第29話 ヤックハルスの事情と、一方のディアたち


 この世界は退屈だ。


 家は代々ゼベルの北西にあるラザ一帯を預かる一族で、現領主はヤックハルスの父、次代は兄であることが決まっている。それに対して不満はないし、興味もない。

 ヤックハルスには官職としての道が用意されていた。

 母方の親類が城に仕える上級貴族で、その口添えによるものだった。

 当初は文官であった彼が将軍職についてのは、出仕が決まって僅か五年後のことだった。もちろんヤックハルスは有能だったが、その栄進の裏には親の影があるのも確かだった。その後は申し分ない家柄の娘を娶り、子にも恵まれた。

 他者からすれば一見華やかで順調な彼の人生は、しかし当人からしてみれば無価値なものであった。

 つまらない。

 家も出世も何もかも、どうだっていい。

 今、興味があるのは異世界だ。

 この世界と対になるという、もう一つの世界。

 子供の頃に恐らく誰もが一度は聞いたことがあるだろう御伽噺。

 そんなものが実在すると、初めて知った時は胸が高鳴った。いつ以来だろう。そんな感情を覚えたのは。剣の手合わせで初めて兄を打ち負かした時か、それよりも更に昔、希少な蝶を捕まえた時だったかもしれない。


 国が研究機関を設けると聞き、ヤックハルスはその指揮官に志願した。


 あらゆる資料を読み漁り、自ら遺跡に赴いて隅々まで調べ上げた。

 結果として、ヤックハルスは扉を開く鍵が存在すること、そしてその在処を突き止めた。

 調べるうちに、もう一つわかったことがあった。

 それは扉を開くと、世界に異変が起きるということだ。

 千年前に起こったとされる天変地異は扉を開いたことが原因で、アルバの民が一族の力を結集し被害を最小限に留めたのだそうだ。

 上には報告していない。

 すれば確実に研究は中断される。

 この事実を知るのはヤックハルスと、他は一握りの研究者だけだ。

 彼らはどこまでも純粋で、己の欲に忠実だった。そうでない者が、偶然この秘密を知ってしまった時は始末した。

 あの東大陸から来たという若者が葛藤を抱えていることには気づいていた。だが彼にはまだ利用価値があると踏んで、旅に同行させた。ラトメリア城の禁書庫で得たという知識。ヤックハルスには知り得ないものだ。

 何かの役に立つかと思ったが、思わぬ邪魔が入ってしまった。

 牢に入れておいたあの男も、盗みに加えて商人を殺した罪を被せて死罪にする予定だったというのに。

 だが、まあいい。

 鍵を揃えることができただけでも、大きな成果だ。


「ヤックハルス将軍」


 扉を二度叩く音に続けて声がした。


「おやすみのところ申し訳ございません。国からの使者がヤックハルス将軍に面会を求めて参っております」

「国からの?」

「はい、火急の用件であるからと」

「構わん、通せ」


 使者は一通の書状を携えていた。

 内容としては、急ぎ王都へ戻るようにというもので、最後に王の署名があった。使者には承知したと伝えるように言付けて返した。

 妙だと思う。

 わざわざ早馬を使って使者を出し、唐突な帰国命令。

 ヤックハルスは目を細め、フンと鼻を鳴らした。


「知られたか……?」


 ひとり呟き、書状を破り捨てる。


「のんびりしていられんな」



***



 クレピスキュルは魔族の王であるが、世界そのものでもある。この世界は無数にある星の一つで、その意思が魔力を媒介に具現化したものが魔王だ。

 だからこそ世界で起こったすべての出来事を把握できるし、あらゆる場所に一瞬で移動することだって可能だ。

 移動したい場所の位置を明確に意識し、心の内で念じるだけで、それは実現される。

 今は目当てになるものがあるから、位置の指定が楽だ。

 対象は人間。

 一人は契約者である魔法使いの少年だ。クレピスキュルにとって最も把握しやすい人間。契約を結ぶというのは目には見えない鎖で繋がるようなもので、それを手繰れば容易に相手に辿りつくことができる。

 他の二人には加護の魔法が掛けてあって、これもまたクレピスキュルにとっては目印のようなものであった。

 首の後ろ、そこから伸びる鎖。契約者に繋がるそれに意識を集中し、飛べと念じる。頭から、指先から、身体全体が小さな光の粒子に分解されて散り、再構築される。光が収縮し、ひとの、人間の女の子供の形を成していく。本来クレピスキュルは定まった姿もなければ、性別もない。基本的には接する相手に合わせた姿を取る場合が多い。

