或る呪い

@richokarasuva

或る呪い

ある集落が有った。どうやらそこは随分昔に崩壊してしまったらしいのだが、その詳細は知らない。ただ何故か、そこは一面のひまわりに押し潰されていたのだった。


まるで精巧な集落のスケッチに、ひまわり色がいい加減に塗りたくられたみたいな、そんなアンバランスさを醸していた。そしてどこか悪趣味な夢のような感じがした。


そのグロテスクな景色は、しかしながら少なからず私の魂を安らげた。事実、私は今週三度もここを訪れている。


それはこの景色というよりも──ある一輪のひまわりを望むためであった。


半壊した民家の、荒れ果てた茅葺きの中に立つ、その一輪の花弁は、他のそれらの溌剌さをことさらに凝縮して、そうして散りばめたような色をしていた。


当時美術部に所属していた私は、やがてすぐにこれを模写しようと努めた。

模写自体は苦なくできた。しかしながら、どうにも納得がいかない。

これじゃない───溢れた言葉は、私の心情の実像そのものだった。


これではないのだ。目の前にあるひまわりの、その美しさは。

私はますます、その一輪に入れ込んだ。


私には恋人が居たのだが───無論、恋人は私のその態度に不満を持たないはずがなかった。

普段の彼女は快活で、竹を割ったような、と比喩されるひとであったが、こと愛恋に対しては、妙にセンチメンタルになるのであった。


私が彼女の誘いを断るたびに、彼女の機嫌が日に日に悪くなっていく。

それに気づかぬ私ではなかったが、私はその物事を過小に評価しようとした。

私はそれよりもひまわりの寿命を意識しなければならなかった。いつあの色がくすみ始めるか、戦々恐々としていた。

言い換えれば、選択肢に無理やり折り合いをつけたのである。


私の技術は、たしかに上達していった。ひまわりの輪郭はより鮮明になり、中心の部分───舌状花と言うらしい──の精巧さも、最初とは比べ物にならない。差し込む色も、より精彩に富むものになった。


私の心は、ひまわりの色を借りるようにして色づいていった。

私はできるだけ美しいものを見つけるように心がけるようにした。私のその発見が、更にひまわりを、そして自身の心を美しく色づける気がしたのだ。


その中に彼女は入っていなかった。私は徐々に、自らそれを意識し始めた。

私の恋心は、皮肉にも冷めた後でその存在がはっきりすることになった。


しかしながら、私からそれを切り出すことはなかった。

彼女が感情的になるに違いなかったからだ。悲しむにしても、怒るにしても、今の私にはいずれも不都合となる。

ひまわりが枯れ落ちて、それから彼女との関係を断とう。私はそう決めた。


が、その予定が崩れたのは数日後の朝のことであった。天気予報の通り、大粒の雨が降り注いでいた。私はひまわりが無事かどうかを憂いていた。憂いていたのだが、今日は彼女から私に近づいてきた。そしてどこかぎこちなくし、頬を赤くして「今日、家に来てほしい」と私の袖を引っ張った。それは彼女の特有の仕草のひとつである。そしてそういう時、彼女は筆舌に尽くしがたいほど、心中の感情が良くも悪くも高ぶっているのであった。


私は何よりもひまわりを優先させたかったのだが───感情の高ぶった女性、特に彼女を無視するのは、あまり得策ではないと私は知っている。


仕方ない、ひまわりが気がかりだが──と私は言葉に出さず、彼女の誘いに乗ることにした。

しかしながら気がかりだったのは、彼女の表情が、彼女自身が望んだ結果になったに関わらず──まるで何かを覚悟したかのように、凍てついていたことであった。



私が彼女の家に着いた時、ワイシャツの肩部分はすっかり水を吸っていた。


私がここに来るのは、もう三回目のことである。折りたたみ傘の水滴を払い、私は玄関のドアを開けた。ガレージに車が無いことから、どうやら彼女の両親は未だ帰宅していないらしいことがわかった。


お邪魔します、と声を掛ける。が、返事がない。もう一度、お邪魔します、と更に大きな声を出す。

鍵が開いているということは、家の中に誰かいるはずなのだが。

天気は雨で暗いというのに、家の電気すら点いていない。一度出直そうと玄関のドアノブに手を掛けた時「入ってきて」と微かな彼女の声が、リビングの方から聞こえた。


濡れた荷物を玄関に置き、私は声のする方に向かった。やはり、リビングですら電気がついていない。怪訝に思いながら私はドアを開けた。


そこには、一糸も纏わぬ、ひとりの憐れな動物がいた。愛嬌のある顔と、そこにある大きく黒黒とした、潤んだ瞳で私を見上げていた。


なるほど、私はすべてを理解した。きっと彼女は私の心を繋ぎ止めようとしている、と。

そのために自らの身体を明け渡すことを決意したのだ。

私は美しいものを見ながら、何よりも残酷なことを、視界の外で行っていたのである。


来て、と彼女は喉を震わせた。それは吐息よりも弱々しい、それでいて縋るような声色であった。


私の思考は真っ白になった。そして純白の生地に血が滴るように、徐々に赤色が滲む。

私は何を言ったか、覚えてはいない。ただ玄関を出る時、胸の中に熱い、不快な塊が付着しているような気がした。

半ばそれを振り払うために私は駆けた。そして傘は差さずに。その奇妙な熱を少しでも冷やすために。


私が件の集落に足を踏み入れた時にはもう、ひまわりはその根を顕にしていた。

頬に冷たいものが流れたときにはすでに虹が街に足を下ろしていた。

そして、私はバッグからスケッチブックを出したのであった────



私は培ったすべてを用いて、その絵を完成させた。何枚もの習作を重ねたひまわりの花。それよりも、無残なその遺骸の方が、何よりも美しかった。

そしてそれとほぼ同時期に、彼女は自ら命を絶った。なぜなのかは論じるまでもない。私は努めてそれを忘れようとした。


私の絵はコンクールにて、だいぶいい評価を受けたようである。地元の、まぁまぁ大きな美術館でしばらくの間展示されることになった。



私は招待されてそこを訪れた。美しい、ひまわりの遺体と、その後ろに伸びるソラへの架け橋。

あの時、私は何を言ったかは覚えていない。だが、私が振り向く直前の、あの表情。彼女の感情が人生の中で最も迸ったであろうあの瞬間。


この絵の中に、彼女がいる。そしてこれからも、美しいものを見るたびに、彼女をきっと思い出す。最期まで美しいとは思えなかった彼女を。


私の表情筋がぐにゃりと歪んだ。私は手でそれを覆い隠す。それは自分への嘲笑か、または彼女への恐怖か。


どちらにせよ、それを受容するには────私はあまりにも幼すぎた。

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