第14話 里帰り




 カサンドラの住んでいる別邸から、学園までは決して遠くない。

 毎日のように通っていたのだ、あまりにも離れた場所に位置していたら登校するのも億劫に感じていた事だろう。


 だが今となっては、その分アーサーと一緒に馬車の中で過ごす時間がそれだけ短く感じられる。折角の機会なのに、心寂しく思う。


「あの…アーサー様」


「何かな?」


 カサンドラはこの世界に帰還して、二日が経過した状態だ。

 別の世界の記憶さえ既に霞状と化して判然とせず、完全にこの世界の住人として「受け容れられた」と自覚することができた。



 ――自分は何者だれ



 確かに知っていたはずの元の世界の姿を、凄まじいスピードで忘却していくあの感触は未だにゾッと背筋が凍る。


 皆が気を遣って「以前通り」の生活をカサンドラに提供してくれたから…

 きっと自分の精神は壊れずに済んだのだと思う。


 カサンドラにとって体感時間と実際の経過時間が違う状況、更に自分の過去の一部を砂のように零れ落としていく事態は動揺を誘うのに十分であった。


 自分のペースに合わせてくれたから、こうして平生を装って今まで通りに振る舞えるのだ。


 未だに腹を押さえれば、巨躯の男に刃で貫かれた痛みがつぶさに蘇ってくる。

 あの凄絶な体験からまだ時間を経ていない――なのにアーサーは既に18歳になっていて。


 現実と夢の境で、ようやく存在が馴染んできたところだ。


 しかしそうなってくると、カサンドラもいつも通りに過ごすことに罪悪感を覚えずにはいられない。

 数多くの人の協力があって自分はこの世界に再び招待されたわけだ。


 この国の人達に、それだけの価値を求められているということ。

 それが…少し恐ろしかった。


 だって皆に女神だ救世主だと諸手を挙げて歓迎され、迎えられようとも。

 自分には何も無い。


 もう奇跡は起こせない。




 ――世界は救われ、自分の役目はなくなった。



 残ったのは、この身一つ。

 ただの人。



「わたくしは…この先、どう過ごせば良いのでしょうか。

 お父様はああ仰いましたが、本当にわたくしだけ現状に甘んじていることに違和感を覚えるのです」


 騎士団の皆は誰憚ることなくカサンドラを「妃殿下」と呼称してくるわけだが、実際に婚姻したわけではない。婚約者である立場は、最初からずっと変わらないのだ。


 皆学園を卒業して自分の「役割」を見つけて生き生きと活動をしている。


 じゃあカサンドラは、これからどう過ごせば良いのだろうか。


「私としては…」


 アーサーは小さく頷いて、カサンドラの顔を見つめてくる。


「結婚までの間は、君に自由に過ごして欲しいと思っている。

 君も覚悟していると思うけれど、王族という立場は思った以上に窮屈な生活だ」


 今までレンドール侯爵令嬢として、お嬢様生活を送って来たカサンドラ。

 だが実際にそこまでがんじがらめの生活だったかと思い返すと、そうでもない。


 中央貴族ではなく、レンドールという地方の貴族令嬢だったことも影響するのだろう。

 学園という安全な場所で、王子と恋愛――青春の一時を過ごすことも出来たわけだ。


「もちろん、憚らず本音を言えるのなら――

 今すぐ君を王宮の一室に連れて、いつでも会えるよう環境を整えたいけれど」


 はは、と彼はやっぱり困ったように笑う。


「そうしてしまったら、私は…

 君とずっと一緒にいたくて…やるべきことも全部後回しにしてしまうかもしれない」


「まさか、そんな」


 アーサーが公私の別を失くし、人に謗られるような行動をとる光景が全く想像できない。


 彼とずっと一緒に――片時も離れずに傍にいるというのは、カサンドラからしたら楽園に住んでいるのと変わらない生活になるに違いなかった。


 周囲のことも全部棚上げにして。

 二人だけの世界の中で過ごす…


