第2話

あれは七年前、雨季も終わりに差し掛かるという頃合いだった。

私はその時、インラーの森と呼ばれる場所で瞑想をしていた。ナーガルモンの街の離れにある小さな森である。私はその森が好きだった。周りには何も無く、ただ静謐だけが満ちている。私はそこで毎日一日の大半を過ごしていた。


あの日もいつも通り、私は森の中で瞑想を行っていた。目を瞑り、ただ呼吸を整える。ゆっくりとした時間の流れを感じる。私にとって、それは何物にも代えがたい至福の時でもあった。


しかし、その日の昼頃、突如として、地鳴りが聞こえてきた。大地が揺れ、木々がざわめく。まるで何か巨大なものが地中を這いずっているかのような音に、私は思わず身震いした。

しばらくすると、その地鳴りは徐々に近づいてくるように感じられた。何が起こっているというのだ、と思いながら、音のした方角に視線を向ける。

次の瞬間、私の視界に飛び込んできた光景に、私は驚愕した。

「…………」


そこにいたのは紛れもなく、そのものだった。服を一枚も着ないその巨きな躰に、血のように赤黒い肌に禿げた頭。

その頭からは二本の角が紛れもなく生えている。

私は目を疑ったことだろう。

神秘に見た怪物が今、私の目の前で私を襲わんとしている。

私は助けを呼ぼうと努めようとも、喉に音が通らない。

持ち合わせの護身具で間に合わせることはもはやこの状況では不可能だ。


師は曰った「運命を受容せよ」と「罰は甘受せよ」と。

私は死を覚悟し、化け物と対峙した。


「下がれ、所為欺レーンコよ」

ふと頭上から女の声が聞こえた。


緑・白・黒の三色を貴重とした豪華絢爛な装飾を施された一枚の布にその身を包み、筋の通った上品な首筋には豪勢の限りを尽くされたチョーカーが下げられている。

フラクタルが複雑に絡まり合って、何層にも渡る構造を作り、その下には柔らかく膨らんだ胸を備えている。

血色の良い頬、端正な顔立ちから見るに、私は女を王族・貴族の者であると予想した。


女から命令を受けた所為欺レーンコと呼ばれた鬼はその動きを止める。

(女の下僕、、、なのか、、、)


「東の者よ、お前は何しにここに来た」

樹上から私に女は話しかけてきた。私は震える喉に力を込めて声を出した。

「瞑‥想に‥ござい‥ます」

「ほう、瞑想とな」

女は何かを理解したかのような面持ちで言った。私はその顔を見て、恐怖から救われたような気になれた。目の前に佇む鬼もその殺気を今はもう感じさせていない。

「このあたりは近頃物騒だ。この森で瞑想などという自殺行為は控えたほうがいい」

木漏れ日の中でその装束は照り光る。

「失礼ですが、、」

未だ芯の通らない声で、私は立ち去ろうとした女に声を掛けた。女は、なんだ、と薄ら笑みを包み隠さず聞き返す。

「貴方様はどうしてここに?」

「話す義理はないな」

女はニンマリと笑みを浮かべた。私には多少下品に映る。

「ところでお前、名は何という?」

王卿おうけいと申します。東の国から参りました」

「王卿よ、頼み事をしても良いか?」

「はあ、」

私は女の頼み事とやらに耳を傾けた。

「その話し方を止めて欲しい。私は確かに高貴な身分のものだが、僧の人間に丁寧な話口調で饗される程のものではない。私も硬いのは嫌だ」


私は当惑した。女の意味するところを解せなかった。私は彼女と話し続けるということか。

「わかりまし、あっ、わかった…私、いや俺からも聞きたいことがある...この鬼の正体を教えろとまでは言わない。お前の名前だけでも教えてくれ」


女も目を真ん丸に見開いて当惑した。


「…硬い話口調は手探りでやってるから、結構精神すり減るのよね。それにしても、初対面の女性に対して、いきなり「お前」は如何なものかとは思うわ…私の事は、そうね、アムリタと呼んで」

女のその急な変容ぶりに驚かされながらも、私は冷静を取り繕って返す。

「…名前を聞いているんだ。あだ名じゃない」

「ないんだもの、仕方ないでしょう。...それじゃあ、よろしく、卿!」

私は女神のような女の笑顔を前に言葉を失ってしまった。

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