敦は踊る、然れど廻らず

ゆみかか

♯1 曖昧なトラベラー

「初めまして、人虎君。」


――――何故こんなことになった?


「ほらほら、ご挨拶して。……駄目?いいかい、此れは君の相棒としての命令だ。」


暗い路地を這う風に眼球を撫でつけられる。瞬きを忘れた僕の瞼は、未だ状況を理解しようとしない脳髄に、現実をたたき込もうとしていた。

ぴりりと僅かに目玉の奥が痛み、目の縁に涙が湛えられる。

ようやっと開閉を行った眼瞼に、ぼやける視界。

磨り硝子を通したような眼界の中には、シルエットが二つ。

一つは黒、二つは金。否、そのどちらも黒服に身を包んでいたため、唯一言、漆黒とでも云おうか。

僕の狭い眼中を支配していた靄がそっと晴れ、曖昧だった輪郭線が不本意ながらも鮮明になっていった。


「んもぅ、君はいっつも頑固なんだから。もう少しフラットな感じでもいいのよ?」

「………黙れ。」

「やっと返してくれたと思ったら案の定塩対応だねぇ。しかも痛い、痛い。――――ってなわけで、一寸ちょっと陳腐な遣り方になってしまったけれど………。」


――――なんで。

云おうとした言の葉も、喉に痞えて。僕の口は足りぬ酸素を、がらんどうの胸を埋め合わせるための何かを求めて、浅い呼吸を繰り返した。

彼が勿体ぶるように長く息を吐き、隣に立つ人物の肩に手を付いた。


「私達といっしょにおいで。………今ならきっと痛くしないから。」


刹那、きっとはじめて、彼が――――嘗て自分を地獄から救ってくれたひとが、此方を見た。

安堵?衝撃?いいや違う、僕は未だ、惑っている。

そんな僕を、ひとりの少年が、見ていた。

先刻の影には見当たらなかった、モノトーンの頭髪の、男の子。

鳥の濡れ羽色に黄金色の星を浮かべた、不思議な瞳の。

――彼の小さな頭部には、無機質に光る拳銃が突きつけられていた。

其の歪な鉄塊を握るのは、からから嗤う黒とは相反して、鋭く冷ややかな視線で此方を射る、金色の髪の人物。眼鏡越しに覗く山吹色の双眸。

黒よりほんの少し上背のあるその人は、風に靡く金糸と時折上下する胸を除いて、動かなかった。

僕の脳味噌が、客観的に此のリアルを見ていた。

そしてゆっくりと、飲み下した。

其れが嚥下されると同時に、僕はとっくのとうに気付いていた、ひとつの抗いきれぬ事実を吐き出した。


「ぼく、僕は――――」


――――僕はあなたたちを知ってる。

























微睡む思考。鈍る手足の感覚。

僕の生温い意識は覚醒を拒み、再び僕を深き泥濘に鎮めようと手を引く。

――――が。


「何時まで狸寝入りを決め込む心算つもりだ、中島敦」


芯まで冷えた声音が僕の鼓膜を静かに擽った。

未だ眠っていたかったのに。自分の吐息が鎖骨に触れる。

僕は重い瞼をうっすらと開いた。

映ったのは目に痛い白。視界の端で自己主張をする蛍光灯。

此の部屋にあまり良い思い出はなかった。

残響として脳裏、そして渦巻き管に刻み込まれたる其れは、鉈を引き摺る音。

我が社の誇る治癒異能力者の女性の美しくも狂気的な高笑い………。

僕は身体の節々が微かに痛むのを感じて、逃げるように視線を左へとずらす。

小綺麗に陳列された薬品類。其の隣の机には、見知らぬ水瓶フラスコが据え置かれている。なんだろう、僕の知らないうちに購入したものだろうか。


「何処を見ている。早く起きぬか」


