聖人と呼ばれた少女は悪役令嬢に転生する
遥姫
序章 聖人と呼ばれた少女
「今日の委員長も綺麗ね!」
「髪の毛ツヤツヤ過ぎない? 何のシャンプー使ってるんだろ?」
「スタイルも良くて、顔も可愛くて、勉強も出来るなんて、聖人でしかない!」
私を認めた人は、私に釘付けになる。
歩くだけ。たったそれだけの行動で誰しもが羨望の眼差しを向けてくるの。
――聖人。それが私につけられた異名。
止めてよね。私には
「ちょっと可愛いからって何なの?」
「調子乗ってるよね。大したことない癖に」
時には嫉妬なんて醜い感情すらも向けられるけれど。
――なんて煩わしいのかしら。
もっと平凡な見た目だったら、こんな目に合わなかったかもしれない。
もっと不完全な人間だったら、こんな目に合わなかったかもしれない。
それでも私は完璧でいなければならない――そう刷り込まれているから。
母は言う「貴女は完璧でなければならないのよ。じゃないと私が貴女を周りに自慢出来ないでしょ?」って。
――正直どうでもいい。
貴女が私をどう思おうと、私は私――なんて考えが通用するような生活は送れなかった。
だからかもしれない――彼に憧れたのは。
***
「はぁ……」
帰宅してから自分の部屋へ直行し、鍵付きの勉強机から一冊のノートを取り出す。
学校から帰って来たら、私は一番にこれをするの――。
コンコン。
ノートを開こうとすると、ノックの音が聞こえたので慌てて引き出しに戻す。
この時間、両親は共働きで家にいないから、扉の向こうの人物は一人しかいない。
「はい」と短く返事をすると、扉が開いて妹が顔を覗かせた。
「お姉ちゃん、おかえり!」
「ただいま」
「ねぇ、ちょっと辞書貸してくれない?」
帰って来るなり訪ねて来るから何の用かと思えば。
「自分のはどうしたの?」
「学校に置いて来たちゃった」
笑いながら後頭部をかいている姿は良く見るわ。置き勉常習犯だから。
彼女の名前は、
今年中学二年生になったばかりで、私より二歳年下の妹。
黒髪のポニーテールを揺らしてパタパタと足を鳴らしながら近づていて来る。
雰囲気としては癒し系だと思うわ。少なくとも私はいつも癒されているもの。
少しぽっちゃり体系なのは間食が多いからみたいね。特に春休みに甘いものをたくさん食べ過ぎたって落ち込んでいたわ。
私と違って、母親からの束縛もないから食生活も自由に好きな物を好きなだけ食べられるの。羨ましいわ。
私の食生活は一日三食全て母親にきっちりと決められていて、それ以外の物を食べようものなら――察してね。
間食はもちろん厳禁。モデル体型を維持し続けないと、機嫌を損ねてしまうの。厄介な人だわ。
勉強に関しても、ひまりはどんな成績でも何も言われない。小学生の時は五十点が平均点だったらしいわ。
私は絶対に百点を取らないと怒号が飛んで来るの。九十九点も許されなかった。本当に厄介な人。
まぁ、そのお陰で成績優秀者として表彰されたのだけれど――私にとっては心底どうでもいいけれど、母はとても喜んでいたわね。
母の束縛に拍車がかかるから表彰なんてされたくないのが本音なのだけれど。
とにかく、妹は私と違って自由に育てられてきた。
それが良いのかどうかは分からないけれど、あの人の犠牲になるのは私一人だけで充分だわ。
一つ息を吐いて机の上の辞書を手に取り、立ち上がって辞書を手渡す。
「全く……置き勉も程々にね」
「ごめんって。すぐ返すね!」
「うん。勉強頑張って」
「はーい」
本当に頑張ろうとしているのか怪しいけれど、手をヒラヒラと振りながら辞書を片手に出て行った。
また一つ息を吐いて――溜息は癖みたいなものなの――勉強机へ戻り、腰を下ろす。
今度こそノートを開いた。毎日日記をつけているの。日記は日記でも愚痴日記。
母親からの重圧に、学校生活からくるストレス。確かに万人に好かれる人間なんていないのだけれど、特に中高生の言葉は刃なの。いつしか聖人なんて言われ始めた私でも、殺意を抱く時がある。
ガリッガリリッ!
