについて、あれこれくだらない
いやいや。
そんなもん、必要ないだろう。
何せ今日は、自分の彼女から愛情のこもったチョコレートが貰える日なのだ、それ以外何を語る必要があるのか ――― いや、ない。
まあ、良いんだけれどね? バレンタインデーは、キリスト教の司祭であったバレンティヌスが、当時のローマ帝国の皇帝、クラウディウス二世の怒りを買い、処刑された日が元となっており、そういう時代の背景に鑑みたら、おちおちカップル同士でイチャイチャしている場合じゃないよね、とか、日本のバレンタインデーでチョコレートを贈る風潮になったのは、売り上げに伸び悩んだ製菓業界による販促企画が起源で、ぼくたちはそんな製菓業界のお歴々に毎年毎年踊らされているだけなんだよ、とかそんな話を始めても良いんだけれど、と言うか事実、いつものぼくだったら、絶対にそんな話をつらつらと書き連ねていたに違いないのだけれど。
「明日は、とびっきりの手作りチョコレートを贈るから、期待しててね、祝也!」
自分の彼女から、こんな電話を前日の晩に貰ってしまっては、ねえ?
もう何の議論もする気、無くなっちゃいますよ。
だから決して、前話の前置きが、番外編のくせに、普通に長かったからそれを反省して、今回の話では、早々に本題に入ろうとしているわけではない。
まあでも、番外編くらい、ササっと読みたいよな。
全体を通した結果だけ言えば、前話の新年会、ならぬ新年回より文字数増えてるけどね。
プルルル ―――
と、彼女からのご褒美が確定しているバレンタインデー当日の早朝から、優越感に浸りまくって、語り部の長さは反省するのに、全体の文量とメタ発言の多様については反省しないでいるぼくのもとに、まさにその彼女 ――― 火殿 妹奈から電話が来た。
「もしもし妹奈さんかい、はっはー、唐突だけどぼくは今、最高に気分が良いんだ、もうホント、今この世の誰よりも幸せな気分だと言っても過言ではないぜ。いつもありがとな、妹奈、愛して ―――」
「別れよ、わたしたち」
「るぜ……、え?」
今なんて?
「いつもくだらない話しかしない祝也、ううん、笹久世くんには、もう疲れました、うんざりです。別れましょう、と言っています」
「え……、そんな、何でまた急にそんなこと言うんだよ」
わからない。
わからないわからないわからない。
聞こえていないわけじゃない、聞こえた上で何を言っているのかがわからないのだ。
「だって妹奈……、妹奈はそんなぼくが好きって言ってくれたじゃないか! ぼくがくだらない話をして、妹奈がそれに茶々を入れる、そのやり取りを何よりも楽しいと思ってくれたから、お前はあの時ぼくに告白してくれたんじゃなかったのかよ!」
「そんなことを言った覚えはありません」
……おいおいおいおいおい。
こんなこと、あり得るのかよ⁉
バレンタインデー前日の晩に彼女から、チョコレートを贈る約束をして貰った翌日、つまり当日に別れ話を告げられるって!
あれか? リア充オーラ全開で浮かれまくってたから、それを妬んだ非リア充どもから天罰が下ったのか? それとも、番外編での目に余る奔放さ
いずれにしても、頭に雷が落ちた並の衝撃を受けていることには変わりがない。
「なんでだよぉ……、ずびっ。どうじでだよぉ……」
「ええっ? ひょっとして祝也、藤原……、じゃなくて泣いてる? あちゃあ、そこまで追い詰めたつもりはなかったんだけどなあ……」
「え、なんでいっだの?」
「い、いや? なんでもないよ」
何だ? 何か隠しているような雰囲気だが、と、語り部では言っておくが、実際のぼくは、見ての通りの状態、というか醜態なので、妹奈の違和感ある対応になど、全然ちっとも全く気付いていない。
うん、ではそのまま役柄を離れて、客観的なことを言わせて貰うと、読者諸君にはお見苦しいところを見せてしまっているな、ぼく ――― 彼女に突然振られて号泣する主人公って、あまりいないんじゃなかろうか。やっぱり主人公は何だかんだと言って、どの物語でも恰好良く描かれがちだからな。
そう言った意味では中々に挑戦的な描写ではあるが、それをぼくでやるな。
ぼくを実験台にするな。
……と、役柄を離れた発言は、これくらいにしておいて。
こういう突然の出来事って、それがどんなことであっても、喜怒哀楽は二の次で、先ずはしばらく驚愕による思考停止が発生するものだけれど、ぼくの場合は早々に悲しみが、哀しみが押し寄せてきた。
傍から見たら、彼女に別れを告げられただけで、何をそんなに号泣しているんだ気持ち悪い、と思われるのかもしれないが、個人的にはそれは仕方ない、と思ってしまう……、普段は自分に厳しいどころか、卑屈のきらいがあるぼくだが、それは仕方ないと思ってしまう。
なぜならぼくは、妹奈から別れを告げられたら、即座に号泣してしまえるくらいに、妹奈のことを大切に想っているからだ。
だからこそ、失うということに怯え、敏感になっており、想定よりも早く事態を理解してしまったし、失うとわかった時の哀しみも膨大なんだ。まあ、前者のほうは、ただ単に、ぼくが妹奈に振られる理由など、幾らでも心当たるから、ということもあるのだが。
常日頃から、いつ妹奈に別れを切り出されるのだろうと考えながら、生きてきたところはある……、だからそういった腹積もりも、ある程度は出来ているつもりだったのだが、どうやらぼくは、想定よりもずっと、メンタルが
「あの……、祝也、落ち着いた?」
していると、妹奈が電話越しに心配そうな声色で、そう訊いてくる。別れを切り出してきた割には、謎に献身的な対応だ。
「ずずっ、まあさっきよりは落ち着いた」
「電話で鼻を
「失礼しました」
「で、ここからが本題なんだけれども、笹久世くん」
え、本題?
別れを告げることが本題じゃないの?
ぼくとの別れはついでなの? 前座なの? 前菜なの?
ころころとぼくの呼び方を変える妹奈に、しかしぼくはその疑問をぶつけることが出来なかった……、先程、口では「落ち着いた」とは言っていても、電話越しに遠慮なく鼻を啜るという粗相をかますくらいには、ぼくはまだ動揺しているので、その疑問も、訊くタイミングを逃してしまったのだと捉えて頂きたい。
「さっき笹久世くんはわたしに訊いたよね、どうしてだよ、と。それは察するに『どうして妹奈は唐突に別れを切り出してきたんだ』という意味なんだろうけれど、その答えが知りたかったら、今日が終わるまでに ――― 具体的には23:59までに、わたしの家に来て。そしたらその理由を教えてあげる」
「え……、今この電話では、駄目なのか?」
「うん。それじゃああの三人が……、じゃなかった、え、えーっと……」
あ?
何だか、先程から、たまにではあるが、妹奈の言葉から、そこはかとない違和感が……、気のせいか?
違和感をもっと具体的に言及するなら、歯切れが悪い、というか……。
そして、三人、と言ったか?
元日の電話のやり取りでもそのワードは出てきていた。その時はすぐに思い当たらなかったが、今回は流石にその経験もあって、すぐにあいつらが思い当たる。
笹久世 未千代、笹久世 菜流未、笹久世 兎怜未。
……いやでも、思い当たったからと言って、だから何だ、という話だ。
どうして笹久世 祝也と火殿 妹奈の別れ話に、あの三人の言及が発生する?
「まさか、別れる原因ってのは、あいつらが絡んでんのか⁉ おのれあいつら、今日という今日は許さん」
「いやいやいや! 違うって! あの子たちは無関係! ああもう、何だか上手くいかないなあ……、わたしって確か、学年一位の成績を誇る才女って設定なんだけどなあ」
設定とか言うな。
「と、ともかく!」
妹奈は、もう何か ――― 例えるなら、Uターン禁止帯で堂々とUターンするかの如く、露骨に話題を戻した。
「今から、23:59までにわたしの家に来ること! それはさっき言ったけれど、ここでふたつ程、ルールを設定します」
「はい?」
ルール?
これまた唐突に言うものだったから、一瞬聞き逃しそうになったが、これではいよいよ何かのゲーム説明を受けているような気分になってしまう。ともすれば、別れ話という本題すら見失いそうになる……、尤も、妹奈からしたら ――― 直接言われてはいないが ――― そちらは『ついで』らしいので、合っていると言えば、合っているのかもしれないが……。
こっちは、もう今となっては、すっかり涙が引いてしまったよ。
てか、もう色々とヤケになってないか、妹奈さん。
段取りという概念を完全に捨ててしまっている。
「ひとつ目、わたしの家に来る途中で、もし何者かが、笹久世くんの行く先を妨害して来たら、抵抗せずに、その妨害者の要求を飲み込むこと」
「…………」
「ふたつ目、わたしの家に来るに際して、乗り物を利用することは許可します。自転車でも、自動車でも、電車でも、特に制限はありません。笹久世くんとわたしの家って、それなりに距離があるからね、流石に電車を使う程の距離ではないけれど」
「はあ」
もう何が何だか。
この時、ぼくの中では、様々な感情が渦巻いていた。
混ざって混ざって。
最早、語り部でも、何を語れば良いのか、よくわからない……、ええっと、とりあえずここは、ぼくの感情はさておくとして、情報の整理をしようか。
情報ではなく、ルール、だったか?
ともかくぼくは、今から23:59までに妹奈の家に行って、別れると言い出した理由を訊きに行く、その際に何者かが邪魔をして来たら、撃退することも許されずに、そいつの要求を飲まなければならない、その代わりと言っては何だが、乗り物利用は可、と。
先程、妹奈は電車を使う距離ではない、云々と言っていたが、厳密には自動車を使う距離でもないような気がする。自転車を使えば、どんなにのんびり漕いだとしても、三十分もあれば、悠々と辿り着けるくらいの距離だ、それにぼくはまだ、学園に通う高校生であり、その学園のルールで、免許を取得出来ないので、元より自動車は使えないのだが。
此度の一件で提示されたルールはともかく、学園で大々的に、代々的に制定されているルールは、守らねばならないだろう。まあそのルールのひとつ ――― 『下校途中の寄り道は禁止』を破って、妹奈と下校途中にカラオケへ行ったこととかは、普通にあるんだけども、無免許運転となれば、話は全然違う。
校則どころか、法に触れる。
拘束の対象になってしまう。
だからまあここは無難に自転車を使うこととする……、さて問題はひとつ目のルールだ。
先ず、妨害って何よ?
始めは、「こんな早朝からスタートして、23:59までに妹奈の家に辿り着けば良い(しかも乗り物アリ)なんて楽勝だぜ」とか思っていたが、そんなワードをちらつかされてしまっては、まるでその道中、絶対に誰かが邪魔しにやってくる、と言われているような気分になってしまうじゃあないか。
しかもそいつの要求を、蹴らずに飲み込めって?
じゃあもしそいつが「火殿 妹奈の家に行くな」と行ったら、その時点で詰みなんだが。
「いや、そういう要求はしないと思うよ、絶対に」
だから何でそんな確固たる意志で言えるのよ、そんなこと。
……というか、ちょっと待てよ?
そう、そもそもなぜこんな突飛なルールを、ぼくが真面目に、或いは馬鹿正直に守らねばならんのだ?