再度聞こえた声に、僕は遅れて小さな違和感を抱いた。

聞いたことのない、男の声。否、正確には聞き覚えがあるのだ。

唯、此の場で一番に聞くようなものではなくって。

気怠げに上体を起こし、声の主の姿を見ようと寝ぼけ眼を擦り、僕は声のした方を見遣った。其処に立っていたのは――――――


「――――ッあ、あぁッ」


一刹那の後に、僕は口にしたくもない、因縁の相手の名前を勢いよく吐露していた。


「芥川ぁぁァッ?!」







「喧しい。此所を何処だと思っている。」

「そっくりそのまま返すわ!なんで!なんでお前がいるんだよ!?」

「は。真逆頭を打った衝撃で貴様も遂に惚けたか。ご愁傷様。」

「なんだとう!んなわけな………。あ」


――――そうだった。

思いっきり忘れていたが、慥か僕は此の寝台ベットに寝かされる前に泉鏡花いずみきょうかという少女の入社パーティの準備をしていたはずだ。

其処で僕は何かで頭をぶつけて……。

……だが、どっちみち此所に芥川龍之介あくたがわりゅうのすけがいることへの説明が付かない。


「でも!お前がなんでいるんだよ!此所は武装探偵社だぞ?!ポートマフィアの奴が来るなよっ!」

「笑止。やつがれがポートマフィアの輩だと?ほざけ。」

「じゃあお前、武装探偵社に入ったのか?でも何故お前みたいな奴が?」

「何を云うか。僕は貴様の先輩探偵社員だ。僕がマフィアに入るなど有り得ぬ。黒社会の人間には悉く吐き気がする。」


悪人面が何を云っているんだ。今日は四月莫迦エイプリルフールじゃ無いぞ。

そんな言葉の数々が今にも僕の喉を飛び出しそうになった。

――――なったのだ。しかし其の瞬間、此の不可解な状況を加速させる摩訶不思議なことが起こった。


「なんじゃなんじゃ騒がしいのう」

「如何したァ?!何かあったのか?」

「やぁっと起きたかい、敦クン」


医務室に雪崩れ込んできたのは、いずれも僕の知る探偵社員ではなく。


「くくく、龍之介とまた喧嘩したのかえ、童」


矢鱈楽しげに話すのは、ポートマフィア幹部、尾崎紅葉おざきこうよう


「つうか、もう傷は痛くねェのか?凄ぇピンピンしてるが」


訝しげに此方を見つめそう零すのは、”重力遣い”にして同じくポートマフィア幹部、中原中也なかはらちゅうや


「敦クン、矢っ張り君の身体は興味深いよ。一晩で治癒するだなんて」


顔に気味の悪い笑みを貼り付け云うのは、“爆弾魔”、梶井基次郎かじいもとじろう


「しかし、如何やら脳に異常を来したらしい。僕を憎きマフィア扱いした」


表情をほんの少し歪め嘆息するのは、ポートマフィア構成員、芥川龍之介。

――――そして此の悪夢の如き光景に半泣きの僕、中島敦なかじまあつし

そんなちんけな僕を見て、僕の知る探偵社員らが、ドッキリ大成功と書かれた木製の札を持って僕の元へ押しかけてくる。


『驚いた?』『少し遣り過ぎた。済まない、敦。……ふふっ』『こうなるってのはわかってたけど、実際に見てみると面白いもんだね』『都会ではこういうのが流行ってるんですよね!』『出てくるタイミング逃しそうだったなァ……』『敦さん、可愛い反応頂きましたわ』『~ッ、腹が捩れるところだったよ!』


皆心底楽しそうに思い思いのことを云って、其れを見た僕は困ったように笑って、許すのだ。もう、驚きましたよ、でも態々ポートマフィアの人達を呼ぶなんて、凄いですね。僕はそういう台詞を云っていた。……僕の頭の中の世界だけで。

