15 : ラルフ (Bystander)


 真っ白で何もない、虚空。

 何も考えられず、茫洋とした意識の海に引きずり降ろされるよう、沈んでいく自我。


 もしかしたらこれが、『死』というものかもしれない。

 何となくそう感じ、手を動かそうとしたが指先どころか一切の触覚が喪失して実体さえも失われたのではないかという恐怖に充たされる。


 極寒の吹雪の中で『寝たら死ぬぞ』という決まり文句で警鐘を鳴らすということは聞いた事があるが。

 今の自分も同じような状況なのかもしれない、意識を手放せば――そのまま戻って来れないのではないか、と。


 次第に薄れゆく自我。

 僅かたりとも感じない、”生きている”という確信。


 どうすることもできず、この大いなる虚無に呑まれるしかない――

 諦観の境地に至る直前。



 突如として淡い黄金の光が周囲を覆う。



 何もないはずの空間で、彼女は躊躇うことなく両のかいなを掲げている。


 言葉で言い表す事が困難な、とても不思議な光景だった。





 ※





 ラルフがハッと目を醒ました時、周囲は真っ暗だった。


 白い世界から今度は暗黒の世界に逆戻りかと思ったが、厚い雲を抜け出した月の明かりが大地を照らす。

 さぁっと拓く視界の中に、大勢の人間が地面に倒れ伏していた。


 皆自分と同じように、頭を支えるように蹲っていたり、左右に首を振っている。

 ぼんやりと霞のかかったような意識が次第に戻って行くようだ。


 今まで身体から離れていた魂が再び入れ物に入り込み、交じり合う瞬間の心地悪さとでも言うべきか。

 僅かな嘔吐感と眩暈に襲われ、ラルフはその場にしばらく座り込んでいた。



 大勢の呻き声が漏れ聞こえる様子は、さながら広大な墓地の真ん中に取り残された生者の心持ちである。



 上手くまとまらない思考の中、ズキン、と鋭い痛みが意識を裂いた。





 ……ああ、助かった、のか。





 その痛みこそが、自分の現在の命を確信させるものであった。


 全部記憶している。

 悪魔は打ち倒されたものの、どういうわけがラルフはわけのわからない空間に呑み込まれ、閉じ込められていた。


 一度沈みかけた意識が引き戻された――



 何が起こったのかなど、詳細に分かるわけはない。

 だがあの時『無』へ帰す直前の意識の中に割り込んできた金色の輝きを今でもしっかり覚えている。



 きっと彼女が――カサンドラが”どうにかしてくれた”のだろう、とすんなりと腑に落ちた。

 それはこの一連の出来事の裏側を知ることが出来た立場だからだ。

 もしもカサンドラの持つ特異性を一切知らなければ、何故彼女があの場にいた・・のかなど想像できるわけもない。



 巻き戻るはずだった世界が、巻き戻っていない。

 全部覚えて、生きている。


 安堵し、ホッと細い吐息を落とした。



 が、それと同時にこの惨状を作り出した自分の親たちへの憤りが再び大きく立ち上ってくる。

 彼らがこんな計画とも呼べない野望を『作り出した』から、こんなことになってしまったのだ。


 三つ子が巨大な悪魔を斃した事で一応の決着はついたのかも知れないが、それにしたって被害や影響が大きすぎるではないか。

 傷つかなくても良い人が多く傷つき、誰かが責任を負いきれるという状況でもない。



 ラルフの目覚めから少し経ち、目覚めた姉の手には『魔法のヴァイオリン』がしっかりと握られている。

 長い間一心不乱に楽器を弾き続けていた彼女の忍耐力のお陰で、魔道士達も随分助けられたことだろう。


 それがなければ、悪魔が倒れるまで学園内の敷地が無事だったかどうかさえ定かではない。この学園の結界が持たなかったとすれば、と想像するだけでぞっとする。


 三家の当主達は別に市民達を大量虐殺したかったわけではない。


 そのヴァイオリンは、どうにかして可能な限り被害を抑えたかったのだという父の意志によって持ち込まれたものなのだと思う。




 魔力を増幅させる、特別なヴァイオリン――

 ……そんなモノより! 