それこそ校則や法律に比べたら、このよくわからんルールのプライオリティなど、最底辺の部類だろうし、先ずもって、ぼくがその妨害者の要求を素直に飲んだかどうかなんて、ルール発案者の妹奈には伝わらないだろうし、彼女には悪いがここは要求を無視し ―――
「あ、言い忘れたことを付け加えると、妨害者は勿論、今言ったわたしのルール ――― 要求も飲んでくれないなら、ここでの話はなかったことにするよ。きみとわたしの会話は、これをもって最後、あとは永遠に話すことはないよ、じゃ、そういうわけで」
「わかりました、わかりましたから、どうか早まらないで、電話を切る素振りをしないで!」
電話を切る際に発生する、あの独特の雑音がしたのを聞いて、ぼくは慌てて妹奈に呼びかける、ならぬ叫びかける。
「ああはいはい、そんなに叫ばなくても聞こえてるよ。まあそうやって、呼び止められたところで、もう現時点をもって、わたしから話すことは本当にないんだけれど」
「最後に一個だけ、答えないなら、答えないで良いから、質問させてくれ」
「……何?」
本当はやっぱり色々と頭が追い付いてないので、一個と言わず千個くらい質問したいのだが、流石にそれは許してくれないだろう、ということでぼくは、どうしてもこれだけは訊きたくて、妹奈に質問する。
「ぼくと別れたい理由、ぼくを嫌いになったから、なのか? 二度と顔を見たくないし、声すら聞きたくないと思っているからなのか?」
「……………………………………………………」
沈黙。長い沈黙。その後に、か細い声が聞こえた。
「…………………………違う」
祝 2 也
酷いことを言わせて貰えるなら、ぼくの一番訊きたかった最大のお題目 ――― ぼくのことが嫌いになったから別れたいと思ったのか ――― を訊くことは、何とかこの電話で叶ったので、あとの展開に関して嫌な予感しかしないぼくからしたら、正直もうこのまま今日は妹奈の家を目指さずに自室で丸まっていたほうが、建設的なんじゃないか、と一瞬考えてしまったが、しかしそれでは何も解決しないのも、紛れもない事実であって。
「あ、言い忘れたことを付け加えると、妨害者は勿論、今言ったわたしのルール ――― 要求も飲んでくれないなら、ここでの話はなかったことにするよ。きみとわたしの会話は、これをもって最後、あとは永遠に話すことはないよ、じゃ、そういうわけで」
この発言はつまり、『家に来てくれたら、別れたい理由を話すけど、同時にもし来なかったらもう永遠に祝也とは話さない』という意味でもあるのだ。
まあそれを差し引いて考えても、多分ぼくは彼女の家に赴くことを決意していた ――― 純粋に気にもなったのだ、嫌いになったわけではないとしたら、どうして彼女はぼくと交際関係を解消したいと言い出したのか。
「つまり、選択肢は最初からひとつしかないってわけだね、祝也兄さん」
「そういうわけだ、流石我が家の頭脳、兎怜未だぜ……、って兎怜未⁉」
だった。
我が華麗なる笹久世家の頭脳であるところの。
三女であり。
ぼくの妹であり。
未熟な妹の。
笹久世 兎怜未だった。
そいつが学園の制服に身を包んで突然現れた ――― 制服?
「とりあえず忘れてそうだから言ってあげるけど、今日、普通に学園あるよ?」
あ。
「そうだった! 普通に今日休みだと思ってた! 祝日のノリで話を進めてた!」
「祝也兄さんだけに、祝日のノリで?」
「全然上手くない!」
言葉を掛ける気もないじゃんか!
というかそうなると、完全に計算が狂うな。今から妹奈の家に突撃しても、今度は学園に遅刻しちまう、というより仮にそれでも無理やり行ったところで、妹奈本人は学園に向かうのだから、これは無意味な行動だ。そうなると必然的に妹奈の家に向かうのは放課後ということになるのだが……。
「それで祝也兄さん。放課後になったら、中等部の校門まで来て欲しいの」
「え? なんで」
「なんでも」
初等部ならまだわからなくもないが、なぜにぼくも兎怜未も籍を置いていない中等部?
というか普通に冗談じゃない。
ただでさえ学園に行くことにより、余裕がなくなっている今この状況で、妹の頼みなんざ、聞いてられるかよ。
「あれあれ? 祝也兄さん、そんなことを言って良いのかな?」
「はあ? 何が言いたい」
「『要求は飲み込むこと』って聞かされなかった?」
「なっ ―――」
なぜこいつが、そのことを知っているんだ⁉
「それも忘れちゃったの? 全く、兎怜未の兄さんは本当に頭が悪いんだから。じゃあ、教えてあげるけど、祝也兄さん。祝也兄さんの三番目の妹は、頭が良いんだよ」
「…………いやいやいや! 一瞬納得しそうになったけど、それ多分理由になってないだろ!」
「頭が良いから自分の兄さんの今置かれている状況くらい、容易に察しが付いちゃうんだよ」
「流石に無理があるだろ!」
それはもう、頭が良いとかじゃなくて、何らかの不思議な力が宿っちゃってるよ!
「……てか、何となく予想はしていたが、やはり妨害者ってのはお前たちのことだったのか」
まあ今のところ、ここには兎怜未しかいないけれど、その内あとのふたりも出てくるんだろうなあ。
出てきて、邪魔してくるんだろうなあ。
何せこいつらは、ぼくと妹奈の交際関係を、あまり良く思っていないからな。
「安心して、祝也兄さん。兎怜未はあくまで今日の祝也兄さんに着いて行って、『勝負』を見届けて、『審判』するだけだから」
放課後の待ち合わせも、そのスタートを一緒に切るためってだけだから ――― と、訳のわからんことを注釈するように言う兎怜未。
注釈ってのは、あくまである程度わかっていることに対し、補足を入れる、みたいなニュアンスの言葉であって、全くわからないことに対してするもんじゃないと思うんだが。
『勝負』? 『審判』? 何の話だよ。
まあ訳のわからんなりに、予想染みたことを述べておくと、放課後の待ち合わせが『スタート』と言うなら、それまでは何かしらのトラブルは発生しないと見て良いのかもしれない。
「うーん、それはどうだろう」
しかし、ぼくのその予想に、兎怜未は首を傾げながら応えた。
「これは兎怜未たちの予想していた範疇ではないトラブルだったけれど ―――」
兎怜未はそんな前置きをしながら言った。
「祝也兄さん、遅刻するんじゃない?」
祝 3 也
最初のほうで、『バレンタインデー当日の早朝』と言ったが、それはあくまで祝日と捉えていた場合の『早朝』であって、学園に行く日であると考えた場合は、その限りではなかった。
普通の起床だった。
そこから学園に行く準備をひとつもしていない状況で、妹奈や兎怜未とのトークに興じていたわけで、そんなことをしていたら、朝なんてあっという間に時間が過ぎてしまう。結果、ぼくは朝食にもありつけず、学園に向かうことになった。
幸い今日の朝食は縞依の担当だったので、何とかなったが……、これがもし、菜流未の担当の日だったらと思うと、どんな目に遭っていたかと身震いを禁じ得ない。
まあこれでとりあえず、放課後まではトラブルに見舞われないだろう、と高を括っていたぼくだったが、もうひとつ重大なトラブルが発生したことは、如何に巻かなければいけない番外編でも、記しておかねばならないだろう。
まあ巻かなければならないのは事実なので、さっさとそのトラブルの内容を言ってしまうと、弁当を忘れた。ついでに購買も休みになっていた。
つまり、今日のぼくは朝昼食を食べていないということになる。
ぼくは元々断食しての活動がかなり苦手なタイプなので(菜流未の料理の味を知ってしまうと、断食なんて出来る筈もない。あいつの料理は確かに完成されているが、食べた人間の食欲を一般人平均のそれと比べて、遥かに上回るまでに引き上げてしまうという点では、流石未完成の妹が作る料理であると言えよう)、放課後にはもう、ふらふらの状態となっていた。
「だ……、大丈夫? 祝也兄さん」
そんな状態で待ち合わせの中等部校門に訪れたので、先に学園が終わって待っていたらしい兎怜未に開口一番、心配されてしまった。
「まあ兎怜未も兎怜未でしんどかったんだけれどね。初等部と高等部だと放課時間が全然違うから、何時間もここで待つ羽目になったし」
「え……、お前、ずっとここで待ってたのかよ」
繰り返しになるが、今日はバレンタインデー、すなわち二月十四日だ ――― 真冬とは言わないのかもしれないけれど、まだまだ全然寒い時期に何時間も外で待ち続けるなんて、頭の良い兎怜未が何をしているんだ。おまけに言うと、兎怜未は確か、結構な寒がりだった筈。だからこそなぜ、馬鹿正直にここで待っていたんだと、例えばぼくの授業が終わる直前まで、何処か適当な建物にでも入って、時間を潰しておけば良かったと思うのだが。
「何を言っているの祝也兄さん、放課後の寄り道は、学園のルールで禁止されているんだよ」
「変なところで真面目だな、お前」
でも中等部に訪れているっていうのは寄り道なのでは。
「学園内の何処かなら、寄り道にはならないでしょ、知らないけれど」
「知らないんかい」
グレーゾーンだと思うのだが。
「……ん」
「え、どうしたの? 祝也兄さん……」
ぼくはそっと、兎怜未の真っ白な両手を、自分の両手で包み込むように握る ――― その手は、氷のように冷たいその手は、ぶるぶると小刻みに振動していた。
「……ったく、しょーがねーな」
「え、本当に何、祝也兄さん、おもむろに脱ぎ出して」
「何を脱いでいるかをちゃんと言え、ぼくが変質者だと思われるだろうが」
「おもむろに下着を脱ぎだして」
「マジの変質者じゃねーか!」
え、あの人下着脱ごうとしてるの?
やだー。
どうする? 先生に言ってきたほうが良いかな?
そんな囁き声が、周りにいた中学生(主に女子)から聞こえてきた。
ち、違いますよー? ほら、下着じゃなくて上着、コートと学ランだよー? あと手袋もついでに取ったよー?
「ほら、これでも身に着けておけ」
そしてそれらを兎怜未に差し出す。
「あ……、りがと」
兎怜未はぼくのその行為が、意外だったとでも言うように、歯切れ悪くも感謝を述べた。
「でもこれ、全部ぶかぶかだよ、祝也兄さん」
「それは勘弁してくれよ」
「それに、それじゃあ今度は祝也兄さんが風邪ひいちゃうし、やっぱり学ランくらいは着てよ」
「そうか? まあでも、それもそうだな」
お恥ずかしいことに、妹の前で恰好付けようと、自分の着ている服を譲ったくせに、確かに滅茶苦茶寒いです、ハイ。
それに別に兎怜未自身だって、自分の服をそれなりに着込んでいるのが、見てわかる……、これ以上着込むと、却って動きづらくなってしまうだろう。そういう意味では、貸すのは、素手であった手袋くらいでも良かったかもしれない。
「それに、もう屋内に入るから、実質どれも要らないかも」
「ん、そうなのか?」
集合場所が中等部校門前で、すぐ屋内に入るってことは……。
「そう、先ず用があるのは、中等部の家庭科室だよ、祝也兄さん」
祝 4 也
「やっ、シュク兄。待ち
「菜流未……」
現在16:30、兎怜未に手を繋がれ、導かれ、やってきたのは、中等部校舎内の家庭科室だった。
「ああ、予め言っておくと、今日は、料理部はお休み、というか学園全体で部活が休みだよね、今日。だから先生に頼んで家庭科室を貸して貰ったと同時に、シュク兄とウレミンというゲストを招く許可も頂いているから、その辺は気を回さなくて良いよ」
菜流未は、ぼくの二番目の妹は、ぼくの懸念を読み取るかのように、或いは先回りするように、そう言った。
笹久世 菜流未は、その持ち前の圧倒的な料理の上手さ、美味さからもわかるように、当たり前だが、料理部に属している。加えて、学園の人気者という側面もあり、生徒だけでなく、先生からも信頼が厚いのだろう、本来は例外を除いて、自身の属している学年の ――― ぼくと未千代なら高等部の、菜流未なら中等部の、兎怜未なら初等部の校舎以外、立ち入ってはいけないのだが、菜流未はなんと正面突破で、先生から身内の校舎侵入の許可を貰ったらしい。
幾ら人気者でも、そんな簡単に例外措置を許可して良いのか……、そもそも、生徒から人気というのは、百歩譲ってスルー出来たとしても、先生からも人気というのは、ぼくとしては、納得しかねるものがあった。というのも、こいつは勉強に関しては全然出来なくて、それはすなわち、先生にとっては嫌な生徒だという評価になってもおかしくないと思うのだけれど、それ以外に、それ以上に、先生の株を上げる活動でもしているのだろうか。だとすれば菜流未のもうひとつの特徴であるところの、『困っている人がいたら放っておけず、ついつい助けてしまう』が、先生に対しても、適用されているのかな。
「さて、じゃあ始めるよ、祝也兄さん」
していると、隣でぼくと手を繋いでいた兎怜未が離れ。
「第…………、もう何回かもう忘れちゃったけれど、兄と妹の真剣勝負、バレンタインデー特別編~!」
と、精一杯といった感じで兎怜未はそう宣言した。普段は静かに話す兎怜未が、頑張って声を張っている姿は、心に来るものがあったが(正確には、声を張ろうとしているが出来ていない姿、と言うべきか。それはそれで、やはりグッとくる)、今は生憎それを気にしている場合ではない。
「……何だそりゃ」
「何だも何も、いつもやってることじゃない、シュク兄」
と言ったのは、次女の菜流未だ。
「あたしたちとシュク兄は、今まで数えきれない程、勝負してきてたじゃない、互いを高め合ってきたじゃない」
「いやあれはどっちかって言うと、勝負と言うより喧嘩じゃないのかよ」
そして、互いを高め合うどころか、落とし合ってきた、貶め合ってきたというほうが、ニュアンスとしては正しい。
「まあまあそれは良いとして」
「いや良くないでしょ、兎怜未さん」
「今回はバレンタインデー特別編ということで、その『勝負』にちゃんとした勝ち負けと『審判』をつけて戦おうということだよ」
それに、勝った時の景品も、負けた時のペナルティも含めて、ね ――― と、兎怜未は意味深な表情を浮かべながら、そう言った。
「具体的に勝敗が決したら何があるかを先に言うと、祝也兄さんが負けたら、この後すぐに帰宅して、今日一日家から出てはいけない、祝也兄さんが勝ったら、普通に進めるし、なんと対戦相手からチョコレートのプレゼントもあるよ、これはすべての勝負で共通のルールだよ」
「いやちょっと待て、いや沢山待て」
またぞろ頭が混乱してきたが、それと同時に今朝、妹奈が言っていた言葉が徐々に回収されていく……、が、何だか、話が違う気がするぞ、妹奈さん⁉
彼女の言い分では「詰みが発生する要求はしない」筈では?