思考が完全に“逃げ”のほうにシフトされてきた。だってしょうがないじゃないか。

目が覚めたら芥川がいて。僕の知る同僚はいなくて。

此れを絶望と呼ばずして何と呼――――


ガチャ


入り口の戸が開く音。

単純に吃驚したのと、という畏れに因るもので、僕の心臓は跳ね上がった。僕の潤むまなこが恐る恐る音のした方を見た。

途端に静寂に呑まれる社内。充満する耳鳴りが恐怖心を更に助長した。

逆光で上手く目視出来ない其の人物が、第一声を発するのをびくびくしながら待った。


「戻った」


僕の耳朶に触れたのは、少女の声だった。

儚い乍らも強く、芯の通った一筋の、声。

――――訂正する。希望が、一縷の望みは、あった。


「――鏡花ちゃん」


僕はそっと名前を口にした。僕の知る唯一の

様々な感情が交錯して、僕の相貌は嘸かし非道いものになっていることだろう。

と、鏡花ちゃんの表情が遠目でもわかるくらい華やいだかと思うと、突然駆け出した。僕は反射的に手を広げる。

状況が謎だが、まあ鏡花ちゃんは僕の知る鏡花ちゃんということで善いのだろう。

歓喜により若干上がった口角。ふやけた表情筋。

何時でも胸に飛び込んでおいで!全力でそんな意を示す。

鏡花ちゃんの薄い唇がまたひとつ言葉を紡ごうと開く。

もしや、僕の名前……。


「芥川さん。戻った」


僕のざっくばらんに切られた髪を、鏡花ちゃんが掠めた。

僕の横を、風が通った。何かに抱き付く音がした。

今何が起こった?今彼女はなんと云った?


「本当に二人は仲が良いのう、いのう」


尾崎さんが頬を赤く染めてぽつりと呟いた。この人、完全に保護者面である。

厭、そんなことは如何でもよいのだ。

二人、あんなに和気藹々としてたか?!


「おい、織田も早く入ってこいよ!」


僕が彫像のように固まったままでいると、「ああ」、と、短い返事が入り口付近から聞こえた。其の人は静かに此方まで歩いてくると、滑稽なポージングの僕を華麗にスルーして探偵社員ら(僕は未だ認めない)の話の輪に加わった。


「実はな、敦が変なんだよ」

「敦が?」

先刻さっきッから芥川のことをポートマフィア扱いしたり、突然あんま話したこともねェ鏡花をひん抱こうとしたんだ!こりゃ記憶喪失ッて奴かも知れねェ」

――――「ッ違う!」


弾かれたように僕は叫んだ。想像以上に掠れた声が出て、突発的な咳をする。

間違ってるのはあなたたちのほうだ。云えもしない言葉が口内を蹂躙した。

咳嗽の余韻が喉に張り付き、僅少な嫌悪感に小さく嗚咽しながら、僕はかわりに、こう訴えた。


「此所は僕の知ってる世界じゃ無い。」

「ほう?ではお前の知る世界では、やつがれはマフィアの人間であると?」

「ああそうだよ、況してや此所に居るほぼ全員がそうだった。」

「其れは面白い!!敦クン、君、ひとつの可能性世界から来たってわけかい!」

「きっとそんなところだと思います」僕は小さく頷く。

「うし梶井、詳しく頼む。」

「任せて!例えば此の中也クンが楽しみにしてる老舗の唐揚げ弁当があるね?」

「なッ、何しやがる!!」


梶井さんがひょいと誰かのデスクから弁当を取り上げた。

話を聞くに、中也さんのお弁当だろう。


「そして此所に、ひとつの麗しい檸檬があります」


白衣の袖から、鮮やかな黄色い果実が顔を出す。

何故そんなところに檸檬があるのか………。しかし、前の世界――僕の居たところ――の梶井基次郎という人間は、慥か檸檬爆弾を造るくらいの檸檬愛好家だった気がする。如何やら、そういうところは変わらないらしい。