 何故凶行を止めなかったのか、という憤りの方が強く表出する。



 積極的に父が何かをしたかったのかどうかまでは分からない、彼の思惑があったのかもしれない。

 ただ、クレアにヴァイオリンを持たせて学園まで特攻させる――という無茶をさせてまで彼に思うことがあったなら。


 全容を知っていたのだから、止める事だって出来たはずではないか。

 昔馴染みの悪事に加担し続けなければいけない理由だって彼にはないはずだ。


 息子という立場で見れば、父レイモンドは急激な変化も功名心も必要ないタイプの、どちらかと言えば小物。

 大それたことが出来る思いきりや性格ではない。


 家を駆け落ちのような形で出て行った実の娘を今後のヴァイル家にとっての不安材料として計画の一部に組み込んで始末しようとする、当主としての非情な責任感を背負いつつも。


 一度アーガルドの手から戻って来た今、普通に父娘として接するだけの無機質さがあるわけでもない。


 ギリギリのところで人間らしい性質を持っている、エリックやダグラスとは少し違う価値観を持つ人間なのだと思う。


 彼ならエリックを思いとどまらせることが出来たのではないか。

 彼らに協力しない、という選択肢もあったのではないか?

 少なくとも、この計画を止めることができたのは首謀者の誰かでしかなかった、と思う。


 そんな想いに衝き動かされ、ラルフは瓦礫に埋もれた街を月明かりを頼りに先に進んでいた。



「こんな時だけど、どうしても父に聞きたい事がある。

 ……すぐに、戻って来るから」


「まずはリタさんの無事を確認するべきでしょう」


 姉は痛む頭を振り被り、強い口調と視線をラルフに突き刺してきた。

 勿論クレアの言う通り、あの悪魔を斃した聖女たちの無事を確かめたいという気持ちはとても大きい。


 だが、それ以上に――今のままでは、リタ達を堂々と迎えられない、とも思う。

 ラルフはこの惨状を、越えてはならない一線を踏み越えてしまった”黒幕”に対して激しい怒りを感じていた。


 あんな化け物に、ただの女の子であるリタ達を立ち向かわせてしまった、未然に防げなかったことは自分達の落ち度ではないか。



 自分はいつだって受け身だった。



 少しでもこの後の状況把握や行動の指針に役立てるような事をしたいと、強く想った。



 起こってしまったことを無かったことには出来ない。

 ならば――



 父を問い詰め、一体何が起こったのか全て明らかにさせ、そして罪を償わせる。






 あの”悪魔エリック”を斃してくれた彼女達、そして振り回され被害を被った大勢に対して自分の出来るせめてもの行動なのではないかと思った。






 ※





 そんな一心で突き進んでいたラルフだが、途中で頭が冷えたのかもしれない。

 フッと、気づいてしまったのだ。






 ……自分だって、同じではないか? ということだ。


 全て押しなべて同じ、というわけではない。

 ただ、自分の今までの傍観者然たる行動、受け身に徹していた様は……

 父のレイモンドと、どこか被る気がする。





 ジェイクは元々ああいう性格だ。

 アーサーやシリウスが絶対に知られないように動く、というのは理解できる。

 実際にあの会合の場で激昂してシリウスに掴みかかっていた事を踏まえれば、無駄に騒ぎを大きくさせたくないという意味で伏せるのは仕方のない事だ。


 だが……


 カサンドラがいなくたって、自分だけは気づけ、助けになることが出来たのではないか。

 アーサーやシリウスの様子が変わった、と感じた瞬間は一度や二度ではない。





  ――相手に深入りすることが怖かった。




 それは恋愛という意味だけではない。

 他人に深く関わり、自分が何かをすることで逆に傷つけることもあると無意識の内に――友人達に対してもどこか壁を作っていたのかもしれない。

 アーサーの幸せを願いながらも、その本質について探ろうとしなかったのも。

 学園でシリウスが何を考えながら行動していたのかも。

 真実から遠ざかっていたのは、自分か。


 結局、自分にとって都合の良い表層的な部分しか関わってこなかったから……

 彼らはラルフに対しても本心を打ち明けることはなかった。

 こちらが引いたラインを割って、こちらに打ち明けて穴を穿つということを選べなかった。


 ……ジェイクのように本当に何も気づいていないのなら話は別だ。

 だがラルフは不協和音のような雰囲気を確かに感じていたし、でもそれをあえて話題の俎上に乗せるようなことはしなかった。

 相手が黙っている秘密を暴くこと、相手の感情の奥に触れることが嫌だったからだ。



 自分にとって過ごしやすい世界が崩されることが怖かった。


 自分本位の考えしか持っていなかったのだ、と今になって思う。

 アーサーには幸せになって欲しいと思っていたが、結局彼を幸せにできたのはカサンドラだ。

 守れていたのは、自分の心だけだったのかもしれない。



 リタのお陰でようやく他人との間に流れていた硬質な空気から変われそうな状況ではあった。

 姉と再び話が出来るようになったことも含め、リタの存在は”恋愛”という対象以上にとても大きな存在である。



 だが、そんな自分でも……

 シリウスから計画の全容を聞かされ、内実を理解した上で。


 結局のところ、何も出来なかった、止められなかったじゃないか。



 これから起こることを知っていて、悪魔の封印を解こうなんて大それた計画が内々に進行していたというのに。

 全容を把握していていても、様々なしがらみや状況で、彼らに指を突きつけて糾弾したり無理矢理にでも止めよう、と動くことを考えさえしなかった。

 しようと思っていても、無理だっただろうな。




 

  そんな自分に、あたかも自分は正義側というスタンスで父を正面から詰る資格があるのか?





