第31話 母


 瞬きの間に、様々な色に変わる瞳。金のような、銀のような不思議な色合いの長い髪。

 クレピスキュルの、魔王としての本性が現れる。

 その声色にディアは何だか気が遠くなる。

 頭と体がふわふわして、どこか現実味がない。


「クレピスキュル!」


 すぐ近くで誰かが叫んだ。

 クレピスキュルはディアの髪を掌から滑らせ落とす。捩り編まれた髪が肩にぶつかり、重みが戻る。

 夢から覚めたようになって、ディアは一度大きく体を震わせた。

 鼻をつく臭いがすると思ったら、老爺が背を折り曲げ吐いていた。


「おい、しっかりしろ」


 シオンも同じようなことになっていて、ソロが背中をさすっている。

 クレピスキュルは一度わずかに目を閉じてから、開く。瞳の色が夏の夕暮れ時の雲の色に落ち着く。

 空気が少し変わった気がした。

 クレピスキュルはフンと鼻で息を吐き出し、虫でも払うような仕草で手を振った。


「だって黙って聞いてりゃさっきから何だこのジジイ、イラってする」

「え、あの、シオンさんたちどうしちゃったの?」

「クレピスキュルの魔力にあてられたんだよ。ディアとソロさんはクレピスキュルの守護が掛かってるから影響はあまりないみたいだけど」


 ラータは老爺の傍に膝をつき、支えながら言う。


「これでも抑えた方なんだがな」

「当たり前だよ。そうじゃなきゃ死んでる、いや死ぬどころじゃない。もっと大変なことになってた」


 ラータに睨まれてクレピスキュルは面白くなさそうに、指を動かす。

 苦しそうにしていた老爺とシオンが上体を起こして、何が起きたのかわからない顔をしていた。いち早く老爺が我に返り、クレピスキュルからディアと順に見た。その目には怒りと恐怖の感情が入り混じっていた。


「こんな、こんな化け物を引き連れて、あんたら二人も同じなのか? そうだろう! やはりお前は……」

「おじいちゃん!」

「出ていけ、この村から早く! そして二度とラータと、この村に近づかんでくれ!」


 まったく恐ろしい。

 お前もお前だ変な連中と付き合うんじゃない。

 将来をめちゃくちゃにされたんだぞわかっているのか。

 老爺は次々とわからないことを大声で発して、ラータは黙って聞いていた。黙っていたけれど、唇は引き結ばれて苛立っているように見えた。目は眇められていて、宙を彷徨っている。

 考え事をしている時のラータの癖だ。

 どうすればわかってくれるんだろうと、多分、ラータは一生懸命考えている。

 だけどそんなのは無駄じゃないかとディアは思う。

 どうすれば理解してもらえるかなんて、考えてやる必要なんてない。あんなことを言われて、吐き捨てられて、そんな努力をしてやるのだって惜しい。


「言われなくても出ていってやるわよ」


 ディアは立ち上がって言った。

 ラータに向かってまだ何か言っていた老爺はそれでようやく言葉を途切れさせた。


「でも、これだけは言わせてもらうけど、わたしは世界を壊すためにここまで来たんじゃない。世界を救うの」


 鍵を取り戻して、扉を開くのを阻止して。

 それから、

 それから、フェリカ。あなたにもっと色んな話をしたい。

 まだ行っていない色んなところに所に行って、もっとたくさんの話を。だってわたしまだまだ見てないものがあるから。

 世界は広い。

 東大陸だって、行ったことのない街や国があるし、シオンさんが教えてくれた。シオンさんの故郷にはものすごく高い山があって、頂上から見る景色は足元に霧が広がっていてまるで雲の上にいるみたいだって。

 それから南の大陸は年中あたたかくて、海が透明で、底には赤い珊瑚が咲き乱れる花のように広がっていて、鮮やかな魚たちがたくさん泳いでいる。砂浜は白くて、時々星の形をした貝殻が落ちてて、それを見つけたら幸せになれるって言われてるって。北の国では虹色のカーテンが夜空に浮かぶんだって。

 そんな不思議で美しいものが世界にはきっと、もっと他にも、知らないことで溢れている。

 わたしはそんなものを探しに行きたい。見に行きたい。

 だから世界が滅ぶのを黙って見ているわけにはいかない。


「なんにも知らないくせに。知ろうともしないくせに勝手なことばっかり言わないでよ、このばかや、いやド……でもなくて」


 ソロがぼそっと言った。


「くたばりぞこない?」

「それ! くたばりぞこない!」

「年頃の娘に下品な言葉教えないでくださいよ」

「たくましく育っていいだろ」

「く、くた」


 老爺は顔を真っ赤にし、怒りに震えていた。

 老爺が何か言う前に、ディアは思い切り舌を出して家を飛び出す。

 ざまあみろと思う。

 それでもやっぱり胸の奥が気持ち悪くて、それが頭や、手、足の先にまで広がるような感覚があって、ディアの中を満たした。

 村人の誰か、通りすがった人が、驚いた顔でディアを見ていた。

 気づかないで、何か作業を、立ち話をしている人もいた。

 ディアは取り合わず、村の入口に向かって大股でどんどん進む。

 村を出てどこに向かおう。遺跡、どっちの方向にあるんだろう。

 シオンやソロ、ラータにクレピスキュル、置いて出てきてしまった。どうしよう。どこか、村の入り口の傍で待つか。戻るのは嫌だ。村の中にとどまるのもいやだ。少しでも早く出ていきたい。誰もいない場所に。誰かの目に触れられるのが嫌だった。