「扠中也クン、君は掛ける派?掛けない派?」梶井さんが尋ねる。

「掛けない派に決まってんだろ!とっとと返せ!」己の低身長が仇となり、弁当を奪い返せずに居る中也さんが怒号をあげる。

「そんなことしったこっちゃないけど」あっけらかんとして梶井さんが云った。

「うああああああああ!!待って呉れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」中也さんの悲痛な叫び声が谺する。

――――とても五月蠅い。


――――「つまりはこういうことなのだ、わかったかな、皆の衆」

「わかるわけねェだろ梶井。文字通り潰すぞ」

「じゃ、噛み砕いて説明するよ。先刻の場面だけで、檸檬を掛けられた中也クンと掛けられなかった中也クンが存在して、其の選択によって分岐した世界があるってこと。だから、トラベラー敦クンの云うような、芥川クンがマフィア側の世界線も将又敦クンがマフィアにいる世界線も、実際に存在していると云える!……マ、唯単に頭にあの特大ピニャータぶつけた後遺症って線もあるけど」

「ピニャータだってぇ?!」


僕のことについては話半分わかってもらえたようだが、ピニャータとは何のことだ?


「昨日、其方の入社ぱーちーをしてのう、その際にくす玉割りをしようという話になって……」


必死に笑いを噛み殺しつつ尾崎さんが云った。


「あー、はい。何となく判りました……。でも、僕も元の世界で同じようなことになった気がします。慥か僕のときは……ミラーボール………」


瞬間、尾崎さんが腹を抱えて蹲った。彼女の笑いの壺が謎である。


「ふっ、それは重畳。」

「とんだ災難……」


鋭い視線が僕を射る。

自分で云うのも何だが此方の世界の僕も不憫過ぎる。

……そういえば、織田と呼ばれていた男性だけは見たことが無い。

でも、此所は可能性世界なのだから、全く見知らぬ人が居ても、おかしくないのか。

微かに喉に小骨が引っかかったような違和感に、そう言い訳で蓋をする。


「――ってか今何時だ?」


突然中也さんが声を上げた。梶井さんが即座に時計を読み上げる。


「えっとね、五時十九分四十――――」

「ご丁寧にどうも、俺ぁQのお迎えに行ってくるわ」


Q。夢野久作。以前僕たちを苦しめたマフィアの少年。

其の名前が出る度に、僕の海馬はあの笑い声を、不気味な人形の嘲笑を引っ張り出すのだ。あの惨状を招いたのは己の未熟さ故だろうに、僕は未だ彼に対する漠然とした恐怖を覚えた。

しかし、僕の無意識は此の気まずい空気の充満する室内から逃げようとしたのか、突拍子もない言葉を口走っていた。


「僕が迎えに行ってきます!」

「は?」

「一寸今日沢山迷惑を掛けてしまいましたので!!僕が!!迎えに行きます!」

「お、おう………」

「それでは皆さん!!又会う日まで!!」


僕はきょとんとしているであろう探偵社陣に背を向け、早歩きで其の場を去った。

捨て台詞が頓珍漢な感じで羞恥心に殺されかけたが。







探偵社を出てどれくらい経っただろう。

Qは、まだ見つかっていない。――完全にやらかした!!

