第34話 世界の扉


 暮れたばかりの空は僅かな紅を残し、大半が濃紺に染まっている。

 魔族も人間も、誰も動こうとしない。声を発しようとしない。

 場は静寂に満ちていた。

 音が全くないというのは、なんだか異様だ。

 異様な空気の中、ディアは両手で石を抱えたまま呆然と扉を見つめていた。

 ディアだけではない。何もできずにいたのは誰もが同じだった。

 二つの世界を繋ぐといわれる世界の扉。

 扉は開いていた。

 人一人であれば通れるほどの幅。

 そこから微かに光が漏れている。

 そんな中、一番最初に我に返ったのはヤックハルスだった。

 ヤックハルスは早足に扉に近づくと、中途半端に開かれた扉の中を覗き込む。それから舌打ちし、激昂に顔を歪めて、ディアを振り返った。


「貴様……! その石を元に戻せ!」


 乱暴に靴音を立て、ヤックハルスが近づいてくる。

 逃げなくちゃ。

 そう思うのに、足が動かない。まるで鉛にでもなったかのようだ。

 恐怖と緊張に、体が竦む。

 ヤックハルスの手が目の前に伸びてきたその瞬間、ディアの周囲を風が渦巻いた。あえなくヤックハルスは吹き飛び、強かに頭を打ち付けた。


「ぐっ、なんだ……魔法?」

「まだ意識あんのかよ、寝てろって」


 苦痛に呻いて起き上がろうとするヤックハルスの後頭部を、誰かがぶん殴った。鈍く重い音がし、ヤックハルスは気を失って倒れる。

 ヤックハルスを殴ったのは魔法使いのローブに身を包んだ黒い髪と緑色の目の男だった。

 男の手にはいつの間に回収したのだろう、青い宝石があった。


「おい小娘、さっさとそれ寄越せ」

「あ」


 ディアは目を瞬き、それから戸惑う。

 迷うディアに別の声が言った。


「悪いようにはしない。後のことは魔王様が請け負ってくださると、そう聞いている。ディア、その石を我らに預けてはくれないか」


 渦巻く風。その中から現れたのは灰紫の羽毛に覆われた人ならぬ者だ。

 作り物めいた黒一色の目玉と先の尖った耳。鳥と人間を融合したような姿の魔族。

 最後に見たのはゼベル王都でのこと。その時の彼は珠の中、鳥の姿で眠っていた。

 ディアは安堵と驚きに力が抜けて、その場に座り込む。

 目の前に立つ魔族を見上げ、呟く。


「助かったんだ、グィー……!」

「ああ、アルジルが解呪の方法を探し出してくれてな」

「おうよ感謝しやがれ」

「それでディア」


 グィーはディアの前に膝をつき、目線を合わせて言う。


「事後交渉になって悪いが、お前をこの男の悪意から守った代償にその石を渡してほしい。それで契約は成立し、人と魔族の約束は守られたことになる」


 ディアは数度瞬きをし、ソロに視線を向けた。

 ソロは迷いなく一つ頷き、それを確認してからディアは胸に抱えていた宝石を差し出した。


「恩に着る。さて後は……」


 グィーは中途半端に開いた扉を見やって、目を細める。

 アルジルも険しい顔をしていた。


「これ、どうなるの?」

「そうだな、二つの世界は完全に繋がってはいないものの、このまま放っておくのはまずい。魔王様の力のおかげでまだ何事も起きてはいないが、長くはもたないということだ。いずれ何らかの影響が出るだろう」