 少し想像しただけで、カアッと顔が熱くなった。

 この間の彼と私室で過ごした時間が終わりなくずっと続くと考えたら、きっと自分の意志も感覚も融けてしまうほど甘い幸せが訪れるのだろう。


 しかしそんな風に、外から見て怠惰だとか不真面目だとか。

 軽佻としか思われないような行動をアーサーが行うとはとても思えなかったのだ。


「…分からない。

 自分がそうならない自信がない」


 改めて言葉にされ、真正面から誤解の余地なく好意を伝えられるとカサンドラの思考も空回ってしまう。


「そういう状態になってしまうのは、君に対してとても失礼なことだ」



 恋人同士なのだから何日もずっと同じ場所で、外界と関わらずに二人だけの世界を楽しめばいいじゃないか。



 …だけどそれを仮に実行してしまったとしたら…

 アーサーは他人にどう見られるのだろうか。


 それにカサンドラだって、アーサーが何もしないというのは分かっているけれども誰もがそう信じるとは限らない。


 王家に嫁入りする前に関係を持つ「軽い女性だ」と、王城の関係者から噂される事態に陥ってしまうだろう。


 誰にどう思われたって構わないと開き直るには、抱えているものが多すぎる。


 昨日リタに自分から言った話に加えて、純潔を守るのは王家に対する忠誠を示すものでもあるし。王家に嫁ぐ人間が道を逸れるのは、それがただの政略結婚ではない「恋愛」が絡むものであってもカサンドラには大きな抵抗を感じるのだ。


 もしも明日、この世界が終わるなら自分は最後の時まで彼と一緒にいるだろう。

 周囲のことなど知った事か。

 誰も邪魔をするなと、我儘を通してしまうはずだ。


 でもこの世界は滞りなく明日も朝を迎え、夜も過ぎ行く。


 未来に繋がるこの世界で、相手に些細な”瑕”さえつけたくない。


 恐らくそれはアーサーもカサンドラも同じ想いで、だからそれが耐えられなかった結果のこの「痕」について彼は謝罪してきたわけだ。


 王城に迎えられてそこで婚姻まで過ごす…というのは、彼の印象や風評を守る意味でも避けた方がいいのだろうなと思う。


 そして、身の安全のため常に監視される生活になる前に、この世界で自由を楽しんでほしいという彼なりの優しさなのだと受け止められる。


「結婚するまでは、君は『レンドール家のお嬢さん』だからね。

 今の内に、悔いのない生活を楽しんで欲しい」


「ええと…それでは、わたくしは…」


 監視下に置かれ、雁字搦めにされたいとは思わない…けれど。

 彼と物理的に離れている状況も受け入れがたい。


 自分はワガママだ。


「いつアーサー様にお会いできますか?

 その…

 以前は、学園で毎日のようにお会い出来ましたけれど」



「…本当は毎日でも城に来て欲しいと言いたいところなのだけどね。

 それでは私が職務で上の空になってしまって、クラウス侯から信用を失ってしまいかねない。


 だからキャシー、週末は空けてもらっていいかな。


 ……久しぶりに君とデートがしたい」



「わ…わかりました!

 ありがとうございます! 楽しみです!」


 学園時代にも王子だった彼とデートみたいなお出かけをしたことがある。

 だが想いが通じ合って以降、どこかに出かけるというアクションをとることができないままだった。


 純粋な意味で恋人としてデートのお誘いを受けたのは初めてではなかろうか。


「あ、でも護衛は沢山いるんですよね…?」


 王族という身分のアーサーが二人きりで王城の外を歩き回るというのは、かなり軽率な行動だ。きっと十人単位で騎士団の人達が護衛に張り付くことは想像に難くない。


「それは私の立場上しょうがない話だけど…

 以前のようにジェイクに同行してもらおうか?」


 


「えっ…それはちょっと…」




  どうしよう。



 この期に及んでわざわざジェイクに護衛をお願いするのは…

 そもそも彼は一国の軍部のトップだぞ?