当然の報いだ。Qが普段散歩している道など、異端者の僕に判るはずも無く、半ばやけくそになって疾走していたところ、よくわからない路地裏に辿り着いてしまった。

年端もいかない男の子がこんな人気の無い寂しい場所を好んで歩くものか。

僕は己に悪態をつきつつ闇雲に歩を進めた。最早あの場所に帰るのを拒み、そのための時間稼ぎをしているようにも思えてくる。


「――――――ひぅっ」


ふと、雑音に支配されていた内耳に、明らかな異音が紛れ込んできたのはその直後のことだ。本当に、本当に小さな、誰かの喘鳴。

僕はアスファルトを無為に眺めていた視線を周囲に巡らせる。

誰か、いる。そう確信する。本能的に息を潜め、足音を消して、差し迫る会敵の可能性に警戒する。未だ距離があるという、先入観。頭に張り付いた、一端の油断が故に。


「初めまして、人虎君。」


此の場に不相応なほどに飄々とした声音が鼓膜を撫ぜた時。

ぞっとするくらいの冷たさを孕んだ瞳が僕の肢体を見下ろした時。

――僕の思考はショートを起こすのと同時に、何処か歓喜を覚えていた。







「初めまして、人虎君。」


――――何故こんなことになった?


「ほらほら、ご挨拶して。……駄目?いいかい、此れは君の相棒としての命令だ。」


暗い路地を這う風に眼球を撫でつけられる。瞬きを忘れた僕の瞼は、未だ状況を理解しようとしない脳髄に、現実をたたき込もうとしていた。

ぴりりと僅かに目玉の奥が痛み、目の縁に涙が湛えられる。

ようやっと開閉を行った眼瞼に、ぼやける視界。

磨り硝子を通したような眼界の中には、シルエットが二つ。

一つは黒、二つは金。否、そのどちらも黒服に身を包んでいたため、唯一言、漆黒とでも云おうか。

僕の狭い眼中を支配していた靄がそっと晴れ、曖昧だった輪郭線が不本意ながらも鮮明になっていった。


「んもぅ、君はいっつも頑固なんだから。もう少しフラットな感じでもいいのよ?」

「………黙れ。」

「やっと返してくれたと思ったら案の定塩対応だねぇ。しかも痛い、痛い。――――ってなわけで、一寸ちょっと陳腐な遣り方になってしまったけれど………。」


――――なんで。

云おうとした言の葉も、喉に痞えて。僕の口は足りぬ酸素を、がらんどうの胸を埋め合わせるための何かを求めて、浅い呼吸を繰り返した。

彼が勿体ぶるように長く息を吐き、隣に立つ人物の肩に手を付いた。


「私達といっしょにおいで。………今ならきっと痛くしないから。」


刹那、きっとはじめて、彼が――――嘗て自分を地獄から救ってくれたひとが、此方を見た。

安堵?衝撃?いいや違う、僕は未だ、惑っている。

そんな僕を、ひとりの少年が、見ていた。

先刻の影には見当たらなかった、モノトーンの頭髪の、男の子。

鳥の濡れ羽色に黄金色の星を浮かべた、不思議な瞳の。

――彼の小さな頭部には、無機質に光る拳銃が突きつけられていた。

其の歪な鉄塊を握るのは、からから嗤う黒とは相反して、鋭く冷ややかな視線で此方を射る、金色の髪の人物。眼鏡越しに覗く山吹色の双眸。