それにこんな勝負が、この後に何個も控えてるのかよ……。
「別に詰んでないじゃん」
そう口を挟んできたのは菜流未だった。
「要するに、あたしたちにシュク兄が勝ち続ければ、詰まないんだから、さ」
「無茶言うなよ……、おれとお前たちの喧嘩の勝率、いくつだと思ってんだ」
「それにこのバレンタインデー特別編の勝負は、あたしとの勝負を含めても二回戦しかないんだから、そんなめんどくさそうに構えられると、こっちも普通に凹むっていうか……」
菜流未は悲しそうな顔で言う。
て、あれ、二回戦しかないの? ぼくは少なくとも三回戦はあると思っていたのだが……、といったところで、兎怜未の言葉が、突如として思い起こされる。
「安心して、祝也兄さん。兎怜未はあくまで今日の祝也兄さんに着いて行って、『勝負』を見届けて、『審判』するだけだから」
そうか、兎怜未のあの時の言葉は「今回の一件、自分は第三者として見届けるので、勝負を挑んだりはしない」ということだったのか。
だとしても審判って。是非とも公平なジャッジを
「何より、あたしたちに勝った場合の景品に、全く触れてくれないのは、もっと凹む」
ぼくの思考を遮るように、菜流未はそう続けた。
ああ、何だっけ……。
そうだ、チョコレート。
バレンタインデーで、女の子から貰えるチョコっていうのは、それが本命なら勿論、義理でも、友でも、そりゃあ一定数の喜びや嬉しみの感情が湧くものなんだけれど、妹チョコ、いもチョコは、どうなんだろう?
ぼくは皆さんご存知の通り、妹が嫌いなので、嫌いな奴からの贈り物を、捨てはしないにしても、貰った時に顔が引きつるだろうし、どのように処理しようかを考えて、お礼の言葉も満足に言うことが出来ないかもしれない。だいいち、『いもチョコ』なんて、何だか芋のチョコみたいで、あまり美味しくなさそうだ(勝手に命名しておいて随分な言いよう)……、それならまだ。
「おりゃ」
「へっ⁉ ちょ、ちょっとシュク兄! あっははははははは! やめてよ! あはは! いきなり、あはあは、くすぐる、うひひひひ、なん、えっへへへへへ、て!」
妹をくすぐる、すなわち、いもコチョのほうがぼくとしては嬉しいし、楽しい。
なんとバリエーションに富んだ笑い方。
その割にいつもの『たはは』を聞くことは出来なかったが。
「えー、では祝也兄さんと菜流未姉さんのイチャつきが終わったところで、肝心の勝負内容を、菜流未姉さんから発表してもらいたいと思いまーす」
……何だか拗ねてます? 兎怜未さん。
「『
「もうボコボコにはされたくないな……」
そう、言うまでもないと思って触れなかったが、あのくすぐりの直後に、報復として、菜流未におたまでボコボコにされているぼくなので、これ以上の身体的苦痛を受けたら、いよいよ骨とか神経とかが、どうにかなってしまうと思う。
……ああ、どうにかなってしまうと言えば。
「勝負の前に何か腹ごしらえをしても良いか? 実は今日、のっぴきならない理由で、朝昼と、飯を食べていないんだ。ただでさえ、通常状態でも勝率が皆無に等しいぼくだから、腹ペコの状態では、お前に勝てる気がしないよ、菜流未」
加えて言うなら、ここは家庭科室なので、具体的に何とは特定出来ないが、とても美味しそうな匂いで充満していて、それが空腹に拍車をかけている……、ぶっちゃけ、ここまでの長いやり取りを、よくぞ耐え忍んだ、と誰かから表彰されても良いレベルだと思う。
「そこまで勝率って偏っていたっけ、というか変なところで卑屈になるよねシュク兄、という突っ込みはせざるを得ないとして、なーんだ、じゃあ、丁度良いんじゃない?」
ん、丁度良いとはどういうことだ? ぼくが満身創痍と知って、勝利を確信した故の言葉か?
どれだけぼくを彼女に会わせたくないんだ。
「いやいやあたし、そんなシュク兄みたいに性格終わってないし。学園トップクラスの人気者は、そんな捻くれたゴミのような性格してないし」
「遠回しにおれをゴミと言ったな、
「遠回しには言ってない、直接言った」
「なお悪いわ!」
それはツンデレでも何でもない、ただの悪口だ。
あと、捻くれた、というのもゴミ、というのもわかるとしても、捻くれたゴミって何だよ、合わさったことで、逆にあまり耳にしない罵倒になっているぞ。
「あたしが言いたかったのは、今のシュク兄にとって、丁度良い勝負だってこと」
よりはっきりと言っちゃうと、有利な勝負、かな? と菜流未。そしてこう続けた。
「今からする勝負は『早食い&大食い勝負』だからね」
祝 5 也
簡単に内容を説明すると、こうだ。
ぼくが料理を食べる側、菜流未が作る側となる。菜流未はひたすら素早く料理を作っていくので、ぼくもそれを素早く平らげる。するとその内、どちらか、或いは両方のスピードが落ちていくこととなる。最終的に、ぼくがその時点で出されていた料理をすべて平らげ、一分間何も料理がない状態が生まれたらぼくの勝ち、ぼくが途中で満腹になり、ギブアップをしたら負け、ということだった。
「先に言っておくと、料理は三種類、すなわち三人分の量があるよ。それらを全部食べることが出来ても、シュク兄の勝ちってことにしてあげる」
……うーん。
何だか、腑に落ちない、と言うか、もやもやする、と言うか……。
端的に、単純に言わせて貰えれば。
これ、流石にぼくが勝つよね?
何せ今のぼくは、かつてない程の空腹感に見舞われている ――― 元々の食欲に関して言えば、ぼくは並程度のものだったが、この空腹感と、人間の食欲という欲求を引き上げる効果がある菜流未の料理を日常的に摂取してきた(物言いが最早何らかのアブないお薬のようだ)今のぼくの前では、三人前の料理など、多分普通に食べられる。とは言え、普段の別の勝負ごとでは、いつも負け続けているので、無論油断はしないようにするとしても……。
だからこそ、腑に落ちないし、もやもやする。
なぜ菜流未は、自分にとって、圧倒的不利な勝負を挑んでくる?
まあ菜流未からしたら、ぼくが空腹でこの勝負に挑んでくることを今知ったのだろうし、料理を作ると言っても、ある程度の下準備は、事前にしているだろうから(家庭科室に充満していた美味しそうな匂いは、元々染みついていた匂いもあるのだろうが、恐らく菜流未が下準備を行った結果なのだろう、と今なら考察出来る)、今更勝負内容を変えるのは難しいかもしれないが、それならもう少し勝敗条件や付随条件を厳しくする ――― 例えば、料理がふたつスタックしてしまっている状態が一分間続いたら、ぼくの負け、とか、各料理の感想を最低百文字言う、とか別ベクトルの対策は出来る筈だ。
ぼくは、妨害者の要求を飲み込むことしか、許されていないのだから。
しかしそういった過酷な要求も、特にしてこなかった。むしろ菜流未はどさくさで、ぼくの勝利条件をひとつ追加してくれちゃったりした。
先程ぼくは、端的に、単純に「これ、流石にぼくが勝つよね?」と言わせて頂いたが、更にもっとはっきりと、何なら疑うようなことを言ってしまうが。
菜流未、勝つ気、あったんだろうか?