力いっぱいシャーペンをノートに押し付けながら、愚痴を書いていく。
書く内容はその日の気分次第。ページいっぱいにびっしりと悪口を連ねる時もあれば、大きな字で一言『死ね』と書く時だってある。もしくは『死にたい』。ちなみに今日は『アホ』。書き終わった時、ブーメランだなと我ながら苦笑した。こんな愚行いつまで続けるのかしら? でも、これをやらないと私のメンタルが保てないの。そんなに強くないのよ、私。
毎日いわれのない悪意に囲まれている――そんな中、自分を保っていられる方法が他にあるのなら教えて欲しいわ。
日記を書き終わったらノートをしまって、また鍵をかけようとそれを探した。その鍵はいつも辞書の中に隠して――
「――あれ?」
机の上に辞書がないことを確認して考える――そういえば、さっきひまりに貸したわね。
「はぁ……」といつもの溜息を吐いてから、隣の部屋へと向かった。
ノックをするけれど、返事がない。もう一度試みる。やっぱり応答がない――何かあったのかしら?
「――ひまり?」
そっと扉を開けて、妹の名前を呼びながら中の様子を伺うと、彼女はテレビに釘付けになっていた。
その背中に安堵しながらも、ほら、やっぱり勉強してないじゃない――と、呆れながら近寄ると、ゲームをしているみたいだった。
画面には『どうしてですか……? 私がいったい貴女に何をしたというんです?』と書かれている。ピコンと可愛らしい音がして文字の表記が変わる。今度は『特に何も。目障りだと思っただけよ』と表示された。
「くそぉ、フローリアめぇ……」
「フローリアっていうの?」
「そうだよ。この悪役令嬢、本当むか――わぁ!?」
背後から顔を覗き込んで一緒に画面を見ていたら、驚かれた。
「お、お姉ちゃん……い、いつ入って来たの?」
可愛らしい目をぱちくりさせながら、私と少し距離を取る。気持ちを落ち着かせようとしているみたいね。
「さっきよ」
「あ、あの! これはね、違うんだよ! 何ていうか、ゲームの続きが気になって勉強が手につかなかったから、勉強をする為にゲームをやってるんだよ! 断じて、勉強するのが嫌いだからとか、面倒だからとか、そんな理由で現実逃避する為にやってるんじゃないんだからね! 勉強をする為に仕方無くゲームしてるんだからね! やりたくてやってるんじゃないから! 全く違うから! もう止めるし! すぐ止めるし!! こんなゲーム全然楽しくないし!!!」
分かりやすく慌てふためいている様子も子どもらしくて可愛いと思うのだけれど、それは本音ではなさそうね。
「フローリアっていう子は悪役令嬢っていうの?」
「――え?」
私の質問に、ひまりはクエスチョンマークを浮かべながら答える。
「あ、うん、そう」
「悪役って事は悪事を働くの?」
テレビ画面に映るその悪役令嬢――フローリアという少女に視線を向けながら淡々と話しかける。
「そ、そうだよ。すごくムカつくの。主人公はメイドなんだけど、ことあるごとにいちゃもんつけてきて、いびり倒してくるんだよ! ひどいでしょ?」
今度は怒りながら画面を指差し、説明してくれる。
私としては、自分が思っていることを良くも悪くも素直に表に出せるなんて羨ましいことだわ。私には許されていないから。
特に憎悪なんて本来人は内に秘めているものでしょう? けれど、それを惜しげもなく前面に出していて、何というか――興味が沸いた。
ひまりの隣に座って机の上を見ると、そのゲームのケースが置いてあった。
『異世界転生したら悪役令嬢からいびられるようになりました』
随分長いタイトルね。
「これをやっているの?」
