勇者がもたらしたもの
西玉
第1話
年老いた国王は、城の最上階にある自室のベランダから、自らが統治していたはずの山野を見下ろした。
人々の喧騒も、厨房の火も、勇ましい軍隊も、全てが過去のものだ。
王の自室の扉が強引に開けられた。今では、珍しいことではなくなった。
「陛下! 全ての防衛ラインが魔王軍に突破されました! もはや一刻の猶予もなりません。勇者はいずこへ?」
国務大臣のうち、最上位にいる大老人という役職の男が騒ぎ立てる。
王はゆっくりと振り向いた。
「勇者は去った。もはや、会うこともあるまい」
「去った? 何もせず?」
王は知っていた。勇者は自分の世界に帰ったのだ。
「何もしなかったわけではない。勇者も腹が減っては戦えない。望む食べ物を求めるのを、責めることはできない」
「人間が滅んだら、飯どころではないでしょう!」
「腹を減らした者を責めることはできない。ただ……求めていた味が完成した途端……満足して元の世界に戻ってしまうというのは想定外だったな……」
「そんなことを言っている場合ではございませんぞ。すぐそこまで魔王の軍が来ているのです!」
「その通り」
答えたのは王ではない。その声は、王の背後から聞こえた。王の背後には、山野が広がっている。
王が振り向くと、ベランダの先に魔王が浮かんでいた。人のように見えるが、肌の色が、額に生えた角が、伸びた牙が、人であることを否定している。
「ま、魔王……」
「その通り」
大老人のつぶやきにセリフの繰り返しで答えると、宙に浮かんでいた魔王は滑るように移動した。ベランダに降りる。
「余を殺すか?」
「もちろん。これで全てが終わる」
魔王が手を振り上げた。何も持っていなかった。だが、ごつごつとした手だけで武器も持たず、年老いた王程度殺せるのだろうと、容易に想像できた。
「陛下、お湯が湧きましてございます」
部屋の中にいた最後の者が報告した。まだ若い執事である。見目麗しくなんでも器用にこなすため、王は最後の時まで自室に招いていた。
「……そうか。勇者が昇天したほどの品、最後に味わってみたかったが……もう余には、その時間もないらしい」
「勇者は昇天したのですか?」
大老人が声を裏返す。魔王が身を乗り出した。
「なんだそれは?」
王は両手に、お椀型の容器をもっていた。勇者が死にものぐるいで開発した容器だ。勇者自身は、発泡スチロールと呼んでいた。
「カップ麺なるものらしい」
王は持っていた容器を傾けた。薄い蓋が糊付けされている。中身は見えない。
右手のお椀には赤い蓋が、左手のお椀には緑の蓋がされていた。
「鮮紅と深緑……よもや爆弾か?」
あまりにも鮮やかなカップ麺の配色に、魔王ですら怯えてうろたえる。
王は笑った。
「爆弾ではない。『赤いきつね』と『緑のたぬき』、勇者はそう呼んでいた。罠ではない証拠に、まずは余が食してみせようではないか」
「……待て。貴様は、『たぬき宿し緑の宝玉』……だったか? と『きつね在します赤き聖米』……か? の二つを所持しているではないか。二つとも食べるのか?」
「勇者の残したレシピがある。食べたければ作るがよい。入手困難な食材があるらしいが、魔王軍の総力をあげれば簡単なことだろう」
「二つとも、食べるのか?」
王の言葉を意に介さず、魔王が質問を繰り返した。魔王の周囲の空気が震えた。魔王は爆発寸前の風船のように見える。
「余のことが信じられぬならば、二つとも食べるしかあるまい」
「いや……人間は信じがたい。だが、今この瞬間にまで……我を騙そうとしているとは思うまい。そこの若造、湯が沸いたと抜かしたな。食すのに、湯がいるか?」
大気を震わせる魔王の怒声に、大老人はすっかりすくみあがっている。執事は深く腰を折った。すでに命は諦めているようだ。
「勇者の残せし伝承では、蓋の薄皮を剥がし、熱湯を注ぐこと3分にして、至高に至るとか」
やや声を震わせながら、執事は答えた。魔王の目が赤く輝く。なんらかの力の発動ではない。ただの期待だ。
「どちらにする?」
王はにやりと笑った。死を前にして、逆に落ち着いてしまったかのようだ。
「それは吾輩と……食事を共にしたいということか?」
「赤と緑……この器の中身が毒でも爆弾でもないということを証明するためには、疑いを招かぬ手立てが必要だろう」
「当然だ」
魔王の言葉に、王は鷹揚に頷く。赤い蓋と器の『赤いきつね』と、緑の蓋と器の『緑のたぬき』をテーブルに置いた。
王の前に『赤いきつね』、魔王の前に『緑のたぬき』があった。
執事がヤカンに入った湯を運ぶ。
王が目の前の緑のたぬきに手を伸ばした。
「そうはいかぬ!」
王の手が届く寸前、魔王が膨大な魔力を操り、緑のたぬきと赤いきつねの位置を入れ替えた。
