群青に響き渡れ、歌えば届く!

月島こめつぶ

第1話 数B選択クラス

「で、どうするんだよ」

 

 黒板でコツコツと鳴るチョーク音と紙の擦れる音だけが聞こえる空間で、隣の席からそんな話し声が聞こえてきた。

 今は二時限目、数B選択クラスの授業中である。

 文系に進む生徒が多いこの高校で、数少ない数Bを選択をした人達だけが集まっている。皆、先生が黒板に描く数列を見ながら黙々とノートにシャーペンを走らせていた。

 

 が、その空間にまるで別次元にいる様な存在感で堂々と話こむ人達がいた。

 

(またこの人達か……)


 結城音葉ゆうきおとはは心の中でそう思いながらため息を一つ溢した。


 音葉が通っている都立南雲平なぐもだいら高等学校は、都内にある中堅高校である。

 最近学校側が魅力を高めようと躍起になり、制服が新しくなったり、校舎を建て替える計画を進めたりしているが、それを省いたら至って普通の高校と言える。学力は平均かそれより少し上ぐらいで、敷地も特別広いわけでも狭いわけでもない。これといって部活動の成績も抜き出たものはなく、いい意味でも悪い意味でも平凡で穏やかな校風だと音葉は思っている。


 そして、音葉も至って普通の高校二年生だ。

 テストの総合成績はいつも学年で約二百人中、百位くらいに収まり、運動神経は特別悪くも良くもない。目立つこともなく、今の所平和な高校生活を順調に過ごしている。


 そんな音葉は『このまま卒業まで何事もなく平和に過ごしたい』と強く思っている。


 しかし、高校二年生になり始まったこの選択クラスで、音葉は運悪く真逆の世界を生きている様な人達と同じクラスになってしまい、さらにはその存在が常に隣の席にいる状況である。


 今日も音葉の横から場違いな音量でヤイヤイと話し込んでいる声が、嫌でも耳に入ってくる。

 周りの学生も視線をこちらに向けてはいないものの、またかと言わんばかりの雰囲気を背中から出していた。毎度授業中この状態なので、クラスの空気がこうなるのも仕方がない。

 選択クラス故に、面識がない人ばかりが集まっている即席クラスと言う面が、さらにその空気に相乗効果をもたらしていた。


 そんな中、二人は気にしているそぶりもなくずっと話し込んでいるのだから、逆に凄いと思ってしまう。


(メンタル強すぎでしょ。それともこの空気に気付いてすらいないの? それはそれで恐ろしい……)


 音葉は顔を黒板に向けたまま、視界の端に神経を研ぎ澄ませ二人の様子を呆れ半分で伺った。


 通路を挟んだ隣の席で、完全に後ろを向いて話している男子がいる。

 名前は木下響きのしたひびき


 男子にしては小柄で、目鼻立ちがはっきりとした横顔からは、長いまつ毛がしっかりカールを描いているのが見える。女子からはさぞ羨ましがられるだろう。

 そんな彼はスポーツ万能の超人として、同じ学年ではちょっとした有名人である。音葉も同じクラスになるまではそのイメージが強かった。

 今の印象は猪突猛進、我が道をゆく陽キャラ問題児ってところだろうか。今まさに授業中にもかかわらずこうして後ろを振り返って堂々と話し込む姿がそれを物語っている。


 そして話し相手は学年トップの天才くん。

 名前は三上律みかみりつ

 高身長で頭も良く顔もモデルになれそうなくらいに整っている。成績優秀で素行がいい彼は、先生からの信頼も厚い。

 いつも爽やかな笑顔でいることから『爽やか王子』というあだ名を持つ彼も、やはり有名人である。


 最初に二人が仲良さそうに話している姿を見た時、音葉はとても驚いた。それが授業中だったので尚更である。

 てっきり優等生である三上律はそういうことをしないものだと思っていたが、意外という言葉に尽きる。

 学年トップの天才でも意外な一面があるものだなと、この二人が話しているのを初めて見た時に音葉は思った。正直レアな物を見れたと、ちょっと得した気分にもなっていた。


 が、今となっては毎度のことで流石に飽き、逆に迷惑だと思い始めている。それはきっと音葉だけではなく、このクラスにいる生徒全員が思っているはずだ。

 問題児と優等生という対極な組み合わせ。


(どうしてこの二人は仲がいいのだろう……)


 話している二人を毎回見るたびに、音葉の頭の中にはその疑問が浮かぶ。

 一つ言える共通点は、ザ平凡である音葉でも名前を知っているぐらい有名な二人だという事ぐらいである。


 そんな二人が話しているだけで異様な空気になるのに、それが授業中ということもあって目立ち過ぎる。まるで『怒られたいです』と言っているも同然だ。


 しかも、今日はより一層周りが見えていない様子だ。

 二人の横顔には深刻そうな表情が窺え、いつもの楽しそうに話している雰囲気ではない。


(絶対注意されるんだろうなこの人達……)