……そう、過去形。
もうここで、結果からはっきり言ってしまうと、この勝負は、普通にぼくの勝利で幕を閉じた。
あまりに触れることがなさ過ぎて、勝負が全カットである。
そうは言っても、勝負ごとでは、馬鹿とは思えない賢さを見せる菜流未ことだ、勝負中に何か仕掛けてくるだろう、と不安の一方で、ドキドキと、その瞬間を待ちわびていたのだが、結局何も起きず、起こらず、普通に勝負が始まり、普通に三人前の料理を平らげた。
うどん、オムライス、餃子と、和洋中の三品を美味しく平らげた(並べてみると異様な組み合わせだ。普段はそういうところも気を遣う菜流未だが、今回は敢えてアンマッチな組み合わせにしたのだろうか。もしかしたらそれこそが、菜流未の唯一と言ってしまって良い、勝利の方程式だったのかもしれない、効果は全くなかったが。むしろ適度に味変されて、これはこれで美味しく頂けてしまったが)。
だから兎怜未の「終了~。この勝負、祝也兄さんの勝利~」という判定を聞いても、ぼくはやったぜ、と喝采を上げることも、妹奈に一歩近付いたと喜びに打ち震えることも出来なかった。
そして何より一番もやもやするのは。
「いや~負けちゃったか、たはは。このあたしが、シュク兄なんかに負けるだなんて、不覚だなあ、たはは。なんでこんな奴に、あたしの気持ちを込めに込めた手作りチョコレートをあげなきゃなんないだろ、たはははは」
負けたくせに全然悔しそうじゃない、むしろぼくの千倍くらい喜びに打ち震えているかのように「たはは」を連呼する、菜流未の姿であった。
そして最後に菜流未はこんな言葉で、勝負を締めるのだった。
「勘違いしないで! この手作りチョコレート、本当は田中センパイにあげるつもりで、シュク兄にあげるつもりなんて、全然なかったんだからねっ!」
だからそれはツンデレじゃなくて、本音だろーが。
というか、こっちの世界でも、お前は田中に惚れてんのね。
祝 6 也
「じゃ、帰ろうか、祝也兄さん」
現在18:00、場所は中等部校門前。
菜流未との勝負は、かくのように、滅茶苦茶あっさりと、特筆することもなく、勝負本編を尺の都合上、バッサリと切り捨てられるレベルであっけなく終わったとはいえ、やはり勝負自体は時間を消費(浪費と言っても良い)する内容だったため、気付けば時刻は、学園の下校時間に迫ってしまっていた……、が。
「え、帰るの?」
兎怜未からの意外な発言に、ぼくは咄嗟にアホみたいな声で反応してしまう。
だって菜流未と兎怜未の言い分じゃあ、確かに三愚妹全員との勝負ではないらしいけれども、まだそれでも一番厄介な奴が、残っているじゃないか。
「え? 帰らないの? ああ、料理の片付けで残っている菜流未姉さんを待たないのかってこと? へえ、祝也兄さんもようやく、妹を想うことの出来る優しい兄の心を盛ったんだね」
「盛ってないし、持ってもない」
盛ってたとしたら、逆にお前らはそれで良いのか、あくまでそれは、妹を想うことの出来る優しい兄の心を、無理やり詰め込まれたぼくということになるだろう。
「確かに『盛る』という言葉は、何だか悪い意味に捉えられがちだよね、何でだろう」
「小学生なんだし、知らないなら知らないほうが良いよ」
「ああ、ヤク ―――」
「おりゃ」
ぼくは咄嗟に兎怜未の両頬を、両手で挟んで押し潰す。
「ひょっほ、いひにゃりにゃにしゅゆの(ちょっと、いきなり何するの)」
「お前がまたぞろ、危ない発言をしそうだったから、兄としてそれを阻止しただけだ」
頭が良過ぎるのも、何かと厄介である。
さて、厄介という言葉が出てきたところで、話を戻したいのだが、ぼくは本当にこのまま帰っても良いのだろうか、あの厄介な長女 ――― 笹久世 未千代との勝負はどうなるのだろう。
「まったく、察しが悪いな、兎怜未の兄さんは」
すると、やれやれ、と言った感じで兎怜未が首を横に振りながら言う。
「つまり、最終決戦の場が、我が家ということ、でしょう?」
ああ……、そういうことか。
特に変に考えることはなかったのだ、ぼくが、菜流未との勝負を行っている間に、未千代は先に自宅へと帰っており、ぼくを待ち構えている、と。
「それに万一、祝也兄さんが菜流未姉さんに敗北していたとしても、どちらにせよ家に行くことになるんだから、そのほうが何かと都合が良いと、考えたんじゃない?」
なるほど、ぼくと菜流未の勝負の行方をいち早く知ることの出来る、尚且つ自身の勝負となっても、すぐに対応できるように自宅をチョイスしたということか……、未千代らしい、理に適った考えだ。
まあ別に、菜流未との勝負の顛末くらい、ぼくが直接あいつに電話で報告してあげて全然良いのだが、そこは多分「祝也さんのお手を煩わせるわけにはいかない」みたいに思ったのかもしれない、あいつのことだから。全く、健気な奴だ。
「まあじゃあ、さっさと帰るか」
「結局菜流未姉さんは待たないということ?」
「そういうことになるな、あいつからしても、ぼくらがわざわざ一度家庭科室を去っているのに、その後校門前で待つなんていう奇行を目の当たりにしたら、気味悪いことだろうし」
「うーん、考え過ぎな気がするんだけれど……、ああ、それなら代わりと言っては何だけど、菜流未姉さんから強奪したチョコレートを食べながら帰ったら? あとで感想を言ってあげれば喜ぶかもしれないよ」
「そんなことをいちいち報告して喜ぶようなタマか、あいつ……、今、強奪って言った?」
「狡猾と言いました」
「より印象悪くない?」
「じゃあコタツって言った。寒いからコタツが恋しいね、祝也兄さん」
「当たり前のように言っているが『じゃあ』っておかしいだろ、コタツは恋しいけどな」
強奪と狡猾は、どちらもマイナスな印象があることもあり、洒落としてはまだギリギリ上手いのかもしれないが、強奪とコタツはもうだいぶ無理があるだろう。
有り体に言ってしまって寒い、コタツなのに。
「それにさっきまで菜流未の料理と、丁々発止渡り合ってきたばかりだから、普通に食欲がない」
先程、菜流未との勝負は普通に勝った、と言いはしたが、別に余裕だった、圧勝した、というわけではなく、それは言葉通り、『普通』の勝利だったので、勝ったとはいえ、現在こちらもこちらで、普通に満腹である状態だ ――― 具体的に言うなら、晩ご飯は確実に抜いて良い、と言うか抜かないと、多分胃とか腸がおかしくなると思うレベルである。そんな状態だと、如何に量としては、先程の料理たちと比べるべくもないチョコレートだとしても、そして、菜流未が作ったという絶品のチョコレートだとしても、美味しく召し上がることは難しいだろう。
空腹は最高のスパイス、なんていう言葉があるが、これは逆もまた然り、なわけである。
さしずめ、『満腹は最悪のチョコレート』と言ったところかな。
「兎怜未のさっきの洒落も確かに酷かったかもしれないけど、祝也兄さんに至っては最早、上手いことを言おうともしてないよね」
「うぐ」
さておき。
ぼくは、菜流未から貰ったチョコレートは、ひと先ず食べずに、兎怜未と連れ立って、帰路へとつくのだった。
季節は冬だとしても、そのままにして置いたら、鮮度が落ちてしまうかもしれないので(菜流未が料理の際に多分最も拘っているポイントだ、事実、料理をしている時のあいつの口からはよく、その単語が出るので、つい同じ思考を抱いてしまった。チョコレートに『鮮度』という概念があるかは謎だが)、帰ったらちゃんと冷蔵庫で保管しないとだな、とか考えつつ、兎怜未と適当な雑談を交わしながら帰っていたら、あっという間に我が家がもう目と鼻の先、というところまで来た ――― が。
「ん……? 何だ、あれ?」
我が家の前に、複数の光を灯した『何か』があった。その光は赤と橙で、橙のほうはチカチカと明滅を繰り返している。
「いやそこまで特徴言ってるなら、スッと『車』だって言おうよ、祝也兄さん、何を勿体ぶっているの」
「いやそれはそうかもしれんが、あれ、父さんの車でも……、母さんの車でもないよな?」
「そこもわかってたのね」
そう、光と言うなら、普通の車には先ず付いていない、点いていない光が、その車にはあった。それはルーフの中央に当たる箇所で、所謂
というわけで、得体の知れない車が我が家の前に停車しているという不気味さに堪えつつ、ぼくたちはそろりそろりと我が家に ――― 車に近付いていく。
「そロリそロリ、とね」
「ん? どうした兎怜未」
「ううん、何でもないよ、コンコン。祝也兄さんは、そロリそロリ、コンコン」
「本当に何でもないのか? 突然わざとらしい咳までして、もしかして風邪ひいたのか?」
だから放課後の寒い中、わざわざ外でぼくを待たずに屋内で待てば良かったのに、言わんこっちゃないぜ。
「うーん、これはまた新しい遊びを思いついちゃったな、兎怜未。名付けるなら『気付かれずに罵倒プレイ』と言ったところかな、くふふ」
「?」
意味のわからん独り言を呟く兎怜未は、とりあえず置いておいて、ぼくはようやくその車の正体を理解した ――― 先程言っていたルーフで光っている行灯の字がわかれば、それはもう一目瞭然どころの話ではなかった。
『ケイマイタクシー』……、確かにそう書いてある。よく見るとそれは行灯だけでなく車体側面にも同様に記載されていた。
「何でまた、タクシーなんかがウチの前で止まってんだ……」
そう、車の正体が判明したら、次は当然、その疑問を抱くことになるわけだが、しかし残念なことに、それにまつわる考察をする時間は与えられなかった。なぜなら、そのタクシーから、ご丁寧に運転手の人が降りてきて、ぼくたちにこう言ってきたからだ。
「お待ちしておりました、笹久世 祝也様、兎怜未様。未千代様から仰せつかって、急ぎ参上した次第であります、ささ、どうぞお早くご乗車なさってくださいませ、未千代様がお待ちかねですよ」
祝 7 也
「申し訳ありません、祝也さん、兎怜未さん。本来ならば、帰宅している頃合いだったのですが、お仕事が長引いてしまっていて、おふたりをこちらにお呼びすることになってしまいました」
現在19:30、場所は某撮影現場の楽屋。
あれから、あれよあれよとぼくたちはタクシーに押し込められ、兎怜未はぼくと違って、空腹を迎えつつあったということで、道中コンビニに寄りつつ晩ご飯を購入してから、ここにやってきた。ちなみに、コンビニ代はともかく、タクシーの乗車代金は、未千代が前払いしていたようで『結構です』と言われた。タクシーに前払いなんていう支払い方があったのか、知らなかった。
……それとも、芸能人とか、金持ちならではの支払い方法なのか?
まさか、未千代ならでは、ではないと信じたい。
あと、ちなみについでにこれも言っておくと、兎怜未の晩ご飯代は、流石にぼくが出した。小学生はそもそも学園に財布など持って行かないだろうし、仮に兎怜未が例外的に、学園でも関係なく財布を持ち歩く系妹(何だその系統の妹)だとしても、流石に小学生に対し「自分の飯は自分で払え」というのは、ちょっと酷である ――― 酷だし、ぼくの器が小さいと思われてしまう。
如何に妹が嫌いなぼくでも、自身の器の小ささを露呈してまで冷たく振舞うことはないだろう。
さておき。
「いやそれは良いんだけど、まさかあんな半ば強引に連行されるとは、ぼくも思っていなかったので、少し驚いたよ」
「うう、ですから、謝っているじゃないですか、私だけ勝負の除け者にされるのが嫌だからと言って、強硬手段に出たのは誤っていたと、謝っているじゃないですか」
「別に除け者にはならないと思うけどね、未千代姉さんの前に先ずもって、兎怜未がこの勝負からは身を引いているわけだし」
「え……、そうなのですか?」
え、知らなかったのか、未千代。
……まあでも、確か今日はこいつ、早朝からずっと仕事だった筈だし、そう考えると、兎怜未が審判に徹していて、勝負には参加していない、ということまでは知らなくとも、無理はないのかもしれない。
「ええ、辛うじて知っていたのは、なぜか今日の放課後から、兎怜未さんが祝也さんにずっと付き纏っているらしい、という羨ましい情報……、もとい、目撃情報くらいです」
本音が出てしまっているし、付き纏っているっていうのも、何だか嫌な言い方である。
「おかしいですね……、兎怜未さん、昨晩の会議の時点では、辞退をするなどとは、特に仰っていなかった筈ですが……」
「え?」
「しっ! 未千代姉さん! 静かに!」
昨晩の会議?
まあ、三愚妹のこんな組織的な犯行、というか蛮行を、今更偶然であると思い込むのは無理があり過ぎるので、当然この蛮行に打って出るにあたり、それなりに打ち合わせを行っているのだろうとは思っていたが、ひょっとして、そのことを指して言っているのだろうか。
まあ今、そのことについてのんびりと考察をしている暇はない、地味に、というか地道にではあるが、刻一刻とタイムリミットが迫っていることを忘れるぼくではない。
「ま、とりあえず、ちゃっちゃと勝負とやらを始めようぜ。未千代と何かを競うのなんて滅多にないから、どんな具合になるのか、およそ未知数だがな、未千代だけに」
「何をいきなり面白くないことを
「………………………………………………え?」
今、誰かぼくを『駄犬』と罵りました?
揶揄しました?