 国王陛下の右腕な人が、護衛なんてやってる場合じゃないだろう。


「…まぁ、その辺りはジェイクとも相談しておくよ。

 どこか行きたいところはあるかな、キャシー」


「アーサー様と一緒なら何処でも嬉しいですが、敢えて希望を申し上げるなら…

 自然に囲まれた静かな場所が良いです」


 アーサーもたまには開放感に溢れた場所で、疲れを癒したいと思っているのではないか。何となくそう感じて、口に出た。


 カサンドラが躊躇いがちにそう告げると、馬車の速度が少し緩やかになる。

 窓の外に視線を向けると、見慣れた高い壁がチラチラ覗いて見えた。



 学園に辿り着いたようだ。


 カサンドラが外の景色に一瞬気を取られた瞬間――


「キャシー」


 彼の呼び声に釣られて振り返ると、ぐっと身体を引き寄せられた。

 驚いて開けた口が間を置かず塞がれる。



 御者が馬の手綱を引く。

 馬の嘶きが聴こえ、馬車は…止まった。




「……行こうか」




 そんな何でもない顔で促される一方で、カサンドラは全く切り替えに対応できず赤みのさす頬を覆う。





   まだ全然、慣れてない。







 ※ 






 指定の時間より少し早めについたということもあり、しばらく馬車の中で落ち着くまで待機していたカサンドラ。

 アーサーは全く悪びれた様子もなく、いつものにこやかな笑顔でカサンドラの隣を笑顔で歩いていたのだが…


 少し離れたところから声が聞こえた。




「もしかして早く着き過ぎたかも…

 ごめんな!」


「ううん、大丈夫……

 うっ……」


「シンシア! やっぱりお前、家にいた方がいいんじゃ」


「私は平気…」


「カサンドラには俺が挨拶しとくし」



 聞き馴染みのある声に、カサンドラとアーサーは顔を見合わせた。

 目線の先の植え込み近くに、一組の男女が向かい合って立っている。


 早すぎたかもという男性の言葉通り、同窓生たちの集合時間まであと一時間は優にある。

 まぁ昨日の今日でゴタついていたから、勘違いや聞き間違いがあってもしょうがないだろう。

 それよりもその男女が自分の知り合いであることにカサンドラは驚いた。


「ベルナール、シンシアさん!」


 思わず駆け寄り、声を掛けてしまった。


「カサンドラ様! ご無沙汰しております。

 本当に、ご無事でよかった…!」


 シンシアは目の端に、うっすらと涙を浮かべながらカサンドラに向き直る。


「まぁ…体調が悪いのですか?

 お顔の色が優れないようですが」


 身体をベルナールに支えてもらいながら、その場に立ち尽くすシンシアの姿には邂逅の喜びよりも心配の方が勝ってしまう。


「病気ではないので…大丈夫です。

 どうしてもカサンドラ様にお会いする機会を逃したくなくて」


「本当にお前……女神? いやー…そうは見えないけど…

 姿も二年前のままだな、別の世界にいたって言うのは本当なのか…

 すげーな」


 カサンドラの住んでいるレンドール地方の領主の息子、ベルナール。

 父親同士が親交があるので昔馴染みだが、口の宜しくない無作法な男性である。


 そしてシンシアは元クラスメイトだが…

 大人しく可愛らしい、小動物としか思えない雰囲気の彼女の顔は青白かった。


 とても平気そうには見えない様子で、カサンドラは慌てた。


「シンシアさん、またいつなりとお会いする機会はありますよ。

 今日はどうかご自宅でゆっくりお休みになってください」


「そんな…」


「ほら、カサンドラも言ってくれたんだし、今日は一旦戻ろう。

 なんか、ホントに悪阻つわりって大変なんだな…

 なぁ、どうすれば気分がマシになるんだ?」





     んんんん?



     今、なんて言った?




「シンシアさん…もしかして、その…

 ご懐妊…ですか…?」



「は、はい!

 中々、気持ち悪いのが収まらなくて…困ってるんです」


 えっ、ベルナールが父親!?


 嘘でしょ!?


 つい青年を二度見した。



 内心で絶叫したくなるくらい驚いたが…



「そう言えばお二人がご結婚されたことは、父から聞いております。

 おめでとうございます、ベルナール男爵」


「…いや、俺はまだ家を継いだわけじゃねーし」


 学園が機能しなくなって二年が経つのだ。

 既に婚姻関係にある二人に子どもが出来たって、それはおかしなことではない。


 むしろ自然な話ととらえるべきだ。

 しかし動揺してしまうのは、しょうがない。



 あのシンシアが……!?