黒よりほんの少し上背のあるその人は、風に靡く金糸と時折上下する胸を除いて、動かなかった。

僕の脳味噌が、客観的に此のリアルを見ていた。

そしてゆっくりと、飲み下した。

其れが嚥下されると同時に、僕はとっくのとうに気付いていた、ひとつの抗いきれぬ事実を吐き出した。


「ぼく、僕は――――」


――――僕はあなたたちを知ってる。







――――「太宰さん………!国木田さん…………っ!」


そのとき、僕は確かに二人の名前を呼んだ。

そのとき、確かに其の言葉が喉を震わせたのを感じた。

そのとき、しとどに零れだす涙が情動を持ったのを感じた。

期待。僕の名前を、呼び返してくれるのでは無いかという、希望。

………何処までも、気味が悪い性根をしている。


「あは、私たちの名前知ってるの?ま、私たちもその道じゃ有名人だからねぇ」


太宰さんの黒い蓬髪が揺れる。

彼の社交的な笑顔が既に緩みきっていた緊張の糸を解く。


「会いたかった………っ。ずっと不安だったんですよ………。」


溢れ出す、感情が堰を切って。

震える指が太宰さんの手を取ろうと伸ばされ、そして空を切る。


「如何やら君は何か勘違いをしているらしいな。」


太宰さんの蠱惑的な声に、僅かに侮蔑の色が混じった。

未だ現実から目を背けるというのか。

太宰さんではない別の誰かが、囁く。

僕のうなじを、厭な汗が伝った。


「そんな人虎君に、改めまして自己紹介を。――私は太宰。ポートマフィア幹部の、太宰治だ。」


彼は恭しくお辞儀をした。白く透き通った肌が蓬髪に、黒いコートに隠れる。数秒の後に、また其の人は顔を上げ、包帯が巻かれた左腕で後方に立つ長身の青年を指す。


「其処の彼は私の現相棒にして同じくポートマフィア幹部の国木田くん。仲良くしてあげてね。最初は返事してもらうのにも苦労するけど」


でしょう?

そう短く切って彼は云った。投げ掛けられた視線を、国木田さんは無言を返した。

無愛想な返礼に、太宰さんはゆるりと肩を竦めた。


「“早くしろ”だってさ。確かに無駄話が過ぎた。本題に入らせて貰うとね、君、懸賞金掛かってるんだよ。其れも相当の額が」

「――――え」

「うふふ、漸く自分の置かれている状況に気付いたかな?くっにきーだくーん!」

「ぁがぅっ」


暗闇の中から子供の呻き声が上がる。

浮かび上がったのは後ろ手を拘束され、猿轡を噛まされた件のお散歩少年、Qの姿。


「この子、君のためだけの人質。今私が国木田くんに引き金を引くよう指示すれば、まァ悲惨!成る可く死に顔を強制するようなことはしたくないんだけれどね。――――悪いことは云わない。私たちと来てはくれないか」


太宰さんの笑みが一掃深くなった。

Qを、助けなきゃ。でも何で?夢野久作は本当に味方と云えるのか?

僕にとっての味方は彼らの方じゃ無いか。

そうならば。そうであれば、足の震えは止まっているはずなのに。

愕然とした何かの感情に、僕は恐怖を感じているのか?