「そうだよ。最近流行ってるんだ。異世界転生もの。あと、悪役令嬢ものもね」
「異世界転生?」
「死んでから異世界に転生するの」
「転生ってことは、生まれ変わるってことよね?」
「そうそう!」
――生まれ変わる、か。
「お姉ちゃんもやってみる?」
確かに興味は沸いたけど、ここで私が誘惑に負けてゲームをしてしまった日には、母の憤怒はひまりにまで及んでしまうでしょうね。それだけは絶対に避けなければならないから、少しでも可能性のある芽は生やしてはいけないの。
「いいえ。でも、どんなゲームなのか気になるわ」
少しだけゲームの話を聞いてから切り上げることにした。
ちなみにこのゲーム、ひまりは三周やっているらしいわ。怒っている割には随分はまっているわね。
「邪魔してごめんね。話せて楽しかったわ」
「そっか……でも、気に入ったならいつでも貸すから言ってね!」
きっと借りることはないと思うけれど、気持ちだけ受け取っておいた。
それから、すっかり忘れていた本題を思い出す。
「ありがとう。ところで、辞書はどこにあるの? 私も使うから返して貰いに来たの」
正規の使い方ではないけれど。
「ああ! ごめんごめん! ゲームする前に返せば良かった~」
誤魔化すように笑いながら、勉強机に移動して辞書を手に取って来てくれる。
「はい! また借りるかもしれないけど……」
立ち上がって、それを受け取った。
「その都度言ってくれればいいわ」
「うん! ――お姉ちゃん、頑張り過ぎないようにね」
「え?」
「お母さんはお姉ちゃんに厳しいから……せめて一日だけでも私が変わってあげられたらいいんだけど……」
その気持ちは有り難いけど、こんな重荷をひまりに背負わせたくはないわ。
母の期待は私にだけ向けられている。だから、窮屈な思いをしているのは私だけ。
昔は何の疑問も持たず、大人しく母親に従っていたけれど、思春期になってからはそれに違和感を覚え始めた。
だからといって、それを回避出来る行動力はないから言いなりになるしかないの。
ひまりにヘイトが向かない分、彼女はのびのびと過ごせているからそれでいいと思っているわ。
「ひまりに耐えられるの?」
「無理だと思う!」
堂々と言い切るわね。そんなところも愛しいわ。少し笑ってしまった。
「だから、お姉ちゃんのこと凄いと思ってるよ! 尊敬してる!」
家族の中で、私が一番心を許せるのはひまりだけ。
満面の笑みを見れたから、今日はいい気分だわ。
厳しい母の元にずっといられるのも、ひまりがいてくれるから。私にとって精神安定剤みたいなものなのよ、この笑顔は。
「ありがとう」
私も笑顔を返した。
自分の部屋に戻って来て、辞書の中に鍵を隠す。
「悪役令嬢……」
さっきのゲームを思い出した。
「――あ」
――分かったわ、私のメンタルを保つ方法。
悪行を行うのは、いつでもいいのよ――そう、生まれ変わった後でも。
今生きているこの世界では、私は聖人を貫く。
だけど、生まれ変わったら私は悪女になる――それで良いじゃない。
生まれ変わるまでの辛抱よ。それまでは、私は私を――殺し続ける。
いづれ悪行を行えるのだと思うと、気持ちが軽くなった。もう溜息を吐くこともない。
「宿題、しよう」
珍しく清々しい気持ちで宿題に取り組めた。
***
「おはよう、委員長!」
「おはよう!」
「あ、おはよう! 待ってたよ~」
「おはよう! 今日の工場見学一緒の班でめちゃくちゃ嬉しい! 他のクラスの子に自慢して回ったの!」
教室に入るなり、いつものようにクラスメイトが挨拶をしてくる。
殆どの人間が私の後をついて来る。大名行列でも作りたいのかしら?