「誰か、って私に決まっているじゃないですか、前々から馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが、遂に脳が壊死したんですか、ゴミクズ」
間違いない。
未千代だった。
いつもは兄を神のように慕い、それがたとえぼく以外に対しても、罵倒は勿論、ちょっとした悪口すらも、全くと言って良い程言わない笹久世 未千代が、他でもない、ぼく、笹久世 祝也に対して、罵倒した ――― しかも中々心を抉ってくるタイプの暴言の嵐だ。
しかし、次の瞬間。
「うわあああああごめんなさい、ごめんなさいいいいい!」
「⁉」
未千代は、謝罪の言葉を口にしながら、その辺にある柱に頭をゴンゴンとぶつけ始めた。
「な、何してんだ、コイツ⁉ おいちょっと兎怜未さん、これはどういうことなのか、説明をしてくれ!」
ぼくは目の前で、過去一の奇行をまたも更新した未千代さんを尻目に、兎怜未に助けを求める。
「うーん、要するにこれが、今回の勝負の内容ってことじゃないかな」
「これが?」
兎怜未の言葉の意味が ――― 言葉そのものの意味は至極単純だが ――― ぼくには全然わからなかった。
当然ぼくを罵倒して、柱に己の頭をゴンゴンぶつけるのが勝負って、意味不明極まっている。
「いや、あくまで勝負なのは『罵倒』までで、頭を強打するのは関係ないと思う。むしろそれは『勝敗の結果』と見るべきなんじゃないかな」
と、こんな混沌とした状況でも、冷静沈着に、その育った頭脳を駆使して、未千代の意図を理解しようとする兎怜未 ――― それはそれで、中々の狂気を感じる、勿論未千代程ではないが。
そしてそんな天才の兎怜未の考察は、このように結論付いた。
「つまり今から、未千代姉さんは、ひたすら祝也兄さんを罵倒する。先に、さっきの未千代姉さんみたいに心が折れたほうの負け、ってことなんじゃない?」
ああ、そういうことか。
確かにこれは中々斬新かつ、バランスの取れた勝負内容ではある ――― 少なくとも、先程の菜流未とのアンバランスな勝負に比べたら、幾らかフェアな勝負ではあるだろう。普段絶対にぼくを罵倒しないであろう未千代が、天才であると同時に、罵倒のスペシャリストでもあるところの兎怜未の如く、ぼくを罵倒する。それはぼくが辛い気持ちになるのは勿論、言う本人であるところの未千代だって相当キツい筈だ(先程の奇行を見れば『筈』などという希望的観測的な表現でなく、『キツいのだ』と言い切ってしまっても良いかもしれない)。
がしかし、この勝負には、ぱっと思いつくだけでふたつ程、穴がある。ひとつは前述したように、双方が互いにしんどくなるだけで、誰も幸せにならない、残酷なゲームであること ――― まあこれに関しては百歩譲って、決して未千代は本心で言っているわけではないんだ、と気を強く持って耐え忍ぶ、という対策で何とかするにしても、もうひとつは決定的な穴なのでどうしようもない……、と言うのも。
「もうこの時点で、勝負ついてないか?」
そう。
未千代は既に「ごめんなさいいいいい」と絶叫しながら、柱に頭を打ち付けるという奇行をしている ――― その時点でこいつは、誰がどう見ても心がぽっきり折れてしまっているのだ。
決定的な穴、それは既に勝負が決定してしまっていることだ。
「いえ、今のは練習です、本番は兎怜未さんの合図があってからなのです」
「ええ」
何その小学生がよく使うような逃げ口上。
恥ずかしくないの?
「いえいえ、私と祝也さんの間では、もっと嬉し恥ずかしのあんなことやこんなことが、沢山あるではないですか、それらに比べたらこのような恥、微々たる犠牲です」
「あることないことを具体的に言われる前にはっきり言うが、そんなエピソードはない」
「おや、もしかしてお忘れですか? この間、祝也さんは私の手足に手錠をかけて、身動きを取れなくしたところで、○○○や、×××を ―――」
「『あることないこと』どころか、最初から最後まで『ないこと』しか言わねえじゃねえか!」
遂に伏せ字を使わないといけないことを、あまりにも堂々と言いやがった!
我が国はこんな奴を持ち上げて、清楚だとか透明感があるだとか言ってモデルをやらせているのだと思うと、頭痛がしてくる。
「だけどもさ、未千代姉さん。未千代姉さんは今、練習だと主張したわけだけど、これって見方を変えれば、兎怜未のスタートの合図を無視して、勝手に勝負を始めようとしたようにも見えるんだけれど、それはつまり陸上競技で言うところのフライングというやつで、これはこれで反則負けということになるんじゃないかな?」
「そ、そんな! 兎怜未さんまで!」
珍しい。いつもは菜流未も含めた次女三女は、ぼくに助け船を出すことなんて滅多にないので、唐突に正論を交えた兎怜未の言い分に、思わずたじろぐ……、まあぼくのことは関係なく、ただ単に自分の姉の暴走をこれ以上聞いていられない、といった判断の上での発言ともとれるが、それでも。
「経緯はどうあれ、まさか兎怜未が、全面的におれの味方をするような主張をするとはなあ、とはいえ、もしかしてこれはおれが気付いていなかっただけで、本当はそういう場面も今までしばしばあったのかもしれないな。これはおれも、これから色々と、ものの、もとい、妹の見方を変えていく必要があるかもなあ、味方だけに」
「何をいきなりつまらないことをほざいてるの、クソ豚兄さん。さっさと勝負を始めるよ」
今度は兎怜未に罵られた。流石本家というか何というか、未千代のそれと比べて、鋭さが段違いである。未千代は未千代で、「なるほど、そうやって罵れば良いんですね、参考になります」とか宣ってるし。
ほざいてるし。
そんなわけで、もう少しで未千代の反則負けというところで、ぼくが審判の機嫌を損ねる発言をしたため、結局勝負をする羽目になった、畜生。
祝 8 也
「しゅ……、しゅくやさんの……、馬鹿、アホ……、にぶちん、おたんこなす……」
「くっ……、はあ、はあ」
現在20:50、場所は変わらず、某撮影現場の楽屋。
戦況は御覧の通りである。
泥試合だ。
「祝也兄さん……、それを言うなら泥仕合だよ……」
ぼくの誤字に訂正を入れる審判の兎怜未も、想定外の長期戦に、疲弊してきているようだ。
いや、本当に想定外である。
だって、未千代が咄嗟に言った練習パートではこいつ、早々にリタイアしていたんだぜ? そんな奴が、約一時間、ぼくを罵倒しまくっても、未だに倒れずに立っている……、序盤に比べると、もうその切れ味はないに等しい、なまくらのような内容ではあるが(罵倒と言うより、それこそ小学生が放つ悪口の見本のようなラインナップだ)。ちなみにその序盤では、「祝也さんなんて嫌いです、もう口も利きたくありません」とか、「祝也さんを見るだけで悪寒がするので、今すぐに私の眼前から、いなくなって貰えませんか?」とか、ガチでこっちのメンタルが砕け散りそうな言葉選びをしていた。今思い出しても、軽く死にたくなる。
そしてこれは勿論だが、間にいつものラブコールや求婚も挟まずに、ずっとひたすらに罵倒である。何なら決着がつかな過ぎて、開始から三十分くらい経過したタイミングで、兎怜未が審判権限で、三十秒毎くらいの間隔でぼくを罵倒していた未千代に、十秒以内に次の罵倒をしなければ、未千代の負けとする条件を追加したくらいだったのだが(菜流未の時もそうだったが、なぜか此度の勝負では、何かにつけ、ぼくに有利な舞台が整う傾向にある気がするが……、気のせいか?)、結局今の今まで、勝負はついていない。
「てか……、未千代、仕事のほうは良いのか?」
ぼくは不意に、今この勝負は未千代の仕事の合間に行っているんだということを思い出し、未千代にそう訊いた。
「あ………………、忘れていました」
「おい!」
お前も忘れてたんかい!
ぼくも忘れてたのであまり責められないけど、仕事に臨む本人がそれじゃ済まないだろうが!
色々な大人に迷惑をかけていることになる ――― しかも仕事をすっぽかした理由が、兄を罵倒し続けていました、じゃあ誰も納得してくれないぞ。
「いえ、確かに仕事の存在は忘れていましたが、次の仕事は21:00からですので、まだすっぽかしてしまったわけではありません」
「それでもあと十分しかないじゃないか」
それに、こういう仕事は多分、開始十分前くらいには、撮影現場に向かったほうが良いんじゃないか?
「うう……、しかし……」
それでもなお、食い下がる姿勢を見せる未千代に呆れつつ、ぼくはひとつの提案、というか確認を、審判である兎怜未にする。
「これって、おれから未千代に対して、何かを言うってのはアリなのか?」
「え、うーん…………、本来は勝負の趣旨と違っちゃうから、ナシ、と言いたいところだけど、いい加減ケリをつけないと、祝也兄さんはこの後更に予定が控えているし、未千代姉さんはこの後仕事があるし、これ以上はお互いに不毛だから、この際アリと言うことにしちゃおうか」
ん、ぼくがこの後予定あるって、言ったっけ?
ああ、兎怜未さんお得意の、超頭脳による超能力ですか。
「ちょ、ちょっと兎怜未さん⁉ 今日、私に対して冷たくないですか? 流石に祝也さんからの罵倒を受けたら、耐えられないですよ、私!」
いや、ぼくが未千代に対して罵倒……、とまでは言わなくとも、拒絶するような発言は、これまで普通にしてきているんだから、未千代もある程度耐性がある筈なんだが……、そう、だから。
ぼくが今から、未千代へ送る言葉は、罵倒ではない。
「…………そうだよな」
「え?」
ぼくは言う。
哀愁たっぷりに。
卑屈になりながら。
「薄々気づいていたよ、口ではいつも、おれに愛を囁いたり、結婚を申し込んできていたりしたが、本当はおれのことが嫌いだったんだよな」
「え……、いや、ちょっと、祝也さん」
勿論、一連の未千代の罵倒は、嘘であるとわかっている、流石のぼくでも、その嘘は簡単に見抜ける。
しかし、わざとその嘘に気付いていないかのように、ぼくは続ける。
「だから敢えて、好きだとか、結婚して欲しいだとか、そういう発言をすることで、ぼくに意地悪をしていたということなんだろ?」
「しゅ、祝也さん、そんなことないですよ、この勝負のための嘘に決まって ―――」
「いやいや、もう強がらなくても良いんだ、未千代。お前の本心は、『おれとは口も利きたくない』とか、『おれを見るだけで悪寒がするので、今すぐに眼前から、いなくなって欲しい』というほうなんだろ? ワカッタヨ、イママデイヤナオモイヲサセテワルカッタナ、ジャ、ソウイウコトデ」
まあでも、未千代の嘘に気付かないふりをして発言するというのは、つまりぼくはぼくで嘘をつくという行為にあたるため、どんどんと発言ががちがちの棒読みになってしまったが。
「うわあああああ! 待って、待ってください、祝也さん‼ 負けです! 私の負けですから、そんなこと言わないで下さい~!」
未千代は、そんなぼくの明らかに不審な言い方にも気付かず、早々に(全体で見ればようやく、と言うべきだが)白旗を上げた。
「はーい、祝也兄さんの勝利でーす、じゃあ未千代姉さんはさっさと仕事へ向かってくださーい。そして兎怜未たちはさっさと帰るよー、祝也兄さん」
「ああ! お待ちください、祝也さん、兎怜未さん」
未千代は、兎怜未の無慈悲な進行に、咄嗟にストップをかける。すると兎怜未は「えー、どうせ未千代姉さんは祝也兄さんに用があるんでしょ? じゃあ兎怜未、先にタクシーに乗っておくからね」と言いながら、さっさと楽屋を後にしてしまう。
「お、おい兎怜未……、行っちまったけど、良かったのか、未千代」
「え、ええ。まあ」
「で、用ってのは何だ?」