 ベルナールは元々爵位のない無位の領主の息子として、学園でもかなり下に扱われる存在だった。貴族社会の縮図である学園内で、爵位を持たない家に生まれた生徒の立場は弱かった。

 勿論、シンシアのように商家の出だったり、三つ子のように完全に特待生で庶民だったり、最初から「仲間」に入らない者に対しては案外親切に対応する姿も見られるが…

 中途半端な立場が、一番扱いづらい。

 本人も遣る瀬無い想いを抱えていただろう。


「男爵…ね。

 まぁ、ジェイク様達にはかなり気ィ遣ってもらったしな…

 今日来るなら、お礼も言いたかったんだ」



 しかしこの度父のクラウスを始め、ジェイクやシリウス達がベルナールの生家ウェッジに爵位を与えてはどうかという推挙があったそうだ。

 …元々エルディムに属していた男爵家が一つ取り潰しになってそのままな状態だったし、王都が甚大な被害を受けたあの災厄の後――


 ウェッジ家が自領で保管していた、大量の小麦をはじめとした作物を王都に輸送して国難に協力したという経緯があったらしい。


 他の領地より先んじて支援を申し出た彼らの功績は国王陛下の覚えも高く、クラウスを始めとした諸侯に反対する者もおらず。ベルナールの父親に爵位を授けられたのだとか。


「いやー、結婚式の時にはロンバルドからすげー量の贈り物が運ばれてきてビビったわ…」


 当時、冗談か何かで結婚式には呼べと言っていたジェイクのことを思い出す。

 彼は思っていたより、この青年のことを気に入っていたようだ。


 まさか本当に式に参加したわけではないだろうが、ウェッジのおじさんも吃驚しただろうな。


 だがベルナールとシンシアが付き合ったり結婚したりというキッカケは、思い返せばジェイクだったような気がする。

 出会いの場は自分が作ってしまったが、その後ベルナールがシンシアに公衆の面前で告白という暴挙に出たのは…


 あの日ジェイクに詰問される寸前だったせいだ。

 勘違いされてはかなわないと、 大声で求婚するというとんでもないムーブを見せたことは、未だに記憶に強く残っている。


  人の縁とは、分からないものだ。


 しかし今は昔を思い出してしみじみしている場合ではない。

 彼女の体調が第一である。


「シンシアさん、大切な身体であれば尚のこと、今日はこのままお戻りください」


「お心遣い感謝します。

 まさか時間を勘違いしたせいで、カサンドラ様にお会いできるなんて。

 私、ラッキーですね!」


「わたくしもシンシアさんが幸せであるとお伺いし、嬉しい限りです。

 ……シンシアさんのお子さんなら、きっと可愛いでしょうね」



「絶対嫁にやらねぇ……!」


 ベルナールが憮然とした顔で食ってかかる。

 まだ性別だって分からないだろうに、彼の中では決定事項なのか?


「まだ生まれてもないのに、こんなことばかり言うんです。

 困ってしまいますよね」



 クスクスと微笑むシンシアは、教室の隅っこで目立たないように絵を描いていた少女の姿とは全く違う。



「王太子、折角呼んで下さったのにすみません。

 俺とシンシアは、一旦下がります。


 気を遣わせてしまっても良くないですし」



 ベルナールは、背筋をピンと伸ばす。

 そして、会話の流れを傍で見守っていたアーサーに何度もぺこぺこと頭を下げた。


「ああ、そうだね。

 彼女のことを労わってあげるといい、しばらくは王都に滞在する予定なのかな」


「このまま里帰りという形で、ゴードン家に厄介になる予定です。

 短期間に、何度も馬車で移動させたくないので」


 言われなければ、シンシアの変化が分からなかっただろう。

 まだ見た目にはお腹も膨れておらず、懐妊しているとは判別しづらい…


 ベルナールからすればカサンドラの帰還に合わせて王都にやってくるのは心配だっただろうな。

 里帰りするとしても、もう少し安定してから…という想いもあったに違いない。



 彼女達に手を振って別れを惜しんだ後も、カサンドラの受けた衝撃は収まることがなかった。




 結婚したのは当然の経緯、子どもができるのも自然な流れ…だけど。





 うーん、と頬に手を当て、むずむずした想いに腹の底を擽られるカサンドラを。



「キャシー」



 突然呼びかけられ、変な声が出そうになった。




「男の子でも女の子でも、可愛いだろうね」



 一瞬シンシアの子どものことか?

 と、反射的に頷こうとしたのだけど。




「それに――君に似て、優しい良い子に違いない」

 

 一点の曇りもない澄み切ったまなこでカサンドラを見つめる、アーサーの視線が突き刺さる。






 まさか自分の話だとは思わず、何と返答すれば良いのか――




 不意を突かれ、一人言葉に窮してしまうカサンドラだった。


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