若し此所でQを選べば、あの子は銃殺、僕は太宰さんの異能無効化でそのまま生け捕りだ。如何考えても、此方の選択の方が――――――――


「何を血迷っている。何処までも迂愚なやっこよ」


瞬間、旋風つむじかぜが黄昏の暗黙に満たされつつあった路地裏を吹き抜けた。

否、其れが世にも恐ろしい黒き狗の姿をした辻斬りであったことに勘付いた人間は存在しなかった。

――――強襲。

凄まじい勢いで生ける凶刃が襲った。

破壊という概念其のものが狭い空間の中で暴れ狂い、平衡感覚を摩耗させ、低迷していた意識が冷水に浸されたかのように覚醒する。

軈て其の憤怒が収束すると、僕の後方より何者かが歩み寄ってきた。


「芥川」

「如何にも。何やら面倒なことになったな」


咳払いをひとつして頷くのは、狂犬の飼い主、芥川。

手の中に多少の掠り傷を負ったQを抱えている。


「何時の間に………」

「嗚呼。序でに黒衣の男の連れに噛み付いておいた。暫くは無力化されたろう」

「くっ、国木田さんに何てことしてるんだよ!」

「貴様に何が判る。ポートマフィアは悪だ。忌むべき存在だ。道理にかなっている。其れよりも僕は太宰治を――――」


話し終わるより先に移り変わっていた芥川の視線の先には、からっぽの暗闇。

虚空を見つめる芥川の瞳が、微かに震えた。


「逃げられたか」







元来た道を引き返す道中、進むにつれ強くなっていく鉄錆のような異臭に、Qを背負う僕と芥川は双方苦い顔をしていた。

芥川の真意はわからない。唯、血色の悪い唇を噛み、元々険悪な表情が更に歪んでいることから、何かに激しく憤っているとだけ読めた。

僕の方は、様々な感情の濁流で押しくら饅頭になっている。

僕の知る探偵社員との再会(彼らにとってははじめまして)、人生で二度目の懸賞首体験。如何してこうも都合の悪いことは変化しないのだろう。

憂鬱ばかりが付きまとい、途方も無い不安感に襲われる。

僕は一体如何すればいいんだろう。

其の自問自答が空しく胸の中を谺し、僕はそっと息を吐いた。

と。

未だ立ち上る硝煙の向こうから、何やら翠緑の光が差していた。

芥川が静かに警戒する素振りを見せる。

煙に混じり漂う強烈な鉄錆のような異臭――――足下まで到達した血溜まりに、僕は咄嗟に身を乗り出した。

――――長身痩躯の青年が、其の金糸を散らして紅い海に沈んでいた。

炯然たる翡翠の閃光が、青年を、国木田さんを取り巻いている。

神秘的とも取れる此の光景に、僕は無意識のうちに光陽の中心に投げ出された彼の肢体に視線を這わせ――――後悔した。

彼の腹が破れていた。

獰猛な獣に、乱暴に食い千切られたような荒い傷から、綺麗な色をしたはらわたが覗いている。黒衣の下に見える白い玉膚は血を被り赤黒く、右手は手首の先が無い。出血は止まらず、僕の靴底を呑み込んでなお範囲を広げていた。

死。僕の脳内を、其の言葉だけが支配する。


「ど、どうしよう………っ、折角会えたのに………。急いで止血しなきゃ……」

「間に合わぬ。」

「いや、何か方法があるはず……」

「囀るな。やつがれらの力では間に合わぬと云ったまでだ。此の霊光が何かわからぬのか?真逆貴様の居たという世界には『異能力』が存在しなかったとは云うまいな」


――――ぱき。

直後、小気味良い音が僕の鼓膜を擽った。薄目で再度其方を見て、僕は戦慄した。

剥き出しの紅い繊維が、蠢き、結合していったのだ。

軈て血の流れるのが止まり、腹の傷が塞がり、欠損していたはずの右の掌が新しくくっついた。破れた黒衣はそのままに。

何時の間にか夜の闇が辺りを喰らい、国木田さんの『異能力』の光が薄くなっていた。


「此れが奴の異能だ。『創造』の異能。此れで満足したろう。帰るぞ」

「は?置いてくって云うのか?!」

「……………何を」

「国木田さんをだよ」

何故なにゆえ

「えぇっと、そう、ホリョ?」


若干片言に成りつつも僕は今一番それっぽい単語を口走る。


「捕虜だと?」

「うん。だって今丁度僕懸賞金掛けられてるところだし、僕を狙ってる奴らを聞き出せるんじゃ無いかって………。其れにほら、幹部級の人だ。此れで探偵社は優位に立てる」


パニックになると途端に多弁に変わる僕の美点(?)を最大限発揮し、国木田さんお持ち帰り大作戦を決行。

………此れで若し断られたとしても、力尽くで連れ帰ってみせる!

沈黙。

自分の心臓の音が五月蠅いくらいに聞こえる。

永遠とも刹那とも取れる時間の後に、芥川は口を開いた。


「ふむ…………。まあ善い」

「いやったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


嗚呼、芥川が血も涙もない悪魔じゃなくってよかった。

武装探偵社に入ってからあの冷徹な性格も少しはよくなったのだろうか?

どっちにしろ、今の僕には福音にしか聞こえない。


中島敦。何の因果か別世界に流れ着いた異端な旅人。

敵に廻っていた先輩に遭遇し、散々嬲られたものの、此所に来て関係を作る好機チャンス到来。


運命の歯車は、このとき既に回転をはじめていた。

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