「おはよう」と一人ずつ笑顔で挨拶を返して席まで向かい、机の上にカバンを置く。
「今日一日、校外学習だからって浮かれ過ぎよ」
私が微笑めば、誰もが恍惚な表情を浮かべる。私はアイドルと勘違いされているのかしら? 普通の女子高生なのに。
今日は半年に一度ある校外学習の日。皆旅行気分で朝から楽しそうに話してくるけれど、お菓子の工場見学なんて将来何の役に立つの? 甚だ疑問だわ。
班決めの時も誰と誰が一緒になるかで盛り上がっていて、私はもちろん引っ張りだこだった。けれど、私の体は一つだけ。四人一組の班だから、他に三人が一緒になれるのだけれど、先生の提案のお陰で私は好きな人と一緒になることが出来た。だから、他の二人が誰になろうと私にはどうでもいいこと。同じ班になったその二人はとても喜んでいたけれど。
「だって、憧れの委員長と一緒って、やっぱり嬉しいんだもん!」
一緒の班の女子が嬉しそうに話しかけてくる。彼女は信者みたいなもの。元々くせっ毛のロングへアだったのに、私を真似てセミロングのストレートボブに髪型を変えたし、使っている文房具も全て同じものを揃えたらしい。それを咎めるつもりはないけれど、さすがにやりすぎだと思うわ。
「ありがとう。私も嬉しいわ」
そう微笑んで返すと、「きゃー!」と騒いでいた。やっぱりアイドルと勘違いしているみたいね。今更どうこう言うつもりもないけれど。
「何が嬉しいだよ」
「ほんと。髪型まで一緒にして気持ち悪ぅ~」
後方の席からクスクスと笑い声が聞こえてくる。私は誰にもバレないように冷たい視線を送った。
所謂いじめなのだけれど、うちのクラス担任は野放しにしていて――というよりはなめられていて――基本的には委員長の私が対応するしかない。先生にはもう少ししっかりして欲しいけれど、一人で三十人の面倒を見るのは大変だろうし、そこまでの余裕はないのでしょうね。
さっきまで騒いでいた女子は、その子達の言葉によって委縮してしまった。
私はさっきまでの冷たい視線をしまい込んで、笑顔で振り返る。
「貴女達も真似していいのよ?」
「誰がするか! ふざけんな!」
「そうね。今の髪型も素敵で似合っているから、変える必要はないわね」
「は、はぁ!? うっざっ!!」
顔を真っ赤にしてるけれど、怒ってるいるというよりは照れてるみたい。
「こっち見んな!! クソ委員長が!!」
「はいはい」
いじめをしている子には、意外と褒めることが効くみたい。人によるとは思うけれど。
今度はさっきの信者の子に向き直って、また微笑んで見せる。
「気にしないで。色んな人がいるから」
「う、うん!」
少し元気を取り戻したようだった。
私が話しかけただけで機嫌が良くなるなんて単純ね。羨ましいわ。
こんな風に対応はしていても、傷ついてはいるのよ?
家に帰っては母親からの束縛に悩まされ、学校ではクラスメイトに悩まされる――板挟みにあっていて、気の抜ける瞬間は殆どないもの。
「委員長はすげーよな~。問題児にも普通に接してて」
「正しく聖人よね!」
「うんうん!」
周りの生徒が私を囃し立てる。
「誰が問題児だよ! 聞こえてんぞ!」
「突っかかってくるってことは自覚あんじゃねーか、問題児!」
「はぁ!?」
女子達と受けて立つのは男子達。またいつもの小競り合いが始まってしまったわ。
心の中で呆れていると、後方の席に座っていた女子達がこちらへ向かって来る。この子達はすぐに手が出るから扱いに困っているの。さっき適当に治められたと思っていたのに。
「だいたい、私らよりもっと問題児がいるだろ!!」
「お前らも変わんねーだろ!!」
貴方達も変わらないわよ。
とりあえず、止めないと。どうしようかしら?
