第26話 あらがえぬ欲


 ゼベル王都ガルネーレを発ち、五日が経っていた。

 シオン達は今、小さな町の宿に滞在している。大陸の北へ北へと向かっているが、これより先は広大な草原が広がるばかりで、町や村が殆どない。以後はトルトゥガに着くまで野宿が続くことだろう。

 シオンは宿の一室で開いた本のページを捲った。それは元々ヤックハルスが持っていたもので、シオンは既に一度目を通していた。

 開かれたページの片側にはぎっしりと記された古代文字、そして反対側のページには訳文がある。

 シオンは文字列に目を走らせながら、親指の腹で下唇を押さえる。考え事をする時の癖だ。

 古代文字は遺跡の壁面に刻まれたものを書き写したものだという。

 内容は季節の移り変わりにおける星の運動と速度、月と太陽との位置関係。それらの知識を元に、作りだされたのが時間と暦だと言われている。

 アルバ族、高度な技術を持ちながら、突如として滅びた北の一族。

 彼らが姿を消したとされるのは、約千年前。

 そう。千年前といえば、世界が災厄に見舞われたという時期だ。

 災厄というと、あの魔族が言っていた扉を開くことによって起こり得る数々の異変。あれらは災厄と呼ぶに等しいのではないか。

 つまり彼らは扉が開かれたことにより生じた異変が原因で滅んだということだろうか。

 地殻変動や異常気象。世界中に起こったとされる異常現象。被害はどれほどのものだっただろう。詳しい記録は残っていない。なにせ千年も昔の出来事だ。

 世界に影響を与えることなく扉を開く方法はないと、あの魔族は言っていた。

 それでは被害を最小限に留める方法は?

 開いた扉を閉じさえすれば、捻じ曲がった流れは元に戻るのだろうか。


「おや」


 玲瓏な響きの声に顔を上げると、ヤックハルスが部屋の入口の傍にもたれかかって腕組みをしていた。


「考え事の邪魔をしてしまって申し訳ない。何か新しい発見でもありましたかな?」

「いえ、本に書いてある以上のことは何も」


 本を閉じ、椅子から立とうとするシオンに、ヤックハルスはそのままでと片手をあげて制する。


「これからしばらくは野宿続きになります。休めるうちにしっかり休むようにしてください」

「ヤックハルス将軍」


 そう言って去ろうとするのを呼び止める。

 シオンはやはり立ち上がって、椅子の上に本を置いた。


「本当に、安全に扉を開く方法はないのでしょうか? それかせめて世界への影響を最小限に留める方法は……」


 ヤックハルスは傾けていた体をまっすぐにして立ち、一歩中に入ってきた。


「扉が開かれれば世界の均衡は崩れ、多大なる影響を及ぼす。良心が咎めますか? 罪悪感に胸が痛みますか?」

「全くないと言えば嘘になります」

「では、研究から外れますか?」

「……いいえ」


 ヤックハルスは短く息を吐いた。

 それはシオンの目には笑ったように見えた。それから言った。


「私はね、アルクトス殿。何かを得ようとするならば、多少の犠牲は致し方ないものと考えています。魔族が契約を行うのと同じですよ。彼らは己の望みに対して代価を支払う。逆もまた然り、人間の願いを叶える代わりに彼らはその分の対価を求めてきます」


 ゼベルの王都で出会った風の魔族のことを思い出す。宝石を渡してくれるのなら、自らの心臓と血を分けようと持ち掛けてきた。

 ヤックハルスはシオンの前まで歩いてくると、真っ向から目を見て言った。


「あなたもそうでしょう?」

「俺が?」

「あなたは学者で、そうなるために多大な努力をしてきたはずです。勉学に時間を費やし、大学へ行くにはそれなりに金だって必要だったでしょう。時間と金、努力という対価があって、あなたは今の地位を得た。そういうことです」


 シオンの肩に手を置いて、ヤックハルスは静かに言う。


「ひとつの世界という贄を捧げる分、得るものは大きい。期待していますよ、アルクトス殿」


 おやすみなさいと言い置いて、ヤックハルスは去ってしまった。扉が閉まって、足音が消えてから、シオンは椅子を蹴飛ばした。椅子は倒れて、本が床に落ちた。クソッと吐き捨てる。

 本を拾う。埃を払って、テーブルに置く。

 椅子を戻して、ベッドに向かう。

 枕元の灯りを消そうとしたところで、静かなノックの音が聞こえた。

 こんな時間になんだと思いながら扉を開くと、いきなり突き飛ばされた。咄嗟のことで踏みとどまれずに床に尻もちをつく。声を上げようとしたが、掌で口を覆われ塞がれる。

 自分の上に馬乗りになる侵入者の顔を視認したシオンは驚愕する。

 どうしてここに。それにどうやって?