 皮膚の表面がぞわぞわする。

 言ってやったのに。

 吐き捨ててきてやったのに。

 ざまあみろって思うのに。

 なんだこれ。

 涙が出てくる。

 すっきりしない。


「ディア」


 突然、目の前が真っ暗になった。ぬくもりに、掌で目を覆われたのだと知る。

 足元が不確かになり、身体に風を感じた。

 浮いているのだとわかった。

 声はクレピスキュルのものだった。

 片側から腕が回ってきて、後ろから抱きしめられる。

 背中が柔らかくて温かかった。


「世の中には、何を言っても通じない者がいる。人間にも、魔族にも。そんな相手に合わせようとしなくていいし、相手を変えるなんてことも不可能だ。それならそんな奴は相手にしないのが最良の選択だ」

「わかる、けど。でも」

「そうだな、それで向けられた悪意がなかったことになるわけではないし、つけられた傷が癒えるわけでもない。それでも、これ以上お前自身が傷つかないためにはそうするしかないんだ」


 クレピスキュルの声が、耳元で囁く。

 強い風の音の中で、言葉ははっきりと聞こえる。

 不思議だ。

 呼吸もできる。


「クレピスキュル、わたし、わたしのおかあさんって」

「トルトゥガの人間だよ。まだ赤ん坊だったお前を連れて村を出た」

「それは」


 わたしのせいで?

 この村にいられなくなったから?

 だからあんな、人目を避けるみたいに、人里を離れて、森の中で。

 クレピスキュルからの返答はなかった。

 視界に光が戻る。

 すぐそばに人がいた。

 黒髪と緑色の瞳の女性だった。ディアの記憶にある姿より若い。

 旅に出る前に死んでしまった。たった一人の。生きるための色々なことをディアに教えてくれた。

 お母さん。

 呼びかけたつもりが声にならなかった。

 それで目の前の光景には、干渉できないのだと知る。

 トルトゥガの、あの簡易的な住居の内側。

 母親は寝支度をしているところで、寝床が整えられると、部屋のあかりを消して横になった。

 どこかから赤ん坊の泣き声が響いている。泣き声はずっと聞こえていて、いつまで経っても止まなかった。

 母親は起き上がると、入り口の布をまくり上げ声を張って隣に呼びかけた。


「ねー泣いてますけどー?」

「ちょっとー、泣いてるってばー」

「どうしていいかわかんないの? ねえ、おしめとかお腹すいてるとかそんなんじゃないの? 聞こえないの? ねー!」


 どれだけ呼びかけても、応じる者はいない。泣き声は先程よりはわずかに小さくなったが、それでもまだ聞こえていた。

 諦めたのか母親は一度寝床に戻り、横向きに寝るが、しかしすぐにまた起き上がって外に出た。

 隣の家の床。隅の方に、積もれたクッション。その下に、布に包まれた赤ん坊を見つける。

 母親は赤ん坊を拾い上げて抱き、あやすように身体を揺らす。それでも赤ん坊は泣き止まなくて、母親は困った顔になる。


「あんた、何してんのよ」


 咎める声は女のものだった。

 そいつは母親の腕から赤ん坊を引ったくると、再びクッションの山に置いて、上からその辺にあった布を落とした。


「死ぬわよ。窒息しちゃう」

「死ねばいい」


 女は呪いの言葉を吐き捨て、背を向けた。

 被せられた布の下で、赤ん坊はまだ泣いている。

 母親は布を取り払い赤ん坊を再び腕に抱くと、外に飛び出した。村の中を駆け抜け、村を出ても、彼女は走り続けた。今度は広い広い草原を、疾走する。荒野を駆ける狼のようだとディアは思った。

 赤ん坊の声がいつの間にか途切れていた。

 母親は足を止め、腕の中の赤ん坊を見た。

 そっと口元を覆う布を開く。

 か細い吐息が指先に触れる。


「どうしよう、どうしようどうしようどうしよう」


 小刻みに全身を震わせて、膝から頽れる。

 雲が月を隠して、ひととき光が遮られる。雲が風に流され、再び月が顔を出す。


 どこから現れたのか、母親に対面する形で何かがいた。

 それは獣のようでもあったし、燃え盛る炎のようでもあった。風とは別の力で輪郭が揺らめいている。

 目や鼻や口らしきものが見当たらない。

 魔族だと、ディアはすぐにわかった。


「た、たすけて」


 恐れもせずに、母親は魔族に取りすがって言った。


「たすけて、おねがい、この子、このままじゃ、し、死んじゃう」


 正面の、頭と思しき位置に大きく割けた口が浮かび上がった。

 口の中は青く光っていて渦を巻いていた。


「子供を我に差し出せ」

「な、なんでよ。だめよ」

「命を長らえさせたいのだろう?」

「だめ、そうよ、だって、あんた食べる気でしょ。命を食らう魔族。この辺りにいるんだって聞いたこと、あるわ」

「人間は平気で嘘を言うが、魔族は違う。魔族は嘘をつかない」

「だめよ」


 母親は頑として、赤ん坊を離さない。


「これは取引よ魔族。代償はあたしの命。この子が一人で生きていけるまでの時間だけあればいいから。その後は全部あげるから。だから、おねがい」




「あたしをこの子の母親にさせて」

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