 心の中でそう思いながら見なかった事にしようと思うのだが、いつもと違う二人の様子がどうしても音葉の好奇心をくすぐってくる。

 黒板に書かれた投げやりな字をひたすら自分のノートにまとめようとするが、上手く集中できない。

 ふと、黒板に字を書き殴っていた先生の後ろ姿に視線を向けると、いつ爆発してもおかしくない空気を纏っている。


 音葉は思わず天を仰ぎたくなるような衝動に駆られた。

 先生が怒った時の事を想像すると、今すぐにでもイメージ通りの優等生くんに戻って欲しいと音葉は願う。


 五十代後半くらいだろうか。選択数Bクラス担当である先生は、白髪混じりのベリーショートカットでいつも婆婆臭いスーツを着ている。

 見た目は厳しそうな先生だが、普段は比較的温厚な人だ。

 が、そんな先生だろうと人間に違いないので、堪忍袋の緒には限界がある。そして、普段怒らない人が怒る時ほどめんどくさいものだ。

 この先生の場合、怒ると独特な金切り声を上げる為、耳がキンキンしてものすごく不快になる。耳がいい音葉にとって、それは苦痛でしかない。


 できれば、音葉の鼓膜が無事なうちに終礼のチャイムを迎えたかったが、それは叶わぬ夢だったらしい。

 数式の説明をする先生の声が徐々に大きくなり、それに伴って声色が転調していく。音葉の思いも虚しく、すでにお怒りモードのスイッチはONになってしまっていた。


(あー私の耳、どうか神の御加護をアーメン……)


 音葉は頭の中で十字を切るイメージを浮かべながら、心の中でそう嘆いた。


「文化祭まで後3ヶ月だぞ?」


「まあまあ落ち着いて、響。そんなに焦っても状況は変わらないよ」


 二人の話し声も段々とヒートアップし、いやでも内容がはっきりと聞こえてしまう。

 文化祭で何かやるはずだったのに、それが難しい状況になってしまったのだなと冷静に推測をし始めた音葉は、もはや平和な授業時間を過ごす事を諦めていた。

 この人達はこの人達なりに大変なんだなと同情するが、今ここで話すことでもないだろうとも思う。


 先生も遂に授業をストップして、いつになったら自分たちの置かれている立場に気づくのかと、話している二人にガッツリ視線を送っている。しかしそんな状況もお構いなしに二人の話は続く。


「このままじゃまずいだろ!」


「俺は今のままでも充分楽しいけどな。確かに深刻な問題だとは思うけどさ」


 三上律の落ち着いた声と木下響の強い口調が交互に聞こえてくる。

 見ていないフリをここまで突き通しながら会話を聞いていた音葉だが、ごまかす事にも限界を感じ始め、むしろその後の展開に対する関心がさらに高まっていく。

 音葉はいつの間にか二人の凸凹な会話に聞き入っていた。

 そんな時だった。


「お前はもっと焦ってくれよ。ボーカルなしの歌えないバンドなんて聞いた事ないぞ? バンドにボーカルは絶対必要! あー何処かにあの『高校生シンガー』いないかなー」


「誰それ」


「動画配信サイトで見つけた、現役高校生シンガーでさ! それがスゲーんだよ! 確か名前はおと……」


「あっ!」


 まずいと思って口を押さえた時には、もう自分の声が教室に放たれた後だった。無意識で体が反応してしまい、今更口を閉ざした所で後の祭りに他ならない。

 騒がしい二人の会話から聞き覚えのあるフレーズが出かけ、それを止めることに成功したはいいが、その代償として教室の雰囲気は凍りついた。

 自分が思っていたよりもだいぶ大きい声だったらしく、異様なものを見るような目線が音葉をグサグサと突き刺してくる。


(完全にやらかした……)


 今更嘆いてもしかたがないと分かっていても、頭の中にはそう叫ぶ自分がどうしても現れる。


(これでただの聞き間違えだったら恥ずかしすぎる)


 あんなマイナーな動画チャンネルを見た人がこの学校にいる訳がないと思う一方、言われかけた名前が音葉がよく知っている人物であることに、なぜか直感的な自信があった。

 だからこそ、ここで、この学校でその名前を聞くことはどうしても避けたかった。


 場の空気は静まり返り、数秒の沈黙が数分あるように感じた。顔が熱を帯びるのを感じ、冷や汗が背中から滲み出る。


(最悪だ。もうどうにでもなってしまえ!)


 音葉は恥ずかしい気持ちを悟られない為に、あえておちゃらけた感じで『すみませーん』と言って席に座る事を選び、行動に移そうと腹を括った。

 しかし、タイミングとは時に残酷なものだ。


「お前!」


 音葉が言葉を発する一歩手前で先に行動したのは、この事態の元凶である木下響だった。

 彼は席を立ちながら声をあげたと思ったら、一歩音葉に近づいて来た。

 さすが、運動神経が良いだけあって、行動の瞬発力も早い。強烈に食いついてきた木下響に圧倒され、反射的に後ずさろうとして椅子の足からギーッという低い音が鳴る。

 

(何か言わないと……この空気をどうにかしないと……)


 しかし、緊張と焦りで声が出てこない。両手に変な汗がジワッと出てくるのをただひたすらに感じる。お腹と喉に力が入らない。


「なっ……何……」


 やっと声が出た事にほんのちょっと安心し、気が抜けたその瞬間、


「あなた達! 今は授業中よ? 何回言えば気が済むのですか!」


 甲高い金切り声が音葉の鼓膜を小刻みに揺らす。思わず耳を手で覆った。

 その後もぼやけた高音が何かを言っているようだが、もはやその言葉の意味を理解する余裕などなく、音を遮る事に必死になった。

 オペラのソプラノ歌手が響かせる、透き通って洗礼された音ならいくらでも聞いていたい。が、先生の発する高音は同じ高音の類でも全く別物である。とても窮屈で締め上げられているような音。声の出し方が酷すぎると音葉は思った。


「先生、俺らが悪かったから謝るけど、その声の出し方酷すぎ」


 その言葉に音葉はハッとして、思わず目を見開きながらその声の主を真っ直ぐ見つめる。

 

(私と同じことを思った人がいる)


 音葉の視線の先には両手で耳を塞ぎ、先生に向かって若干歪んだ顔でカラカラと笑っている木下響の横顔があった。


(この人、きっと耳がいいんだ)


 音葉はそう思った。

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