 一面の緑が目の前に広がる。平地で、木々や建物など遮るようなものはない。

 その中に数人の人の姿を見つける。

 黒髪の少年が空を仰いだ。クレピスキュルの魔力に気付いたらしい。

 クレピスキュルは微笑み、ふわりと地面に降り立つ。

 長い髪が地面に落ちて広がる。


「クレピスキュル」


 驚いたように言ったのは、少年の隣に並ぶ赤い瞳の少女だ。

 ディア・アレーニ。

 東の大陸から来た少女。珍しい瞳の色は、大昔異世界からやってきた者に連なる証拠だ。異世界からの旅人は複数いた。そのうちの誰の子孫であるかは、クレピスキュルの中にある膨大な記憶を探せばすぐに判明するだろう。

 だが当人が特に望んでもいないので、クレピスキュルも興味本位で記憶を掘り起こすようなことはしない。

 ディアの後ろでこれもまた驚いた顔をしているのは二人の大人だ。

 薄茶色の短い髪の小柄な男と、黄色味を帯びた肌の色と黒髪黒目という東大陸の人間特有の見た目を持つ男。

 ソロ・リシッツァとシオン・アルクトス。

 小柄な方、ソロ・リシッツァが眉を跳ね上げる。


「クレ……このガキがぁ?」

「つれないのう、デートの約束までした仲だと言うのに」


 クレピスキュルが小首を傾げ、人差し指の先を唇に当てて言った。

 リシッツァというのは、クレピスキュルが付けた名で、彼の真の名はソロだ。

 クレピスキュルは昔から気に入った者に名を与えることがあった。名前というのは魔法において個人を識別するための符号であり、それはつまり自身を召喚する権限を与えたということでもある。

 黒髪黒目の男がソロから距離を取りながら言う。


「ソロさん……」

「ちがう、やめろ引くな、そんな目で見るな」

「ああいえ、その名前、薄明の魔王のものですよね。魔王というからには見た目がそんなでも、年齢はそれに伴わないって可能性は高いと思うんで、それなら別にいいと思います、はい」

「誤解だっつってんだろ」


 言葉の上では肯定しつつも、シオンはソロと目線を合わせようとはしない。

 ラータが小さく溜息をつく。


「クレピスキュル、面白がってないで状況説明してよ。ゼベルとラトメリアの話し合いはうまくいったの?」

「当然だ。ゼベル側はラトメリアの話を聞き入れ、ヤックハルスに向けて使者を出した」


 クレピスキュルは腰に手を当てて肩をそびやかす。


「じゃあ後は上の人たちに任せてていいってこと?」


 ラータが内心ほっとしながら言ったが、クレピスキュルは笑顔のまま首を横に振った。


「いやーそれがあの男、書状を破り捨ておってなあ」

「それダメなやつじゃねぇの?」

「ああうん、言うこと聞く気ゼロって感じ?」

「ダメじゃん」

「ハハハ、けどまあ一番の目的はゼベルに研究を中止させることだったんだから、成果としては十分だろ。褒めてもいいぞ」


 クレピスキュルが頭を撫でろとでも言いたげに上目でソロを見上げたが、ソロはこれを無視した。


「そりゃあそうだけど、どうすんだよあと。まさかゼベルの王様も書状送ってはい終わりってわけじゃねぇだろ?」

「もちろんだ。儂がばっちり蒼月の姫君に伝えておいたからな。兵を出すそうだよ」

「でも、それじゃあ追い付くのに時間が掛かっちまうだろ。もし間に合わなかったら……」

「世界の終わりですねぇ」

「お前が言うなよ」


 シオンがしみじみと呟き、ソロが肘で腹を小突く。結構強い力だったらしく、シオンは息の塊を吐き出した。

 ディアが体ごと振り返って言う。


「宝石を取り返そう。鍵がなければ、扉は開けないよね?」

「ん? ああそうだな」

「それにあれは元々ソロの物なんだから」

「よしよしいい子だ、儂は前向きでやる気に満ちた者が好きでな。できる限り手を貸してやろう」


 クレピスキュルは爪先で立ちながら、ディアの頭を撫でた。


「因みにどうやって取り返すつもり?」


 疑問をぶつけたのはラータだ。ディアに向けられた視線は柔らかくて少しだけ意地悪だった。


「あの人たちが目指してるのは遺跡でトルトゥガに寄るって言ってたよね、また先回りして待ち伏せて……あとは、今考えてる」

「今度は同じ手には引っかかってくれないだろうしね。いいよ、一緒に考えよう。だって君は、最初からそうして無謀だったんだもんね」


 背後でうんうんと頷く声が聞こえてくる。自覚はあるから反論もできない。

 ラータがクレピスキュルに向けて言った。


「とりあえずさ、トルトゥガまで運んでよ。アルバ族のこととか、北の神殿の遺跡のこととか、そういう伝承に詳しい人知ってるからその辺の情報集めながら、作戦考えようよ」

「お安いご用だ」


 クレピスキュルはにっこり笑って、両掌を広げて見せた。

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