 それに、


「しー!」


 と、閉めた扉を背にして唇にひとさし指をあてるのは黒髪と赤い目の少女だ。

 押し当てられた掌を捥ぎ取り、シオンが呟く。


「ディア、それにソロさん……」


 ソロに近距離から睨まれ、シオンも睨み返す。

 ディアが二人の傍らにしゃがんで問う。


「シオンさん、宝石はどこ?」

「さあ?」

「あァ? ざけんなテメェ」


 ソロが胸倉を掴んで凄むが、シオンは動じず、その手を払い除け肩を押して自分の上から退かせて立ち上がる。

 ディアに向かって言う。


「ディア、君は本当に諦めてしまうのか? もう一つの世界を見てみたくて、もう一人の自分に会いたくて、旅をしてきたんだろ? どうしてそんなに簡単に諦めきれる?」

「シオンさん……」


 怒りにというわけでもなかったが、シオンの声は震えていた。

 どうしてだかその目を見ていられなくて、ディアは俯く。


「行ってみたいって、見てみたいって思ってた。ううん、もし何も悪いことが起きないっていうなら、今でも行ってみたいと思うけど、でもグィーの言葉を聞いて、二つの世界を繋げれば世界が壊れるって、死ななくていい誰かが死ぬことになるんだって。そんなのは嫌だと思うから」

「おい」


 ソロがシオンの腕を掴んで振り向かせる。


「いつまでもわかんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」

「わからないのはどっちだ! それでも俺は、向こうの世界に行ってみたいんですよ! たとえ世界がめちゃくちゃになったとしても!」


 どっと重い音がした。

 ソロがシオンを殴って、よろめいた身体が棚にぶつかった。


「まだ目が覚めないってんなら、もう一発殴ってやる」

「すばらしい。それでこそ学者の鏡です」


 どこからか手を叩く音がした。

 ディアがはっとして振り返ると、扉が開いて、背後にゼベル兵を伴ったヤックハルスが現れた。


「未知の世界を知りたい、触れてみたいという欲求。その知的好奇心こそが人類を進化させ、世界に繁栄をもたらした。おや」


 ヤックハルスの視線がソロを捕え、片目の下に僅かに皺を刻んだ。


「牢に入れていたはずの罪人がどうしてここにいるのだろうな」

「無実が証明されて解放されたんだよ」

「ほう……」


 舌を出して言うソロに、ヤックハルスは顎を上げて呟いた。

 シオンがぼそりと言う。


「どうせまた嘘なんでしょう」

「よくわかるな」

「本当にあなたの口から出るのは嘘ばかりですね」

「そうでもないだろ」


 ディアがソロを押しのけて言った。


「シオンさん聞いて。ソロが宝石を盗んだのは本当、でも商人を殺したのは別で、確かええとヤックハルスって名前の人だって」


 シオンがヤックハルスに視線を向け、ディアはまさかと思う。

 クレピスキュルから聞いたのは名前だけだったから、顔までは知らなかった。

 ヤックハルスが笑う。


「証拠はあるのかね?」


 言われて、ディアは言葉に詰まる。

 クレピスキュルの名を出すことに躊躇う。魔族は人に干渉しないという誓約、あれはどの範囲までのことをいうのだろう。ラータはクレピスキュルと契約している。今回、クレピスキュルはラータの召喚に応えて現れ、望みを叶えるという形でディアに真実を教えてくれた。

 それでも万が一、魔族の立場を悪くするようなことがあってはいけないから、うかつに名前を口にはできない。

 ソロが横から言う。


「確かな情報筋から聞いた。名前は言えねぇ」

「話にならんな。さて、盗みと殺人に加えて脱獄の罪が増えたな罪人。その手助けをした者も同罪だ」


 狭い部屋の入り口は塞がれている。窓は二階で、下にも恐らく兵士たちが待ち構えていることだろう。

 シオンは焦って、二人の前に出る。


「まってください将軍!」

「アルクトス殿。庇いだてするというのなら、我々はあなたにも疑いの目を向けなければなりません」


 ソロが不敵に笑い、シオンの腕を掴んで強く引いた。驚き戸惑うシオンのもう片方の腕をディアが両手で捕まえる。ソロは耳飾りの宝石を三度、指で弾いた。


「ディア、ソロさん何を!?」

「本当なら宝石も取り戻すつもりだったけど、しゃーねぇ。ひとまずこいつだけでも返してもらうぜ」

「捕えろ」


 ヤックハルスが命じて、控えていた兵士が動く。

 伸びてきたいくつもの腕が、ディアに、ソロに、掴みにかかる。だが二人は暴れもせずに、じっとしていた。まるで何かを待っているかのように、その場を動こうとしなかった。

 身を捩り振り払おうとするシオンの耳に、遠く謳うような声が聞こえた気がした。空耳かと疑う。

 声は徐々に近くなり、今度ははっきりと耳の奥に響く。

 陽光が水面に弾かれ煌めくような、そんな感覚があって、


「……薄明の王クレピスキュルの加護を受けし者、ソロ・リシッツァとディア・アレーニ、そしてその二人に近しき者、シオン・アルクトスをこの場所へと運べ」


 その瞬間、周囲が真っ暗になった。

 部屋の灯りが消えたのだと思ったが、そうではなかった。

 太く立派な木の幹に、頭上に広がる木の葉。風の音と、梟の鳴く声。草と土の匂い。近くには人気のない小さな社があった。

 いつの間にか外に移動していたらしい。腕にはディアがしがみついたままで、隣ではソロが全身で息を吐き出していた。シオンの前には対面する形で、少年が立っていた。

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