「何だと!!!」
女子達が男子達に手を伸ばした瞬間――
ガラッ。
扉が開いて、一人の男子生徒が入って来る。
さっきまで数人の男女達に注がれていた視線は、一瞬にして扉の方へと集まった。
その顔にはいくつも絆創膏やガーゼがあり、口元には痣。また喧嘩したのだと一目瞭然。
彼が一歩歩を進める度に、教室中の生徒が息を呑む。
そして、その鋭い瞳孔が対立している生徒達に向けられた。
「――どけ」
短く、刃物のような声が飛び、生徒達は我に返ったようだった。
「お、お前ら覚えてろよな!! 次はこうはいかないから!!」
「こっちのセリフだよ!!」
口々に負け犬の遠吠えを吐きながら、それぞれ自席に戻って行った。
それを見送ってから、私は彼に声をかける。
さっき彼女達が言っていた「もっと問題児がいるだろ!!」という言葉は彼のこと。私が喧嘩をどう治めようか考えていたことなんて愚行に終わったわ。彼が来るだけで、皆が大人しくなるんだもの。正直、助かったわ。
そして、私が聖人と言われる所以を作ったのも、彼。問題児と言われている彼だけれど、私の一言で大人しくなるの。だから、私がいれば生徒達も先生達も安心ってこと。そこから聖人なんて崇めるような言葉を使う人が増えたのよね。
でも、何で彼が私の言う事を聞いてくれるのかは謎。
とにかくいつものように挨拶でもしておこうかしら。私は誰にでも平等に接する聖人なのだから――彼に関してはそれだけではないけれど。
「おはよう、清水君」
彼の視線が一瞬、私を捉えて、すぐに逸らされた。
「――ああ」
横切る瞬間、短く聞こえたその声に私の胸は酷く高鳴った――。
***
「一組の皆さん、このバスに乗ってくださーい!」
先生と一緒に、クラスの皆を誘導する。全員が乗り込んだ所で、私も先生に続いた。
バスの中では皆がはしゃいだ様子でじゃれ合っている。楽しそうで何よりだけれど、高校一年生にもなって校外学習ぐらいでここまで騒ぐのはどうなのかしら?
バスの中を見回わす。入って左側――運転席の後ろの一列目は先生用の席だから生徒は座れない。委員長である私は右側の一列目に座るよう指示されていたから、そこに座ろうとしたら窓側に清水君が座っていた。
「ごめんなさいね、花園さん。清水君の事見張ってくれる?」
先生からの指示が更に追加。
なるほど、お目付け役ってことね。好都合だわ。
「はい。しっかりと」
笑顔で返して――いつもは作り笑顔だけれど、今回は自然と笑みが出た――彼の隣に座る。想像していた以上に緊張した。
かくいう清水君は、肘掛けに肘を付いて掌に顎を置きながら、つまらなさそうに窓の外へ視線を投げていた。動き出した景色をずっと眺めていて会話は皆無。元々交流は少ない人だけれど、私は何かと彼の事を頼まれたりするので、完全にお目付け役になっていた。
最初は面倒だと思っていたけれど、今では心が弾む。
後ろではみんなが楽しそうに談笑している声が聞こえる――羨ましい。私も話しかけてみようかしら?
「今日は来てくれてありがとう。清水君は来ないのかと思っていたわ」
彼の様子を伺いながら話しかけてみる。思ったよりもずっと勇気が必要だったわ。膝の上の手が少し震えているもの。
「――登校する度に、誰かさんが来いって煩かったからな」
体中に怪我を作っている割には、話しかければ普通に返してくれる。ちょっと面倒臭そうではあるけれど。
でも、返答が来て安心した。
「一緒に来たかったの。清水君、あんまり学校行事に参加しないでしょ? たまにはいいじゃない」
少し間が空いてから「まぁな」と短い言葉が返って来た。
彼の視線はずっと外に向けられたまま。私に釘付けにならない、数少ない人物。
特に男子なんて、私に恋心を抱く人ばかりなのに、彼だけは違う。
唯一振り向いて欲しいと思う人は私に興味がないなんて。もどかしい。
彼の横顔をじっと見る。毎日ように絆創膏やガーゼを張り付けて、痛々しいことこの上ない。
出来心のようなもの――絆創膏から覗く赤い部分に手を伸ばして、そっと触れてみた。