「余はどちらでも構わん。勇者曰く、『赤いきつね』はもちもちの太麺にて、お揚げは極上の甘味、汁はさっぱりと上品に仕上がり、いくら飲み続けても飽きぬという」
魔王の目がくわと開く。
「太麺とは? お揚げとは? 汁とはなんぞ?」
「すぐにわかる」
王は赤いきつねに手をかけた。
「ぬをおおぉぉぉぉ!」
魔王が王の手の上から赤いきつねを掴み、逆の手に持った緑のたぬきを差し出した。
「交換か?」
「待て……いや……勇者は、勇者は『緑のたぬき』のことはなんと言っていた?」
「麺はつやつや、天ぷらはさくさく、溶けた天ぷらと濃い汁が混ざりあり、その味は極上とか」
魔王の手がぷるぷると震える。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ! 選べぬ、選べぬわあぁぁぁぁぁ!」
「陛下、湯が冷めます」
執事がヤカンを手に囁いた。
「うむ。魔王よ……湯を注いでから、まだ3分の時間があるのだ。注ぐのが遅れればせっかくの食事が不味くなる。まずは、湯を」
「……うむ。よかろう」
王と魔王の前に『赤いきつね』と『緑のたぬき』が並んで置かれたまま、執事と大老人が蓋を開けた。
赤いきつねの中には、乾燥して丸まった白い塊の上に、ぽってりとした茶色い座布団のような塊が載っている。
執事の注ぐお湯が茶色い座布団を凹ませ、わずかに白ませる。
緑のたぬきの中には、灰色の細いごわごわした塊の上に、色取り取りな具材が油で固められて鎮座している。大老人がお湯を注ぐと、油の塊がかすかに割れ、その下に敷かれた灰色の糸玉を浸す。
執事と大老人がさらに火薬を注ぎ、蓋を載せる。
「……3分だな!」
「左様」
いきり立つ魔王に対し、王は静かに応じた。
「3分あれば、この場にいる人間を皆殺しにし、『赤いきつね』も『緑のたぬき』も我が腹中に収めることもできよう」
「そうだろうな。しかし『赤いきつね』と『緑のたぬき』の、どちらがどれほど美味かろうと、二度と食すことは叶うまい」
「ぬっ……もう一度作れば……」
「勇者は、勇者の世界で毎日食べてきた味を再現した。勇者をはるかに超える舌を持たねば、なし得られまい。たとえ、レシピがあるといってもな」
「……最初の一口は、余が食す。これは譲らぬ」
「いいだろう。で、どちらを?」
魔王の宣言に対し、王は一歩も引かなかった。
テーブルを挟んで睨み合う魔王と王の手元に、執事と大老人が箸を添えた。
「……これは?」
魔王が、置かれた細い二本の枝を見つめる。
「勇者が使用していた」
王は箸を取り、器用に手の中に収める。王にとっても不慣れな道具だったが、魔王に見栄を貼りたいがため、必死で箸を使いこなせるふりをした。
「ふん……勇者にできることが、吾輩にできぬわけがあろうか」
魔王が箸を持つが、握り箸となる。
「3分です」
執事が告げる。
二人とも、右手に箸を持っていた。王は勇者がそうしていたから、魔王は王がそうしていたからである。
空いた手は左のみ。
王は左手の位置から近かった『緑のたぬき』を、魔王は『赤いきつね』を手にしていた。
「ぬっ!」
「さあ……食すがよい」
「……まずは一口……その後は……」
「早く食べねば冷めるぞ」
「うむ」
魔王がカップを口に運ぶ。握った箸は温まった油麩げを貫き、太く白い面を魔王の口に運んだ。
一口すすり、魔王が止まった。
時が止まったかのように、動かなかった。
「美味い」
「当然のことだ」
微笑みながら、王が正しく、やや不器用に箸を使用して、かき揚を貫き灰色の細麺をつまみながら口に運ぶ。
意図せずして、魔王と王は同じように、時を止めた。
口から離す。
テーブルに置く。
「……なんだ……これは……」
「上手くなかったのか?」
たまたまではあるが、自分の選択は正しかった。魔王がそう笑おうとした。
だが、王の反応は違った。
「なんだ……この旨さは……」
「何?」
魔王が赤いきつねを置き、テーブルにあった緑のたぬきを手に取った。
王はすかさず魔王の置いた赤いきつねに手を伸ばす。
今度は魔王が先ではなかった。
魔王と王、同時に固まった。
「「なんという旨さだ」」
一人の声が重なり、再びカップをテーブルに置いた。
次に、魔王が赤いきつねに、王が緑のたぬきに手を伸ばす。
何度も繰り返し、テーブルの上に、ただ空の容器が二つ残った。
魔王と人間の王が共同で統治する奇妙な国が成立したのは、その直後のことである。
その国には、半分は赤、半分は緑の奇妙な旗が掲げられた。
異世界に来てただ食のみを追求して昇天した勇者は、自らの行いが平和をもたらしたことを知ることはなかった。
了
勇者がもたらしたもの 西玉 @wzdnisi2016
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