すると、未千代はもじもじしながらも、『あるもの』をぼくに手渡してくる。
「ああ、チョコレートか。色々あり過ぎて、そのルール忘れてたよ」
「忘れないで下さいよ……、菜流未さん程、上手くは作れませんが、私も、その……、一生懸命手作りしたんですよ」
おお、そうなのか……、いつもぼくたちは、料理全般を縞依か菜流未のふたりに任せっきりなので、未千代が作った料理を食べることが、地味に一度もなかったような気がしてきた。
一体、未千代の料理の腕は如何程のものなのだろうか、少し気になる。
そして、何だか表現し難い疲れというのもあってか、夕方あんなに飯を食べたのに小腹が空いてしまったぼくは、その場で未千代から貰ったチョコレートを食した。
「あ………………、ど、どうでしょう、お味のほうは」
「…………美味い」
これは驚いた。
普通に美味い。
美味いし、上手い。
まあ確かに菜流未と比べると苦しいものがあるかもしれないが、これはこれで、立派にお店に出せるようなレベルだと、ぼくは素直にそう思った。
「本当ですか! 良かった……」
そんな思いが顔に出ていたのか、未千代はほっとひと息漏らしながら言った。
「じゃあぼく、行くわ。チョコレート、ありがとな、マジで美味かったぜ」
兎怜未を待たせているのもあるし、やっぱり未千代の仕事の時間が差し迫っていることもあるので、ぼくは感想もそこそこに、楽屋を出ようと振り返ったが。
「あ、祝也さん、最後にひとつだけ、良いですか?」
未千代の声が、またもぼくの帰還を妨げた。
ぼくは少し面倒になりながらも、未千代の話をひと通り聞く ――― はは。
そして、ぼくは不意に安心してしまった。
未千代も、ようやく姉としての自覚が芽生えてきたのだと。
話始めの面倒くさいという感情が嘘のように、今のぼくの中は嬉しさで溢れていたのだった。
祝 9 也
現在22:00、場所は笹久世家、兎怜未の部屋。
「……どうしたの、祝也兄さん。勝負はすべて終わったんだから、あとはもう、彼女さんのところに行けば良いじゃない、何で兎怜未の部屋に来たのか、兎怜未の頭をもってしても、理解不能なんだけど」
兎怜未は家に着いて、そのまま妹奈の家に行かず、むしろ自分の部屋で油を売っている自分の兄に向け、悪態をつくように言った。
「……何でお前は、おれがこの後に用事を控えていることを知っていたんだ?」
「……それは朝にも言ったつもりだけど」
「あんなので納得いく筈ないだろ」
そう、当たり前のように今までスルーしてきていたけれど、幾ら頭が良いという理由だけで、ぼくと妹奈の今朝の事情を理解したり、この後ぼくが妹奈の家へと赴こうとしていることを察したりは、出来ない筈なのだ。
こいつは……、否、未千代も菜流未も、ぼくに何かを隠している。
「…………別に、さ。今日はバレンタインデーなんだし、彼氏と彼女が会う約束をしていることを看破したところで、何も不思議はないじゃない。そんなの、兎怜未じゃなくとも ――― 頭が良くても悪くても、簡単に察しが付くよ」
まあ……、そうなのかもしれない。
ぼくと妹奈が、この後会う約束をしていることを知っている、察している件については、その理由で片付くのかもしれない。
しかし。
「じゃあおれと妹奈が拗れちまって、その説明を受けにあいつの家に行く際に、妨害が入ることを、そしてその妨害に対する処遇を、お前はおれが言う前に既に知っていたよな。その理由はどう説明する気なんだ」
お前が、お前たちが。
「おれと妹奈の仲を引き裂いた元凶なのか……⁉」
「っ…………⁉」
妹奈は違うと言っていた。それでもぼくは、何処かでまだ、その可能性を捨て切れていなかったのだ。
彼女の言い分を信じることが出来ないなんて、確かにぼくは、あいつの彼氏失格なのかもしれない。
そしてそんな最低な自分を認めたくなくて、妹に八つ当たりをしている自分はきっと、兄としても失格なのだろう。
「…………勝負だ、兎怜未」
「……え?」
ぼくは言う。
未千代が別れ際に、ぼくに残した言葉を想起させながら。
「これは条件ということでもなく、ただのお願いなのですが……、兎怜未さんを仲間外れにせず、勝負をしてあげて下さい。兎怜未さん、傍観者で良い、審判で良い、だなんて仰っていましたが、本当は祝也さんと勝負したい筈なんです、いえ……、誰の手も借りずに、自分ひとりで一生懸命作ったチョコレートを食べて欲しい筈なんです。ですからお願いします、貴方の妹としてではなく、兎怜未さんの姉としてお願いします。どうか、兎怜未さんとも勝負をしてあげて下さい」
「勝負内容は、今までのふたりのように、そっちが決めて良い。勝敗結果による処遇も、基本的には同じだ。しかし、おれが勝ったらちゃんと、お前が手作りしたくせに渡さずに破棄しようとしていたチョコレートを、おれに寄越すこと、そしておれと一緒に妹奈の家に着いてきて、今回の一件の説明をすること、という条件を追加させて貰う」
「なっ……、祝也兄さん、祝也兄さんこそ、どこまで知って……」
しかしそこは、流石に頭脳明晰な兎怜未というべきか、「……未千代姉さんだな。全く、兎怜未の家庭は、兄さんも姉さんも、余計なことしかしないんだから」と、即座に真相に辿り着いた。
「ふう、じゃあ良いよ、勝負、しよ?」
そして、兎怜未は諦めたかのように、可愛らしい口調で、ぼくにそう言ってきた。
「だけど兎怜未との勝負は、あのふたりとは違って本気の勝負だよ」
「それじゃあのふたりとの勝負が本気じゃなかったみたいなんだが」
「勿論そうだよ」
「……へ?」
ぼくは、兎怜未のそのあまりにも早過ぎる肯定に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「その辺も祝也兄さんが勝ったら、ちゃんと説明してあげるよ、ま、どうせ祝也兄さんは兎怜未には勝てるわけがないんだけど」
「な、何だと?」
あからさまな挑発に、馬鹿なぼくはすぐに乗ってしまう。
「お前こそ気軽に勝負を受けてよかったのか? もう、小学生の、というか眠たがりの兎怜未にはしんどい時間帯に差し掛かってきているけれど?」
「ああ、それに関しては大丈夫。今日は長くなりそうなことを見越して、学園の授業、全部寝てきたから」
「それは別の意味で大丈夫じゃないな!」
そう、そこも地味に不思議ではあったのだ……、普段は21:00前後で、既に眠気に襲われ始め、22:00辺りになると、もう完全に眠ってしまう兎怜未が、ここまで普段の時と何も変わらない様子で居続けられるのはなぜだろう、と。
結果は拍子抜けも良いところの、単純で不純な理由だった。
全く、そんなのでクラスのみんなと馴染めているのだろうか……、いじめられたりしてなければ良いのだが。
「じゃ、ちゃっちゃと始めてちゃっちゃと終わらせてあげるよ、祝也兄さん」
「わあ、なんかカッコいいセリフだなあ」
「棒読みで言わないで……、勝負内容はズバリ、『三秒しりとり』だよ」
いや、ズバリって言われても、全然ズバリともピンともこないんだけど。
まるでみんなが知っている、万国共通の遊びみたいに言わないで。
「いやいや、そうは言ってもルールは単純明快だよ、普通にしりとりをしていくんだけど、お互いに、三秒でラリーし合わないといけないってこと」
「三秒って……、短過ぎないか」
「ちなみに勿論、存在しない言葉だったり、どちらかが一度言った言葉を言ったり、最後が『ん』になってしまったりしても負けだから」
「無視かい」
まあ確かに、時間制限を設けたほうが早期決着をつけられて良いのもわかるけれど……、ぼくは未千代との泥沼勝負を思い出したが、それでも一回あたり三秒で答えないといけないという、この事実は、相当なプレッシャーだ、とも思う。おまけに、三秒ルールを、一旦蚊帳の外に持っていったとしても、しりとりってのはつまるところ、語彙力のあるほうが勝つ勝負なわけで、ぼくと兎怜未でその力量を競っても、結果は火を見るより明らかである。
「というかお前が知っていても、おれが知らない言葉についての判定はどうすんだよ。お前がおれの語彙力の低さに
「そういうことなら、私にお任せを」
「うわあ!」
「あたしもいるよーん」
いつの間に現れたのやら、気付けばそこには、仕事終わりの未千代と、すっかりリラックスムードな菜流未がいた。
「この勝負、私たちが責任をもって審判させて頂きます」
そういう未千代の手にはスマートフォン、そして力持ちの菜流未は、家族共用のデスクトップPCを両手に抱えていた。
「あたしたちが、ふたりの答える言葉が実在するのかどうか、瞬時に調べて判定したげる、ミチ姉はウレミン担当、シュク兄には一応あたしがついてあげるから、感謝してよね」
「一応って何だよ、引っ掛かる言い方だな」
「いやシュク兄のことだから、どうせみんながわかる言葉しか言わないだろうなって、だからあたしはあくまでおまけで来ただけなんだよ、それ以外にここへ来た理由は全くないんだけれど」
「お前だって語彙力が皆無な馬鹿という点では、おれとそう大差ないじゃないか」
「馬鹿じゃないやい!」
「あれ、それよりも菜流未さん、先程は、祝也さんにチョコレートの感想を聞くんだ、と張り切っていらっしゃいましたよね?」
「バッ! ちょ、ミチ姉! それは言うなあー!」
何というか、話がどんどんよくわからない方向に転がっていく。これだから、笹久世家の兄妹が一同に会するのは嫌なんだよなあ。
尤も、ぼくも立派にその一翼を担っちゃっているので、大きい声では言えない愚痴なのだが。
「大体『瞬時に』って言ったって限度があるだろ、知ってる言葉は良いとしても、知らない言葉が飛び出してきたときに、少なくとも三秒で調べて良し悪しまで判定なんて出来ないだろ」
「何を仰いますか、祝也さん」
と、珍しく未千代が得意気な口調で割って入ってくる。
「私は花も恥じらう、今時の女子高生、JKなのですよ。JKのスマートフォン入力のテクニックを、菜流未さんの頭脳と同列で語って貰っては困ります」
「今時の女子高生って言う割には未千代姉さん、スマホを『スマートフォン』って略さず言うんだね」
「ん……? ミチ姉、あたしの頭脳が何だって?」
『馬鹿にして貰っては困ります』ってことか。
中々酷いこと言うな、こいつ。
当の本人はディスられたことに気付いていないし。
ま、この自信があるからこそ、未千代は慕っているぼくではなく、難しい言葉が飛び出しそうな兎怜未のほうを担当する、ということなのだろうか。
「ああそうだ、じゃあさっきチラッと話題に出たように、菜流未のチョコレートを頂くか、まだ食ってなかったし、頭脳戦の前に糖分を補給しておこう」
「え、シュク兄、あたしのチョコレート、食べてくれてなかったの?」
「無茶言うなよ、あんな沢山の飯を食った直後に食えるかって」
でもさっきミチ姉のチョコレートは食べたって聞いたよ、ぶうぶう、と豚のような鳴き声をあげる菜流未を尻目に、菜流未から貰ったチョコレートを取り出す ――― 幸い溶けもせず、形も崩れずで、ほぼ原形を保っていた。
それではいただきます……、ぱく。
まあ、当たり前だが滅茶苦茶美味い。未千代のチョコレートも確かに美味かったが、やはりどうしたって、美味さのレベルは菜流未に軍配が上がる。
「シュク兄! ミチ姉とあたし、どっちのチョコレートが美味かった?」
「お前! その問いは地雷だとなぜ気付かない!」
ぼくは咄嗟に叫んでいた。嘘がつけないぼくからしたら、地雷どころか地獄のような問いだ。
「「じー」」
ふたりの視線が痛い……。
「………………どっちも、とても美味しかった」
「……ふんっ! まああたしが作ったんだから当然だよね」
「嬉しいです、祝也さん♪」
あれ、何か普通に丸く収められたぞ……、なぜだ?