 気づいていても、気づかないふりをした。

 全てを分かっても、自分の意志で何かをしようとはしなかった。






 そう考える途中、今更ながらカサンドラがしてきたことがどれだけ難しいことだったのか、ということにも気づく。

 実際にこうして巻き戻りを止めてみせたのだから、この世界を救ってほしいと召喚された願いを叶えたカサンドラ。




 ……これから起こること、相手が企んでいることを知っていても尚手を拱くことしか出来なかった。

 自分からどう動けば良いのかなんて、早々思いつくこともない。


 シリウスから全貌を聞かされ、父が計画の首謀者の位置にあると知った。

 だがそれを止めることもできず流れに身を任せていたように。


 誰にも言えない、とアーサーやシリウスが『現状維持』のために黙して孤独を抱えていたことに敢えて”触れなかった”ように。


 ラルフは自分で勝手に過去の事で相手を信用するのが嫌で、傷つけるのも傷つくのも嫌で本質的な関わりを避けていただけだ。

 もしもこの世界にカサンドラがいなかったとしたら、恐らく友人達を救うことが出来る立場にあったのは、自分だけだった。


 首謀者の子としても、思い悩んでいる親友を持つ一生徒としても。

 自分しか、動けなかった。




 この世界が何度やり直しても、何度繰り返しても、自分は――彼らを救うどころか、逆に敷かれた道を盲目的に歩かされてアーサーを傷つけ続けた世界ケースも沢山あったのだ。




 何十回何百回やり直したうち、ただの一度でも見えない『運命』に抗おうとした時があったのかなぁ、と想像する。

 ループに気づいても何も出来ないクリストファーとは違い、ラルフはカサンドラの言う『登場人物ネームドキャラ』。



 強い意思を持てば、この世界に干渉できる人物の一人。

 色んな方向から考えれば、自分しか皆を救うために動けなかったんじゃないか。





 ……問題の渦中にあって、それをみすみす見過ごしてきただけだ。

 自分はただ、物語の中で”主人公によって救われる”役柄を延々と享受し続けていただけに過ぎない。




 未来を知っていても、裏を知っていても、変えられないことが沢山ある。


 それを変えることが出来るのは強い意思の力。

 歪みない信念。




 ――”未来を変えよう”と行動してきたカサンドラの道程は、きっと自分が想像している以上に険しいものだったのだろう。




 真実を知っていたって、思い通りに事態が動かせるわけじゃない。






 後でカサンドラに会った時、今までの事を謝罪したいと素直に思った。

 こうして皆と過ごしてきた”記憶”を奪われずに済んだことについても礼を言わなくてはいけないし。







 少し立ち止まり、黒煙の立ち昇る夜空を見上げた。

 月も、星も、いつもより遠く感じられる。








 まぁ、きっと彼女カサンドラの事だから――



 何を言っても、ただ謙遜する姿が容易に想像が出来るのだけど。





 




 ※








 深夜ということを差し引いても完全に景色が様変わりしてしまった道、瓦礫を掻き分けて見覚えのある大きな屋敷に辿り着く。



 力無く呆然とした様子の人間、大勢が意識を取り戻しているように見える中、たった一人、地面に投げ出されたように倒れ伏すレオンハルトだけは目覚める気配が無かった。


 口々に自身の体験した不思議な”世界”を譫言のように口にする兵士達、屋敷の従者たち。



 まるで狐につままれたような現実世界で、ただレオンハルトだけは頑なに瞼を閉じたままだ。



 彼がレイモンドの協力者なのだろうという事は予想がついていたが、まさかこの惨禍の中彼が――アイリスのところではなく、ヴァイル邸にいたことに驚きと同時に色々なモノを察する他ない。

 悪魔が蘇り、街が魔物に襲われるという事態の中でレイモンドと行動していたとしか思えない場所に倒れているのだ。




 ……彼がこの話に全くの無関係だった、ということは考え難い。




 そのまま、水底みなぞこに沈んで還ってこないのではないか。

 そんな不安が過ぎる程、彼の顔から生気が抜けていく。



 






  彼が本当にこの事件に関わって

  そして目覚めを拒む事で、何もかも抱えて沈んでいくつもりだとしたら






  そこまでの業を彼に背負わせてしまった責任の一端は、自分ラルフにもある。

  自分は決して、何も知らない被害者なんかじゃない。











「目を醒まして欲しい、レオンハルト」






 ――声をかけずにはいられなかった。

 

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