「だったら早く扉を閉じないと……」


 ディアはふらつきながら立ち上がり、扉に近づこうとする。

 アルジルが言う。


「テメェにゃ無理だ。テメェっつかあれだ、そりゃ誰にもできることじゃねぇ。魔王様でさえその知識がねぇってんだからよ」

「どうして? 過去にも扉は開いたんでしょ? その時のこと、クレピスキュルなら知ってるんじゃないの?」

「詳しいことはわからんが……扉を閉めることができるのは扉の内側からのみだと、わかっていることはそれだけだそうだ」

「そうか、アルバ族か」


 すぐ後ろで声がして、振り向くとシオンとソロ、それにラータもいた。

 足元には昏倒したヤックハルスが寝かされていて、ソロがゼベルの兵士達に向け犬でも払うような仕草で手を振り、それから親指を下に向けた。


「とある書物に、アルバ族は扉の守り人だったのではないかとあったんだ。そして彼らが姿を消したのは千年前。扉が開かれたとされる時期と重なる。それはつまり、」

「扉の内側へ行き、扉を閉じたのはアルバ族だったと……そういうことか」


 シオンの呟きに、グィーが頷く。

 ディアは扉の間から、中を覗き見た。それはクレピスキュルが作り出した空間に似ていた。壁や天井、床がなく、突き当たる場所がない。底が知れない闇のようだ。夜の船上、甲板から見た海を思いだす。

 離れた位置に固く閉ざされた扉が一枚だけ浮いていた。


「あれがもう一つの世界の? 扉は開いてないみたいに見えるけど」

「ああ、だが鍵である光は向こう側まで達していたらしい。僅かだが魔力の波にぶれを感じる」

「おい、他になんかわかってることはないのかよ。お前らの王様は過去のこと何でも知ってんだろ? なんでその記憶がないんだ、おかしいじゃねぇか」

「確かに魔王様は何でもご存じだ、この世界で起きたすべてのことであればな」

「要するに異空間にまでは魔王の力が及ばないと?」

「中に入ってみませんか?」


 固い声で言ったのはラータで、他の者たちは皆一斉に彼を見た。


「ここにいても、何も得られる情報がないなら。ひとまず僕とシオンさんで……」

「なんでよ、わたしも一緒に行くからね。二人みたいに考えるの得意じゃないけど、他にできることあるかもしれないじゃない」


 ディアに詰め寄られ、ラータは唇を引き結ぶ。

 シオンが笑う。


「そうだね、みんなで行こう」


 まだ複雑そうなラータの手に、ディアは自分の手を滑り込ませる。ラータは短く息を吐いて、少し笑う。

 ソロは一度だけヤックハルスを蹴飛ばし、扉に向き直った。

 四人で扉の前に立つと、魔族たちが驚いて言う。


「まてよ、正気か」

「そうだディア、それに人間達。そんなことをすれば、お前たちがこちら側に戻ってこられなくなってしまう」

「戻って来るよ」


 ディアは笑う。


「扉を閉めて、それからこの世界に戻る方法を探すの」

「世界に影響を与えず戻る方法をね」


 そんな方法があるかどうかは、わからない。

 それでも、何もしなければ世界が危ないというなら、それをどうにかする方が先だ。後のことは、後になってから考えればいい。

 無鉄砲だとか、無謀だとかまた言われるかもしれないけれど、それでもそれがディアのやり方だ。

 恐ろしくないわけがない。

 それでも一人ではない。

 頭が良くて、行動力と判断力を兼ね備えた仲間が一緒だ。

 ラータとディアが扉の向こうに消え、その後にシオンが軽く手を振って、扉を潜った。


「ではまた」


 まるでまた明日会おうとでも後に続きそうな、一日の終わりに別れの挨拶をするときのような口ぶりだった。

 ソロもその後に続くが、扉の間から顔を出し、空に向かって叫んだ。


「おいクレピスキュル、聞こえてんだろ? オレたちがなんとかするまでどうにか持ちこたえろ。捻じ曲がった流れや歪みがあれば元に戻せ。いいな、オレがこの世界に戻ってきた時に知ってる場所や人間が全くいないなんてのは勘弁しろよ?」