「いてっ! 何すん――」
――やっと、視線が交わった。
彼の傷を触った私の手を、彼が握る。初めて触れる、彼の体温。態度に似合わず、暖かかった。
「――やめろ」
素っ気ない声が聞こえて、その視線はすぐに逸れてしまった。
手が離れそうになって、寂しく感じた。だから、少しだけ握ってみた。
――離さないで。
その瞳が一瞬見開かれて、今度は少し戸惑うように視線が彷徨う。私の瞳を見ているのか、私の手を見ているのか。
「――何だよ」
ぶっきらぼうな言葉が私を現実へ引き戻してしまった。
「傷、痛くないの?」
「いてーよ。だから、触んな」
「ごめんなさい」
「謝んな」
「じゃあ、何て言ったらいいの?」
「何も言わなくていい。話しかけるな」
突き放すように言われて、心が締めつけられた。
そのまま視線はまた窓の向こうへ。繋がれていた体温も離れていこうとするから――
「待って」
その暖かさを強く握る。
通路を挟んだ隣の先生は資料に目を通している。他の生徒は隣の生徒や前後の生徒と会話を弾ませていた。
私の隣に清水君が座っていることが抑止力になっているのか、今私を気に掛ける人はいない。
――こんなチャンス、きっと二度とない。
「――何?」
清水君のぶっきらぼうな声が私の心を射抜く。
その声が私に興味がないことを告げている――最初から負け戦なのは分かっているわ。
彼の右手に両手を添える。
「今だけでいいの。手、繋いでてくれない?」
清水君は何も言わずに視線を外へ向けてしまった。
急にこんなこと言われたって、拒否されるだけなのは分かっていたのに――
「――分かった」
「え?」
意外な返答が聞こえたかと思うと、彼の右手が私の左手を絡め取る。そのまま座席の上に置かれた。私の手の上に彼の手が乗っかっている。ゴツゴツして大きくて暖かい。
何が起こったのかすぐには理解出来なくて、繋がった手をじっと見ていた。
「だから、もう話しかけんなよ」
そっか。話しかけられるのがうっとおしかったのね。
「うん」
私は何事もなかったかのように前を向いた。
自然にしていないと、手を繋いでいることがバレてしまうかもしれない。今だけは誰の目も気にせずに二人だけの秘密にしたいの。
「あと――大地でいい」
「え?」
「苗字より下の名前のが呼ばれ慣れてるから」
下の名前で呼んでいいってこと?
「大地、君……?」
「――そう」
私、今きっと変な顔をしているわ。清水君が――大地君が外を見ていて良かった。
「じゃあ、私のことも立香って呼んで」
「――分かった」
私からは彼の表情を伺い知ることは出来ないけれど、さっきよりも繋がれた掌が熱く高揚しているのは気のせいじゃない。
手を繋いでくれた。
名前で呼び合うことになった。
これは、もしかして――
「うわあああああっ!!!」
運転手さんの尋常じゃない声が聞こえたかと思うと、バスが大きく傾いた。そのまま私の体は大地君の体に強制的に寄りかかる。
突然のことに、後方からは悲鳴が聞こえてくるし、傾きは止まらないし――バスの中は瞬時に大混乱に陥った。
怖くなって大地君にしがみついていると、大地君も私を庇うように抱きしめてくれた。
暫くしてバスの動きが止まったのか、大きな振動も一緒に止まった。
――そっと目を開く。
バスの中の筈なのに、さっきまで見ていた景色とはまるで違う。
何が起こったのか把握出来ないでいると、頭上から声が降って来た。
「大丈夫か?」
「――あ、うん」
大地君の声に少し安堵が蘇る。
ハッと気づく。大地君が私の下敷きになってくれていた。色んな意味でドキッとした。
「あ、ごめんなさい! 大地君こそ、大丈夫!?」
「俺は喧嘩で慣れてるから大丈夫」
それはどうかと思うけれど、外傷は最初の傷ぐらいしか見当たらなかったから、一応安心しておく。私よりは丈夫に出来ていそうだものね。
徐々に他のみんなの声も聞こえて来て、無事が確認出来た。
「みんなー!! 大丈夫ー!?」