ああそうか、先程のぼくの回答は、別に比べた上での感想を言ったわけではないからだ。
『どっちもとても美味しかった』と感じたのは紛れもなく本当で、だから嘘をついた時みたいに、あからさまに変な様子になる、と言ったこともなかったんだ。
なるほど、ぼくの嘘がつけない性質は、こんな思わぬ抜け穴があるのか、自分のことながら、知らなかったぜ。
「……よし、まあ良いだろう、じゃあ始めようか、兎怜未。最終決戦とやらを」
「くふふ、勝負を挑んだこと、後悔させてあげる」
無駄に恰好良いセリフを交換し合う、ぼくと兎怜未だった。
「じゃあ、ウレミンから、しりとりの『り』で始める、で良いかな」
「祝也さん」
菜流未がスタートの段取りをしている時に、未千代がぼくを呼んだ後に、口パクで何かを伝えてきた ――― 多分だが、『ありがとうございます』と言っている気がする。何のことはない、ぼくが未千代のお願いを引き受け、兎怜未に勝負を挑んだことについて、感謝しているのだろう。
まあ別にぼくとしては、此度の一件で、三愚妹の間で何かしらの策謀があったらしいことを確定させたいってだけで、未千代の頼みを聞き入れたのは、あくまでそのとっかかりになりそうだったから利用しただけで、他意はないんだからね。
さて、それではお待たせしたが、いよいよ勝負を始めよう。最終決戦だからというわけではないが、菜流未や未千代のそれとは違い、ノーカットで勝負をお届けしたいと思う。
「リス」
「……スイカ」
「
……ん? 何か今、兎怜未の言葉から、得体の知れない違和感を覚えたんだが……、気のせいか?
「……スルメ」
「メロス」
ああ、人名、というか、特定の作品の登場人物って、アリなのか。
「スズ」
お、我ながらこれは良い攻撃だ、『ず』なんて早々思いつかな ―――
「ズーノーシス」
「は?」
何だその言葉⁉
「あります、祝也さん、『す』です」
言葉の解説を聞くことも許されず、ぼくは未千代に促されるように、しりとりへ引き戻される ――― というか本当に調べるの早いな、未千代。
そしてここまで来れば、流石に馬鹿なぼくでも気付いた ――― 兎怜未のやつ、言葉の最後を『す』で固定してきてやがる。
普通に考えて、三秒しか考える時間を与えられていないこの状況は、どうしたって、何とかして、実際にある言葉を考えて、ひねり出すことしか出来ない筈なのに、兎怜未は、三秒どころか、ほぼ即答で、的確に最後が『す』になる言葉で攻めてくる。
これが本当の言葉攻め(正しくは責め)ってか。
「す……、ステレオ!」
ぼくは、自分と妹との、あまりのレベルの違いに、動揺を隠せぬまま、恐らく三秒ぎりぎりのところで何とか答える。
「オムライス」
しかし、そんなぼくをまるで嘲笑うかのように兎怜未は、わざと小学生らしい言葉をチョイスして、淡々と答える。
「……すだち」
「チョイス」
な……、こいつ、ぼくの語り部を覗き込んだんじゃないだろうな。
「あ……、スケッチ!」
きた!
どうやらぼくにも神様という方は味方をしてくれたらしい、咄嗟に二連続で『ち』を返すことに成功した!
勿論、兎怜未のように狙ったわけではなく、偶然の産物なんだが ―――
「チャンス」
だとでも思った? と、兎怜未がニヤニヤしながら、またも即答する。
くそ……、やはり語彙力の差、否、地頭の差が圧倒的過ぎる。兎怜未が難しい言葉を使ったのは、まだ一回しかない、それ以外は誰もがよく聞くワードを答えている、それは兎怜未がまだ、語彙力を殆ど発揮せず、地頭での勝負しかしていないということになる。
つまり、手を抜かれているのだ。
舐められているのだ。
遊ばれているのだ。
いつもの兎怜未のように、ぼくを足蹴にして、
そう思うと。
「……スイッチ!」
入ってきたぁ!
「流石変態祝也兄さん……、チェス」
ここでぼくを罵倒するために、初めて即答するのをやめた兎怜未。しかし、なおも『す』攻撃は続く。
なら……、これでどうだ!
「スイス!」
「くっ……」
恐れていたことが起きた、というような顔をする兎怜未。これには流石の兎怜未も『す』以外で返すしか ―――
「なんてね、スクロース」
「物質ですね、あります」
くそっ、マジかよ。『す』から始まって『す』で終わる言葉って、『スイス』以外にあるのかよ……。
でも、いつも後ろ向きに捉えがちなぼくが、珍しく前向きに捉えるなら、ここで難しい言葉を引き出すことに成功したってことは、ちょっとは健闘出来ているということになるのではないだろうか。
他に何か有効な一手は ――― ああ! 駄目だ、思いつかねえ! タイムアップを迎えちまう!
「スクラロース!」
しまった! 咄嗟に答えたら、兎怜未と同じ言葉を言ってしまって、しかも噛んだ!
これは完全にぼくの負け ―――
「おお、凄いよシュク兄! その言葉、ちゃんとあるよ!」
「えっ」
「ちっ、悪運の強い……、スキウルミムス」
あとで聞いたが、スクロースとは別で、スクラロースというものも実際にあるものらしい、全然ぼくは知らなかったけど。
で、兎怜未は今なんて言ったの?
「恐竜の一属ですね、あります」
よく聞いていなかったが、どうせまた『す』だろ、うーんと。
「スコットランド」
流石に『す』返しはこれ以上思い付かなかったので、せめて難しくしようと、濁点で攻めてみる。最初に兎怜未から難しい言葉を引き出せたのも、濁点の『ず』だったからな。
「ドメスティック・バイオレンス」
「あー、いつも兎怜未がおれにやってる ――― いだっ」
蹴られた。
ああ、こいつのぼくに対するS的活動は、極力他の人には隠しているんだったな、多分、未千代にも菜流未にもバレバレだと思うが。
特に最近のは鮮烈だったな、立たせてある状態、つまりタイヤが下で、転がせばちゃんと駆動する状態のスーツケースの上で正座させられて、脚を組んで椅子に座った兎怜未のストッキングを口で脱がせるというプレイだったんだが、兎怜未が、届きそうで絶妙に届かない低めの位置に脚を組むので、前に屈まなければならないのだが、屈み過ぎると、バランスを崩して痛い目を見るので、本当にあれはそそられる、もとい、危険な行為だった ――― って。
「スーツケース!」
ここにきて、兎怜未とのプレイが役に立つとは。
人生一度は、妹に虐められてみるものである。
「……ふん、ステータス」
どうやら兎怜未も、ぼくが『スーツケース』に至った経緯を理解したらしく、不機嫌そうに答えた。そこにぼくは追い打ちをかけるように、答える、そう。
「ストッキング!」
とね。
「……グラフィカルユーザーインターフェース」
よしよし、徐々にではあるが、兎怜未の答える間隔が広がりつつある。
その言葉が実際にあるのかどうかはわからなかったが、どうせあるのだろう、と思っていたら、未千代が少し遅れて「GUIのことですね、あります」と言ってくる。まあ長い横文字だったから、調べるのに少し時間がかかったのだろう、それでも早過ぎるくらいだが。
流石JK,恐るべきスマホテクニック。
「スマホ」
当然『スマートフォン』とは言わない。
「ホッチキス」
とはいえ、いい加減しんどくなってきたのも確かで、逆に今までよく兎怜未の猛攻に耐え切ったと、自分を讃えてあげたい気分になってくる。
成り行きや、兎怜未も言っていたように悪運も良くて、何とかここまで食らいついてきてはいたが、いよいよ何も思いつかなくなる。
しかしそれでもぼくは勝たねばならない、諦めてはならないのだ、今回の事件の真相を知るためにも、妹奈に話を聞くためにも。だから何とかして、ひねり出さねばならない。
落ち着け、ぼくは、具体的にここまでどうやって兎怜未の猛攻を耐えてきた?
……そうだ、確かに成り行きや悪運もあるのだろうが、その中でも特に、この語り部から発露したものが大半を占めているんじゃないか。だったら滅茶苦茶でも良いので、何か考えるんだ。
えーっと先ず兎怜未が直前に言った言葉は何だっけ? そうだ『ホッチキス』。でもあれって確かそれを作った会社の名前であって、確かそれとは違う別名があって、それこそが正式な名前だった筈なんだけれど、何だったっけ、確かそれこそ『す』から始まると思ったんだけど、ああ思い出せない、それに万一思い出せたとしても、それはぼくの思い違いで、実際は全然『す』から始まらない、別の言葉である可能性も否定できない、そもそもぼくの記憶なんて正しかった例のほうが稀だし、だったら思い切ってそれは諦めてでは別のことに思いを馳せたいんだけれど、あーダメだ始めにホッチキスから入っちゃったからもう頭の中ホッチキスだらけだよホッチキスのあの独特な針がぼくの頭を
「好き」
「へ⁉」
…………。
………………。
……………………。
十秒は経った。
それなのに兎怜未、というかみんな固まったまま、何も言わない。
そしてそのまま約一分が経とうというタイミングで、菜流未が宣言するのだった。
「………………え、えーっと、とりあえずこの勝負、シュク兄の勝ち?」
祝也 1&0 妹奈
「んん? それってでも、本当に祝也の勝ちってことで良いのかな?」
現在23:30、場所は火殿 妹奈の自宅前。
ぼくは、今回の一件の顛末を、ぼくの恋人 ――― 元、恋人か? ともかく、妹奈にひと通り告げた。そして、最後の兎怜未との勝負の話をし終えた時、先ず始めに妹奈は首を傾げて、そう訊いてきた ――― ぼくの呼び方が『祝也』に戻っているのに、僅かな喜びを覚えたが……、何だか、最初はぼくが、妹奈のあれこれを
「何でだよ、曲がりなりにも、ちゃんとしっかりぼくが勝ってるだろ。何を疑ってるんだ」
「いや、しりとりで言って良いのって、基本的に実際にあるもの、いる人物の名前だけじゃないの? 『好き』って動詞の連用形であって ―――」
「つまり『好き』も立派な名詞、だろ?」
ぼくは妹奈の言葉を遮るように、言った。
「……まあこれは今、後ろのタクシーで眠ってるあいつからの受け売りだけどな、『そもそもこのしりとりは、そこまで厳格なルールは設定してなかったんだし、そういう意味ではやっぱり、兎怜未の負けだよ』ってさ」
でも……、いきなり妹に告白するのは、どうかと思う……、という言葉が続いていたのは、わざわざここでは言うまい。
さておき、ぼくは兎怜未との勝負を制した後、約束通りチョコレートを受け取り、妹奈の自宅まで同行して貰い、説明を求めたかったのだが、流石に今日一日の活動で疲れ切ったのか、ここへ向かう途中のタクシー(例の未千代が寄越してくれたやつだ。なるほど、自分が免許を持ってないから自動車は無理だな、と勝手に思い込んでいたがこの手があったか、という気分である)で、眠ってしまったのだ。
結果的に約束は半分反故にされた形にはなってしまったが、流石にそれで兎怜未を責め立てるような狭量なことはしない。
「ふうん、まあこの子たちがそれで納得しているなら、わたしがこれ以上口出ししても、無意味だよね」
「ああ……、それで、今度はこっちの番なんだが」
「んん? 何だっけ」
ええ、まさかこいつ、ぼくがここに来た理由、忘れたとかいうんじゃないだろうな。
「ああ、彼女からのチョコレートを貰いに来たのね、全く健気な男だねえ、祝也」
「ちっがーう! いや本来はその予定だったけども、今朝お前が急にぼくと別れたいって言い出して、その理由を知りたかったら、今日中にわたしの家に来いって言ったから、こうして
「ああ! そう言えばわたし、今朝そんな嘘ついてたね、忘れてたよ」
「嘘⁉」
うそ⁉
ウソ⁉
「いやいや、流石に今回の一件、何かがおかしいって、祝也自身も薄々気付いてたんじゃないの?」
「いや、まあそうだけれど……、流石にお前の別れ文句が嘘だったなんて、そして嘘をつかれた奴が、その嘘をついた本人に指摘されるまで忘れてたなんてことは、どうやっても気付けないだろ! ……じゃあ結局今日一日は、何だったって言うんだよ?」
すると妹奈は、ようやく、といった感じで、語り始めた。
昨晩、祝也にチョコレートの約束をする電話をしたよね? その後、わたしの携帯のもとに、一本のテレビ電話がかかってきたの、すると見覚えのあるお顔がみっつ……、言うまでもなく、祝也の妹ちゃんたちだった。
この子たちに自分の電話番号を教えたっけ? という疑問が始めに湧いたけれど、電話越しのあの子たちから、ただならぬ雰囲気を感じて、わたしは先ず用件を訊いてみた。
すると電話越しの、テレビ電話の画面越しの三人は、何の前振りもなく、突然揃って頭を下げて、「どうか私(あたし)(兎怜未)たちに協力して下さい!」と言ってきた……。何事かと思ったよ、普段、祝也と一緒に居ると、嫌悪とは言わないまでも、何処か鋭い視線をあの子たちから浴びせられていたわたしだからさ。でもこの時のあの子たちは、鋭い視線どころか、わたしに助けを求めるような、縋るような、救いを求めるかのような視線をしていた。
わたしはとりあえず、話の全容が全く飲み込めていなかったから、あの子たちに事情を説明するように促してみた。そうしたらこのような回答が得られた。
彼女たちは、自分の兄にチョコレートを渡したい、しかし、普通に渡しても「いらない」と断られてしまうかもしれない、だから恋人であるわたしに協力して貰って、自分たちが兄にチョコレートを渡せる環境を整えて欲しい……、まあ大まかに言えばこんな感じだった。
わたしはふたつ返事でOKを出したよ。え、なぜ普段は自分を腫れ物のような扱いをしている奴らのお願いを、そんなあっさりと引き受けたのかって? やだなあ、恋人の家族とは良好な関係を結んでおきたいという考えは、誰でも持っていて何の不思議もないことじゃない。だからこれを機に、あの子たちのわたしを見る目が、少しでも良くなってくれれば、あわよくば仲良くなってくれれば、と思ってね。
……というのは嘘、とまでは言わないけれど、本心ではないかな。確かにあの子たちと良好な関係を結びたいという気持ちがあったこと自体は否定しないけれど、わたしの本心は別にあった。
そう、わたしの恋人である、聡明な祝也くんにはもうピンと来ているよね。
楽しそうだったから。
他のどの理由を差し置いても、これに尽きる。
だからあの子たちへ協力することに、わたしは全く躊躇しなかったし、むしろノリノリで作戦の立案 ――― 別れ話を持ち出して、祝也を無理やり行動させることまで自分で考えちゃったけれど、それに際してわたしはふたつ程、あの子たちに条件を課した。
ひとつは今日あったことを、各々で逐一報告すること。
もうひとつは勝負をするにしても、祝也に対して、あまりにも無理難題な勝負内容、勝敗条件を課さないこと。
前者は自分が蚊帳の外のままだと楽しめないから、後者は最終的に祝也へ嘘だったと告げないと、文字通り洒落にならないから、だね。
だから勝負は、基本的に祝也に有利なものが多かったでしょ?