―――荷が重いな。デート一回程度では割に合わんぞ。



 苦笑交じりの声が脳に直接響いてくる。慣れていなくて、なんだか気持ち悪い。

 ソロは口の端を上げて強気な笑みを浮かべた。


「いいよ、あんたの好きにしたらいい。したいことなんでもしてやるよ。だからやる気出して全力でどうにかしろ。不可能なんて数えるほどしかない魔王様なんだろ」



―――言うたな。取引成立だ。お前こそ約束を果たせよ、リシッツァ。



 リシッツァってなんだ。

 そういや、先日ラータの魔法の詠唱の中でもその名があったなと思い出したが、時間がないので、ひとまずソロはそのまま受け流すことにした。

 振り返ると、シオンとラータは対面に浮かぶ扉を調べていて、ディアもやや離れた場所で辺りを見回している。

 ソロはシオンの隣に並ぶと、意外と大きなその扉を見上げた。


「よぉなんか見つかったか?」

「いいえ、ここには代わり映えのしないこの扉くらいしか。それにしてもこれどこまで続いてるんでしょうね」


 シオンが身体ごと振り返り、果てのないその空間を見つめて言った。二つの扉以外には何もなくて、同じ光景がずっと続いている。迷い込んだが最後。二度と出られないだろうということは想像に容易い。


「あんまうろうろしない方が……いや、でも先に進まなきゃ、ここでこうしててもどうしようもねぇしな」

「ひょっとしてアルバ族の人たちは、初めからその知識を持っていたってことでしょうか」


 シオンの呟きにソロは首を捻る。


「え? だってそういう役目を担ってたんだろ。そういうのってあらかじめ知識を備わって生まれてくるとかそういうもんじゃねぇの?」

「そういう場合もありますけど、もちろんそうでないこともあって。まあアルバ族がどちらだったかはもちろん俺たちには知り得ませんが。前者なら、今俺たちがしてることってめちゃくちゃ無駄なんじゃないかなって」

「えっお前そんな今更」

「それはないと思います」


 焦りに苛立つ声をラータがすかさず遮った。


「もしも、彼らが元々その能力を持っていたのなら、それはクレピスキュルの知識の範疇ということでもあるんで」

「あ、そっか、そうですよ。彼らが元々知識を持っていたとしたら、その世界のすべてを知る魔王が知らないはずがないんですよ。つまるところ、彼らはこの空間へ入ってから、扉の閉じ方を知った」


 シオンがぱんと掌を打ち合わせた。希望が見えたことで、表情が明るくなる。失いかけていた覇気を取り戻して、それぞれ動き始める。

 その時、全く別の場所で声が上がった。


「あ!」

「どうした、なんかあったのか?」


 二つの扉の中間辺りに立つディアだった。ディアは頭上を見上げて、驚いている。

 確かに扉以外には何もなかったはずの空間に、巨大な球体が出現していた。球体は青と緑の光を帯びていて、ゆっくりと横方向に回転している。

 そしてそれは少しずつ近づいてくるように見えた。

 途中でシオンが気が付いた。


「ちがう、俺たちが移動してるんだ。俺たちというより空間が。止まっているように見えて少しずつ上に移動してる」


 やがて浮遊する球体の元に辿り着く。

 近くで見ると、球体を覆う光は文字だということがわかった。文字とはいっても、ディアの知らない文字だ。そもそも字というよりは絵に近い形状をしている。

 シオンやラータも見たことがないと言う。


「古代文字とも魔法文字とも違う……これは、どこの世界の言葉だろう」

「わかりません、でもこの球は魔法を帯びてる」


 シオンが下唇を抑えて唸る横で、ラータは球体に触れる。

 ディアがびくりとする。


「触って平気なの?」

「うん、少しだけ下がってて」


 短く息を吸い込むと、ラータの唇はあの不思議な響きの言葉を紡ぎ始めた。


「BliRen Din An wel ce Kom 異界の力、異界の壁、異界の言葉、異界の術。我は魔法に親しき者。恐れず、溶け込み受け入れよ」


 球面に触れていたラータの掌がずぶりと奥へ押し込まれるように沈んだ。思わず彼の腕を掴もうとするディアを、横からソロが無言で抑える。


「ここに潜在せし知識を我に授け、託し、我がものとせん。Run ex Cest!」


 ラータの身体が光の粒子に分解されて消える。

 ディアは呼吸をするのも忘れ、ひととき虚空を見つめた。後には何も残っていない。球体だけが変わらない様子でそこにある。


「大丈夫」


 シオンがディアの肩に触れる。


「大丈夫だよ、魔法ならあの子に敵う者はいない。俺たちは彼に任せるほかないんだ」


 ソロが強く頷いて言う。


「そうだ、なんてったってあいつはあの年で魔王と契約してんだからな」

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