先生がバスの後方に声を投げかけると、「大丈夫!」と元気な声が口々に聞こえて来たので一安心する。中には「怪我した」「背中打ったみたい」「血出てる!」といった声も上がったけれど、聞く限りでは命に別状はなさそうだった。
状況を把握しようと辺りを見ると、さっきまで座っていた筈の椅子が上にあった。
――天地がひっくり返っている。
衝撃が起こる前の運転手の声を思い出し、事故に巻き込まれたに違いないと、少なからず一般的に結論づける。
バスが半回転するぐらいの衝撃の中、皆が無事なのは奇跡だけれど、もう一度辺りを確認すると凹んでいる部分もある。ヒビの入った窓の外を確認すると少しだけ発火も見られた――今一番恐れるべきは二次被害だわ。
「先生、早くバスから出ましょう。いづれ、爆発が起こるかもしれません」
「そ、そうね!」
安堵するのはまだ早い。先生を急かし、他の皆をバスの外へ移動させる。扉が何故か開いていた。もしかしたら、運転手さんが逃げ道を確保するためにとっさに機転を利かせて開けてくれたのかもしれない。事故の影響で扉の機能がバグったともいえるけれど。何はともあれ不幸中の幸いだわ、ここから外へ出られる。
「みんな!! 早く外へ出るわよ!!」
「慌てないで、落ち着いて」
私と先生は不安そうな生徒に声をかけながら誘導していく。
「俺は何をしたらいい?」
大地君が気を利かせて声をかけてくれたので、甘えることにした。
「運転手さんが心配なの」
「分かった」
それだけ言って、大地君は生徒達の中に混じりながら、でも外へ出るのではなく運転席へ向かって確認してくれた。
遠目で見てもエアバックが出ていたから、もしかしたら――。
不安に思っていると、大地君が視線を送って頷いてくれた。生きているみたい。私も頷いて返す。大地君はそのまま運転手さんの腕を取って、外へ移動させてくれていた。大地君に任せればきっと大丈夫。私はクラスメイトの避難を優先した。
「これで全員かしら?」
バスの中を見回すけれど、他に生徒は見当たらない。
本当は避難しながら一人ずつ数えられたら確実だったのだけれど、先生にも私にもそこまでの余裕はなかった。
「じゃあ、花園さんも。ありがとね、手伝ってくれて」
「いえ」
少し不安を覚え、バスの中を見回すが、先生に急かされて外へ出た。
道路の外へ出て、初めて気が付く。前後が大きくえぐれたトラックが目の前にあった。私達の乗っていたバスと後方が衝突したのでしょうね。その前方にも幾つか破損した車が見えたから、玉突き事故だと推測する。詳しいことは分からないけれど。
先生は点呼をして、クラスメイト全員が無事かどうか確認していた。
「おい」とぶっきらぼうな声が聞こえて振り返る。
「大地君。運転手さんは?」
「頭から血が出てるけど、息はある。さっき別のクラスの先生が来て、警察に電話してた。救急車も手配してたから、その内来ると思う」
「そう、分かった。ありがとう」
辺りを見回すと、運転手さんの傍に二組の先生を見つけた。慌てた様子の声が聞こえてくる。どうやら、他のクラスの先生にも連絡を取ってくれているらしい。
私達一組のバスは先頭を走っていて、二組から五組のバスは後ろを走っていたのだけれど、特に被害はなかったみたい。今は全て停車しているのが見えた。
「――あれ?」
先生の青ざめた声が聞こえて、振り返る。
「一人、足りない……」
――まさか。
慌ててバスの方を見ると、小さく音が聞こえた。
一人の女生徒が力なく窓を叩いている。
「先生! あそこ!」
クラスメイトが指を差すと同時に私は走り出した。
「おい、待て!!」大地君の声が聞こえて、次いで「花園さん!! 清水君!!」と先生の割れんばかりの声も聞こえて来たけれど、無視してバスの中に戻った。
困るのよ、私の前で死なれちゃ――私が築き上げた『聖人』の名が穢れるでしょ?
「おいって!! 何考えてんだ!!」
バスの中に戻った所で、大地君に手を掴まれる。
「助けるの」
「俺が行くから、外にいろ!」
「大地君も何を考えているの?」
「いいんだよ、俺は慣れてるから!! こんなちっせー手で何が――」
ドオオオオオン!!!
