第18話 博物館の夜
夕食の後、クローナ邸の裏庭で剣の素振りをしていたイヴァンのもとにアルヴィスがやってきた。
「ティアを見なかった?」
「いや。飯の後から見てないけど…」
白い息を吐きながら、イヴァンは手を止めて向き直った。もうすっかり日は暮れ、夜の空気は冷たく澄んで、動くのを止めるとすぐに汗が冷えてひんやりとした感覚が押し寄せてくる。
「そうなんだ。この町に来るのは初めてだって言ってたのに、大丈夫かな」
その様子からして、何処へ行くかも言わずに出て行ったようだった。リーデンハイゼルにいた頃は過剰なほど四六時中べったりとくっついていたのに、クローナに来てからは全くの正反対だ。
「探しに行って来ってこようか?」
そう言って、イヴァンは、剣を鞘にしまって植木の端にひっかけていた上着を取り上げる。だが、歩き出そうとする彼をアルヴィスが止めた。
「狭い町だし、たぶん大丈夫だよ。どうせだし僕らも出かけない? この時間なら観光客はもう帰ってるから、静かだよ。」
「いいぜ。どこに行くんだ?」
裏門から通りに出ると、涼しい風が吹きぬけた。街灯に照らされた石畳の小路を、家路を急いでる人とすれ違う。
「夜は妙に寒いな。もう一枚持ってくれば良かった」
寒さを感じて、イヴァンはまくりあげていた袖を下ろしにかかる。
「王国の北の果てだからね。これより北にはアスタラ氏族の自治領があるくらいで、あとは海までずっと険しい山脈が続いてる」
見上げれば、冷たく澄んだ空に無数の星々が散りばめられ、夜空に向かって聳え立つ城壁が黒い影となって、空の下半分を遮る地上との対比を作っていた。
イヴァンの故郷、西の果てのサーレ領では見ないような空の色だ。
「どこ行くんだ?」
「博物館。広場にあるんだ」
「こんな時間じゃ閉まってるんじゃないか?」
「だからいいんだよ。」
笑いながら、アルヴィスはくねくねと曲がる道を歩いていく。どこの道もひどく狭く、入り組んで、慣れていないとじきに迷ってしまいそうなつくりだ。
そう時間を置かずに広場に出た。
目の前に閉ざされた門があるが、そこは、今日潜ってきたのとは違う側の門のようだ。周囲には観光客向けの屋台らしきものがあるが、既に全て片付けされている。振り返ると、広場に面した場所にクリーム色の石で出来た立派な建物があった。窓辺には洒落た植物のつる模様が入っており、雨どいを彫刻の梢が支えている。
「これが博物館。建物は、二百年前の国王シドレク様が、”白銀戦争”後の和解の印としてクローナに贈ったものだそうだよ。当時は商館として使われていたんだけど、今は改装して町の歴史の紹介に使っているんだ。」
説明しながら、アルヴィスは慣れた様子で、まるで親戚の家にでも遊びに来たかのように裏の職員用通路から中に入って行く。
「あらアルヴィス様、こんな時間に見学ですか?」
裏口にいた、職員らしき女性が声をかけてくる。
「ちょっとね。閉める時は教えて」
「わかりました」
ランプの光に照らし出された、誰もいない夜の博物館は、博物館というより骨董品の集められたただの古い館のようでもあった。足元には年代物の絨毯が敷かれ、かつて使われていたらしい調度品や壁の絵画などもそのままだ。廊下に並ぶ部屋の扉はすべて開け放され、「順路」や「出口はこちら」などの看板が、来館者を誘導するためにつけられている。
周囲を見回しながら歩いていたイヴァンは、途中のガラスケースの前で足を止めた。
「…この剣」
黒い、煤けたような色の輝きを宿す剣が一振り、ビロウドの台座の上に丁重に飾られている。窓から差し込む光が切っ先に残る鋭さを際立たせ、見ているだけで緊張してくるようだ。
「やっぱり君は、そういうのが気になるんだね」
「ああ。フィーにもらったやつに似てるから…」
「似てるのは、同じハザル人の作ったものだからだよ。」
そう言って、アルヴィスはすらすらと説明していく。
「この剣は”ファンダウルス”。アストゥールの初代王、イェルムンレクが使ったものだと言われている。代々クローナの王家に伝えられてきたもので、最後に使用したのは二百年前のアルウィン王だ。」
「今の王様は使わないのか?」
「古すぎて、もう、実用に耐えられる強度がないらしい。打ち直すと別物になってしまうし、これはこれで飾ってあるんだ」
確かに、刃は少し欠けているし、柄の部分だけ見ても相当使い込まれたものだということは分かる。
「この部屋はクローナ王家に伝わってきたものの展示室だね。こっちにあるのがクローナ家に伝わる”白銀の樹”の紋章のオリジナル。だいぶ磨り減っちゃってるけど…そこの壁にかかってるのが昔のクローナの町の平面図で、次は焼失前の領主館を描いた絵。それから…」
部屋の中をぐるりと一周して廊下に出ると、壁一面に肖像画が並んでいる。
「…代々の当主だね。一番最後が今の当主、メネリク先生」
質素な銀枠の中で、若い頃のメネリクがしかつめらしい顔をして黒い瞳をじっとこちらに向けている。その顔は、どことなくアルヴィスに似ている気がした。それから、リーデンハイゼルの広場で見た、あの石像にも。
廊下を歩いていくと、吹き抜けのホールに出た。二階への階段がある。そこが、本来の出入り口らしい。受付の中で開館の準備をしていた女性が、アルヴィスに気づいて微笑みながら会釈をした。顔見知りらしく、アルヴィスも片手を上げて応じる。
「この館の二階には書庫もあるんだ。建国からの歴史を書いた
「歴史かぁ。俺、本はあんまり判らないな…。」
「それじゃあ、地図を見にいこうか。世界地図があるんだよ」