……あれ、そうでもなかった?
まあ長女の未千代ちゃんは中でも、祝也を特別視している節があるからね……、それでも五分五分、それより少しだけ祝也が有利になる勝負を仕掛けた辺り、一応今回に限っては、わたしの言い分を守ってくれたみたいね。
意外だったのは、やっぱり三女の兎怜未ちゃんだよね。昨晩のテレビ電話では不参加の意を示していなくて、当日の初等部が放課後になるタイミングで、急に不参加の報告をしてきたの。かと思いきや、土壇場でその立場を翻し、しかも祝也が圧倒的不利な内容で勝負を挑んだんだから、全く天才小学生の考えることは、わたしたちにはわからないねえ。まあわからないなりに予想を立ててみると、純粋に恥ずかしかったのかもね、上ふたりの姉は料理が上手な手前、自分のチョコレートを兄に渡すことに委縮してしまった、とか。だからチョコレートを渡さずに済む『審判』なんてポジションに就いたり、いざ勝負することになったら、本気でぶつかりに来たり、とかね。
だからあの子たちからの報告を、そして今、祝也がしてくれた報告を聞く限り、わたしの条件を、真の意味で守ってくれたのは、次女の菜流未ちゃんくらいだったのかもしれないね。何だかんだで、真面目だよね、あの子。
まあそれでも、今回は未千代ちゃんや兎怜未ちゃんのことを別に責めようとも思わない、特に兎怜未ちゃんの、素直になれないその姿には、同情しちゃうところもあるしね。それに結果的には、ちゃんと祝也はこうして来てくれたわけだし。
わたしのことを思って、奔走してくれたわけだし。
ね、わたしの彼氏さん?
「わたしは、その事実を知れただけでも、今日の作戦を実行して良かったって思ってるよ……、とはいえ、ごめんね? こういうの、祝也が嫌がるの、わかってたんだけど、ついついはしゃぎ過ぎちゃって ―――ってちょ⁉」
ぼくは、溢れる思いを抑えきれず、妹奈の身体にしがみつくように抱きつく。
良かった……、本当に良かった。
ぼくは怒りとか哀しみといった感情より先に、安堵で満たされていた……。
彼女が初めてぼくに告白をしてきたときも、このようなえげつない嘘をつかれたことがある。その際のぼくの感情は、怒りや哀しみで支配されていたが、今回は本当に垣根なく、そのような感情がないのは、それだけ、火殿 妹奈のことを当時より深く知り、当時より好きになっていたからだろうか。
ぼくが、火殿 妹奈を垣根なく、愛しているからだろうか。
「…………あらあら、甘えん坊でキモい彼氏だこと」
「ここでキモいは、流石に傷付くということが、なぜわからない」
「おっと失礼、口癖になっちゃってて」
「この際だから言わせて貰うけれど、お前のその、楽しければ何でもやろうとする趣味嗜好だって相当キモいからな」
「な、何だとお? わたしはこれでも、頭が良くて人当たりの良い、吹奏楽部の希望の光なんだぞお? そんなわたしに対して、よりによってキモい彼氏である祝也がキモいって言うの?」
「うん」
「即答だね」
「うん」
まさかこのいつものやり取りを、逆転した立場で言うことになろうとは。
こんなイレギュラーなやり取りは、本編でやるべきだったんじゃないかな?
「さて! じゃあ見事、ここまでたどり着いた笹久世 祝也選手には、彼女からの手作りチョコレートの進呈をしないとだね!」
「…………」
「んん? どうしたの?」
いや、ここで隠しボス的なアレで、実は妹奈との勝負が、最後の最後に残っていたのよおほほほほ、という可能性を、この瞬間まで少し警戒していて(主に尺的な警戒)、そこはどうやらシンプルにチョコレートを頂けるだけのようで良かった、と先程とは違う意味で安堵した。
「あ……、いけない、そうは言ったものの作ったチョコレート、冷蔵庫に保存したままだったよ、ちょこっと、取ってくるね、チョコレートだけに♪」
などと、つまらんギャグを可愛らしく言い残して、妹奈は一旦、自身の家へと姿を消す。
全く、あんなつまらないギャグを、どうして自信たっぷりのプリティな笑顔で言えるんだか。ホント、ぼくだからそのギャグを可愛らしいと、愛らしいと思えるんだからな、他の奴だったら、普通に引いてるからな、やれやれ、やっぱり火殿 妹奈という女は、ぼくだけに相応しい女だぜ。愛してるぜ
……ああ、そういえば。
ぼくはまだ、兎怜未のチョコレートを食していないことに気付いた。
料理が上手い上ふたりの姉にコンプレックスを感じ、一度は勝負を回避してまで渡し渋ったものの、最終的に兎怜未は、ぼくにそのチョコレートを渡してくれたのだ、食べないなんて失礼極まりない。
妹のことが嫌いでも、礼節は重んじるのが、ぼくの矜持だ。
そんなわけで、妹奈を待つ今がチャンスだと考え、兎怜未から貰った、チョコレートが入っている袋から、それを取り出す……、それにしても、落ち着いたところでこう、改めて思うけれど、兎怜未がぼくへの同行の際、端々にぼくと妹奈のやり取りを見てきたかのような発言をしていたのは、何のことはない、始めから三愚妹と妹奈がグルだってオチだったのか。
何の捻りもない、オチにすらなっていないオチだったなあ。
がしかし一方で、捻ったオチであるとも同時に言えるかもしれない……、そう、妹たちが作ったというこのチョコレートたちだ。そもそもあいつらが妹奈と手を組もうとした経緯は、あいつらがぼくに、チョコレートをちゃんと渡したいから、という理由であったということ、そしてあいつらから何処か勝負の本気さが伝わらなかったのも、同様の理由であったこと(兎怜未は除く。本来はその兎怜未から、その説明を受けるつもりでいたが、奇しくも、妹奈から聞けてしまった)。でも何だかそれは……、もっと普通に渡せよ! なんで勝負の景品という形でしか渡せないんだよ! と普通に突っ込みたくなってしまうような回りくどさ、捻くれ具合さで、そこは同じく捻くれ者なぼくに、あいつらが似てしまったのかもしれないと反省する。
というか流石に、バレンタインデーのチョコレートくらい、捻くれずに、普通に貰うって、たとえ妹から送られたものでも……、まあ確かに、貰った時に顔が引きつる、とかどのように処理しようかを考えて、お礼の言葉も満足に言うことが出来ないかもしれない、とか思ってたことは否定しないし、実際に口を突いて出てしまうかもしれないけれど、そんなことを何だかんだと言っても、最終的には有難く貰うよ………………、普通に嬉しいし。
…………ん?
大きさ、及び形状は、丁度ピンポン玉くらいだったが、何だか表面にざらざらした小さな粒が沢山ついていて、これだと茶色という色も相まって、ピンポン玉と言うより、泥団子という感覚に近いチョコレートが、袋の中には入っていた。
まあとりあえず、食べてみよう、いただきます、ぱく……、ん⁉
「げほ! ごほ! ちっ、あいつ、砂糖と塩、間違えやがったな!」
そんなド定番なミス、今時しますかね⁉
しかも表面や袋の中に、塩の結晶が付着している所からわかるように、多分、分量も相当間違っていると思われる。
…………今まで兎怜未の料理というのは、未千代同様、食べたことがなかったけれど、あいつ、もしかしなくとも、料理がお得意でない?
……まあ、あいつもまだ初等部に通うお子ちゃまなのだ、そんな奴にあいつらのような料理のクオリティを求めてはいけない、むしろこの程度の失敗、笑い飛ばしてやって、次また頑張れよ、と励ましてやるのが、良い兄さんってやつなんじゃなかろうか。事実、咳き込みはしたが、吐いてはないのだし! 世の中には居るらしいからな、食べた瞬間、生物の本能に呼びかけて、それを吐き散らかしてしまうようなものを作るメシマズという存在が。
妹を想うことの出来る優しい兄の心を持とう、盛るのではなく。
まあそうは言っても流石に口の中が塩辛いぜ……、何かで口直ししないと、と思っていたところで丁度、妹奈が玄関から再び姿を現す。
「ま、まいな、ちょっと早く、チョコレートをくれないか」
「ど、どうしたの? そんな急かさなくてもあげるよ、はい」
「ちょっと兎怜未のチョコレートがパンチ強くてな、妹奈のチョコレートを、申し訳ないが、口直しに使わせてくれ」
そう言えば、妹奈の料理を食べるのも、これが初めてだったな、一体どんな愛情を込めて作ってくれたのだろう、わくわく。
「それだったら、わたしのチョコレートじゃなくて、水なりお茶なりで口直しして欲しかったなあ……」
御尤もだった。
いや、この『御尤も』は水なりお茶なりで口直しして欲しい、という指摘を指して言ったのではない、わたしのチョコレートじゃなくて、という部分の指摘を指して言ったのである。
まあ、その………………、ぼくはこいつの彼氏だから、これ以上、野暮なことは言わない。ぼくのこの後の反応だけで、察して欲しい。
「ぱくっ、おえええええええええええええええええええええええええ」
「えっ、ちょっと、祝也⁉」
「明日は、とびっきりの手作りチョコレートを贈るから、期待しててね、祝也!」
うん、確かに『とびっきりの手作りチョコレート』だったぜ……、南無三。
こうしてぼくは、艱難辛苦のバレンタインデーを乗り切った結果、病院送りになったのだった。
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