また大きな音がした。
外を見ると、真っ赤な海が広がり、さっきよりも暑さを感じる。
予期していた事態が起こってしまった――いや、想定していたよりもずっと火の回りが早い。
「言い争っている時間はないわ」
隙をついて大地君から逃れ、バスの奥へ向かう。
「全く……」とぼやき声が聞こえたけれど、大地君はそれ以上何も言わずに着いて来てくれた。
一番奥の席まで向かうと、取り残されていた女生徒がいた。駆け寄って様子を確認すると、右足が折れていた。変な方向に曲がっていて見ていられないけれど、そんなことを気にしている場合でもない。
屈みながら話しかける。
「ごめんね、気づかなくて」
「委員長……私、足が……でも、言い出せなくて……でも、死ぬの、怖くて……」
彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
クラスの中でも一番目立たない大人しい子だった。どうして気づかなかったの、私のバカ。
「大丈夫、貴女は絶対死なせない。大地君」
「ああ」
大地君が背中を向けてくれた。そこに彼女がおぶさるように体を支えてあげる。
本当は応急措置ぐらい出来れば優良なのだけれど、あいにくそんな時間も知識も道具もない。彼女には申し訳ないけれど、痛みは我慢して貰うしかないわ。
女生徒をしっかりとおんぶした大地君は、そのまま出口へ歩いて行く。
私は外の光景を見て、火の回りを確認する。火は今にも出口を飲み込もうとしていた――間に合わないかもしれない。
出口まで来ると、私は最終手段に出た。
「ごめんね、二人とも」
「え?」と大地君が振り返ろうとしたけれど、私は気にせずに女生徒の背中を思いっきり突き飛ばした。
二人が外へ出たと同時に炎が出口を一気に飲み込んだ。
――私は、バスの中に閉じ込められた。
辛うじて火の合間から二人の様子が見て取れた。女生徒の背中に火がかすめて燃え上がったけれど、大地君が急いで彼女からブレザーを脱がして遠ざけていた。
二人とも無事だったけれど、大地君はその後、私に向かって何かを叫んでいた。火花の音が煩くて聞こえなかったけれど。
私はその場に寝転んだ。凸凹しているそこは、お世辞にも寝心地がいいとは言えない。
「ふふっ」
それは、嘲笑。
――私は、自分の死すら『聖人』の材料にしてしまった。
聖人と呼ばれることに慣れてはきたけれど、本当の私はもっと醜くて情けない。
母の言いなりになることしか出来ない、唯のお人形。
――何ともバカげた人生だったわ。
このまま死ねば、私はクラスメイトを命がけで救った聖人として生涯語り継がれるでしょうね。この死に方だったら、母だって何の文句も言わない筈。
「最高の死に方だわ」
背中が熱くなってきた。辺りも火の海。このバスには大量にガソリンが積まれている筈だから、それを全て吸って炎はもっと成長するでしょうね。そうすれば、私は一瞬でお陀仏。出来れば苦しまずに死にたいのよ。
徐々に辺りが、体が熱くなっていく。二酸化炭素を吸った体が意識を遠くする。
――やっと、終わる。
生まれ変わったら、聖人だった私なんて想像も出来ないような人生を送ってやるわ。それが楽しみで仕方がない。
重たい瞼を閉じた時、ある人の声が聞こえてきた――
――立香!!!
*****
声が聞こえてきた瞬間、重たかった瞼がいとも簡単に開いた。
一番に視界に入った天井はみすぼらしい木造建築。
「――懐かしい夢ね」
上体を起こしてから一つ息を吐くと、両足をベッドから投げ出す。
体重を乗せると、床がギシギシと鳴いた。
窓の外へ視線を馳せると、長閑な風景が広がっている。そこから、自分の足元へ視線を下げると、足枷が目に入った。髪の毛がだらりと肩から落ちていく。艶やかだった面影はもう無く、ボサボサの乾燥した髪に触れる。
「情けない姿ね」
足枷、みすぼらしい身なり、長閑な風景――私は、追放された憐れな少女。
様々な悪行をしてきたけれど、私は後悔なんてしていない。だから、こんな状況でも笑えるの。
「悪役令嬢も、悪くないわ」
聖人でいる必要がなくなったこの世界で、私は伸び伸びと生きていた。
だけど、私はこれから知ることになる。
この世界に転生したのは、私だけではなかったと――。
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