二階に上がったところでアルヴィスは足を止め、振り返って、背後の壁を指差した。「ほら。あれがそうだよ」
振り返ったイヴァンは、思わず「おおっ」と声を上げた。壁一面が巨大な地図になっていて、天窓から差し込む光の中に浮かび上がっている。遠くて細かいところまでは見えないが、近づくより、かえってここからのほうが大地の全体の様子がわかる。
地図の上部に書かれている言葉は、”
「でけえな…。これ、ほとんどアストゥールなんだよな」
「そうだね」
アルヴィスは頷く。
大陸の端のほうにはやや曖昧なところもあるものの、大陸の半分以上がアストゥールの領土として表示されている。国土を縦横に走る街道と、国境線とは、ここからでもはっきり見えた。そのお陰でイヴァンにも、サーレ領がどこにあるのかが分かる。
サーレのすぐ西側には、濃い緑の色が塗られ、曖昧にぼかされている。館から見えている山脈のすぐ向こう側のはずだ。距離は近いが、間にある渓谷のせいで、イヴァンは一度も行ってみたことがない。
今更のように、領地の西側にも土地があることに気がついて、彼は少し驚いた。国境の向こうには、何もないと無意識のうちに思い込んでいたのだ。けれど地図の上では、どうやらそこにも国らしきものがあり、誰かが住んでいるように見える。
しばらく地図を眺めていると、階下で閂の下ろされるような重たい音がした。同時に、足音が近づいて来る。
「アルヴィス様、そろそろ閉めますよ」
「あ、はーい。そろそろ戻らないとだね」
一階に戻り、裏口から外に出る。
「はー、あんまじっくり見られなかったけど、面白いもんが色々あったな。」
「でしょ。僕も好きな場所なんだ。今度またゆっくり見においでよ」
「ああ。このくらいなら、歴史の勉強も頭が痛くならずに済みそうだしな」
くすっと笑ってから、アルヴィスは、何故か少し沈んだ表情になった。
「――この町は、”歴史”だらけだ。リーデンハイゼルもそうだけど、この町の場合は…。僕なんかに、ここの当主が務まるのかな」
「どうしてそう思う?」
「僕は…」
彼は、ちょっと言葉を切った。
「イヴァンは、”伯爵家”っていう身分のこと、特別だって思ったことはある?」
「無いな、…いや」
答えてから、彼は、リーデンハイゼルでのことを思い出して言い添えた。
「…王都に行くまでは別に気にしてなかったんだけどさ。なんか周りの連中がやたら気にしてくるんだよな」
「そうだよね。クローナ家は”大公”。伯爵と侯爵よりさらに上位…貴族の中では、国王と同等の権威を持つ唯一の貴族だ。――そして建国の時代、七百年前から続く、最も古い貴族の家柄でもある」
「めちゃくちゃ気にされるってことか。」
「簡単に言うとそう、でもそれだけじゃなくて」
ゆっくりと広場のほうに向かって歩き出しながら、彼は言う。
「今のこの国では、国王は議会と貴族たちの承認が無ければ即位することが出来ない。人々の集い――”エリュシオン”の主催者であることが、”まことの王の証”とされてきたからだ。
新国王の即位の際には、貴族と自治領代表者の承認が必要となる。でも、他のすべての貴族たちが同意したとしても、クローナ大公ひとりが反対すれば新王は即位することが出来ない。それどころか、…自らは王位に就けない代わり、王位継承権の剥奪権限すら与えられている。クローナ家の当主は、”王に次ぐ王”にして、”王を決める者”と呼ばれている。」
アルヴィスは、深い色の瞳を伏せた。
「いつか次の王が即位するとき、僕は王を決める決定権を持つことになる」
「次の王ったって、お前の兄さんのどっちかだろ? よく知ってる相手じゃないか。何か問題あるのか?」
「……。」
口を閉ざしたまま、アルヴィスは一定の速度で歩き続けている。
彼が何を悩んでいるのか、イヴァンにも全てが分かるわけではなかった。だが、いつか継ぐ家の権勢を思えば、気持ちは分からなくもない。
もしかすると、クローナの当主になるというのは、”王子”でいることよりずっと重たいものなのかもしれなかった。
通りの向こうにクローナ邸の門が見えてきた。入り口にも明かりが灯されている。
「そういや、ティアーナもう戻ってるかな。つーかあいつ、お前の護衛なのに何も言わずに出かけることなんてあるんだな」
「彼女はもう、僕の護衛じゃないよ」
「え?」
「彼女は王室づきの騎士で、王都での案内が本来の役目だったんだ。クローナまで送ってくれたのは、おまけだよ。お祭りであんなことがあったから…。本当は、一人で戻ってくるつもりだった」
意外だった。
だが、考えてみれば当たり前の話だ。アルヴィスは、王家の直系とはいえ、既に王家に属しているわけではない。近衛騎士のベオルフが国王の命令でしか動けないように、宮廷に属するティアーナにとっては、クローナ家の次期当主の護衛は、主君に言いつけられた任務の一つに過ぎないということなのか。
「…そっか。お前を送り届けたから、あいつの仕事はもう終わりなのか。ここでお別れ…んー、そう考えるとなんか寂しいな」
「そうだね」
会話は、そこで途切れた。
「じゃあ、今夜はここで。僕は少し、先生と話すことがあるから」
「ああ。おやすみ」
廊下で別れた後、イヴァンは、去って行くアルヴィスの後姿に目をやった。たぶん彼には、まだ他に、何か一人で悩んでいることがある。
だがそれは、今聞いても教えてはくれないだろう。
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